角川文庫、平成23年発行
寺田寅彦氏は、明治生まれの地震学者で、科学エッセイが秀逸と評価されている方。
名言「天災は忘れた頃にやってくる」の作者でもあり、2009年3月11日の東日本大震災以降、再注目されています。
そんな流れで、この本を手に取りました。
まず、文章が単調で「~なのである」という言い回しが多く、ちょっと閉口気味。
まあ、科学者だから仕方ないか・・・(苦笑)。
めげずに読み進めると、現在でも通用する鋭い指摘が随所にちりばめられていることに驚かされました。
「津波と人間」では、津波被害を繰り返し経験する地域でも、数十年以上間隔が開いたら人間はそのつらさを忘れてしまうのは仕方ない、としています。忘れた頃にやってくる天災よりも、目の前の米びつの方に目が行ってしまうのが現実だと。
そうかあ・・・では冷静に考えると、千年に一度の「貞観津波」を忘れた日本人を責めても仕方ないのかもしれないな、とも感じたのでした。
最終章に収められている「日本人の自然観」は秀逸です。
小文ですが、日本の自然とそれに起因する日本人気質を西洋と比較しながら大きな枠で捉え、簡潔かつ小気味よく記しています。
ハッとしたのが以下の文章;
「西欧科学を輸入した現代日本人は西洋と日本と出自然の環境に著しい相違のある事を無視し、したがって伝来の相地の学を蔑視して建てべからざる所に人工を建設した。そうして克服し得たつもりの自然の厳父の振るった鞭の一打ちで、その建設物が実に意気地もなく壊滅する、それを眼前に見ながら事故の錯誤を悟らないでいる、といったような場合が近頃頻繁に起こるように思われる。」
まるで、3.11の東日本大震災と原発事故、それを教訓にできず原発稼働を続けようとする日本人の失態を名指ししているようではありませんか!
この文章が書かれたのが昭和10年(1935年)と今から80年前。
先人の忠告は、現在の日本人に届くのか・・・。
<メモ>
抜粋集。
■ 「天災と国防」(昭和9年)より
昔の人間は過去の経験を大切に保存しし蓄積してその教えに頼ることが甚だ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に耐えたような建築様式のみを墨守してきた。それだからそうした経験にしたがって作られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。
今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。
■ 「津波と人間」(昭和8年)より
こんなにたびたび繰り返される自然現象(=津波)ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことができていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
津波に懲りて、はじめは高いところだけに住居を移していても、5年経ち、10年経ち、15年20年と経つ間には、やはりいつともなく低いところを求めて人口は移って行くであろう。
我々も昆虫と同様、明日のことなど心配せずに、その日その日を享楽していって、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという捨て鉢の哲学も可能である。
日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくとも毎年1回ずつ1時間や2時間くらい地震津波に関する特別講演があっても決して不思議ではないであろう。
■ 「颱風雑俎」(昭和10年)より
安倍能成(よししげ)君が西洋人と日本人とでは自然に対する態度に根本的の差異があるということを論じていた中に、西洋人は自然を人間の自由にしようとするが日本人は自然に帰し自然に従おうとするという意味のことを話していたと記憶するが、このような区別を生じた原因の中には颱風や地震のようなものの存否がかなり重大な因子をなしているかもしれないのである。
■ 「災難雑考」(昭和10年)より
植物でも少しいじめないと果実をつけないものが多いし、ぞうり虫パラメキウムなどでもあまり天下太平だと分裂生殖が収束して死滅するが、汽車にでも乗せて少し揺さぶってやると復活する。このように、虐待は繁昌のホルモン、災難は生命の醸母であるとすれば、地震も結構、颱風も歓迎、戦争も悪疫も礼賛に値するのかもしれない。
■ 「日本人の自然観」(昭和10年)より
大自然は慈母であると同時に厳父である。
人間の力で自然を克服せんとする努力が西洋における科学の発達を促した。何故に東洋の文化国日本にどうしてそれと同じような科学が同じ歩調で進歩しなかったかという問題があるが、多様な因子の中の少なくとも一つとしては、日本の自然の特異性が関与しているのではないかと想像される。すなわち日本ではまず第一に自然の慈母の慈愛が深くてその慈愛に対する欲求が満たされやすいために住民は安んじてその懐に抱かれることができる。一方ではまた、厳父の厳罰の厳しさ恐ろしさが身に沁みて、その禁制に背き逆らうことの不利をよく心得ている。その結果として、自然の十分な恩恵を享受すると同時に自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を集収して蓄積することを努めてきた。これは分析的な科学とは類型を異にした学問である。
冬湿夏乾の西欧に発達した洋服が、反対に冬乾夏湿の日本の気候においても和服に比べて、その生理的効果が優れているかどうかは科学的研究を経た上でなければにわかに決定することができない。
床下の痛風をよくして土台の普及を防ぐのは温湿の気候に絶対必要で、これを無視して創った文化住宅は数年で根太が腐るのに、田舎の旧家には百年の家が平気で立っている。
近来は鉄筋コンクリートの住宅も次第に殖えるようである。これは地震や颱風や火事に対しては申し分のない抵抗力をもっているのであるが、しかし一つ困ることはあの厚い壁が熱の伝導を遅くするためにだいたいにおいて夏の初半は屋内の湿度が高く冬の半分は感想が激しいという結果になる。
日本では、土壁の外側に羽目板を張ったくらいが防寒防暑と湿度調節とを両立されるという点から見てもほぼ適度な妥協点を狙ったものではないかという気がする。
単調で荒涼な沙漠の国には一神教が生まれると云った人があった。日本のような多彩にして変幻極まりなき自然を持つ国で八百万の神々が生まれ崇拝され続けてきたのは当然のことであろう。山も川も樹も一つ一つが神であり人でもあるのである。それを崇めそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は到る所の集落に鎮守の社を建てさせた。これも日本の特色である。
仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し続けたのはやはりその教義の含有する色々の因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。
自然の恵みが乏しい代わりに自然の暴威も穏やかな国では自然を制御しようとする欲望が起こりやすい。まったく予測しがたい地震颱風にむち打たれ続けている日本人はそれら現象の原因を探求するよりも、それらの災害を軽減し回避する具体的方策の研究にその知恵を傾けたもののようにも思われる。おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりにも多彩であまりにも無常であったかもしれないのである。
外国の詩には自我と外界との対立がいつもあまりに明白に立っており、そこから理窟が生まれたり、教訓が組み立てられたりする。万葉の単科や蕉門の俳句におけるがごとく人と自然の渾然として融合したものを見いだすことは私にははなはだ困難なように思われるのである。
枕詞と称する不思議な日本固有の存在については未だ徹底的な説明がついていないようである。枕詞の語彙を点検してみると、それ自身が天然の景物を意味するような言葉が非常に多く、中にはいわゆる季題となるものも決して少なくない。枕詞が呼び起こす聯想の世界があらかじめ一つの舞台装置を展開してやがてその前に演出さるべき主観の活躍に適当な環境を組み立てるという役目をするのではないかと思われる。換言すれば、ある特殊な雰囲気を喚び出すための呪文のような効果を示すのではないか。
日本の自然界が空間的にも時間的にも複雑多様であり、それが住民に無限の恩恵を授けると同時に、また不可抗な威力を持って彼らを支配する、その結果として彼らはこの自然に服従することによってその恩恵を十分に享楽することを学んできた、この特別な対自然の態度が日本人の物質的ならびに精神的生活の各方面に特殊な影響を及ぼした。
私は、日本のあらゆる特異性を認識してそれを活かしつつ周囲の環境に適応させることが日本人の使命であり、また世界人類の健全な進歩への寄与であろうと思うものである。
寺田寅彦氏は、明治生まれの地震学者で、科学エッセイが秀逸と評価されている方。
名言「天災は忘れた頃にやってくる」の作者でもあり、2009年3月11日の東日本大震災以降、再注目されています。
そんな流れで、この本を手に取りました。
まず、文章が単調で「~なのである」という言い回しが多く、ちょっと閉口気味。
まあ、科学者だから仕方ないか・・・(苦笑)。
めげずに読み進めると、現在でも通用する鋭い指摘が随所にちりばめられていることに驚かされました。
「津波と人間」では、津波被害を繰り返し経験する地域でも、数十年以上間隔が開いたら人間はそのつらさを忘れてしまうのは仕方ない、としています。忘れた頃にやってくる天災よりも、目の前の米びつの方に目が行ってしまうのが現実だと。
そうかあ・・・では冷静に考えると、千年に一度の「貞観津波」を忘れた日本人を責めても仕方ないのかもしれないな、とも感じたのでした。
最終章に収められている「日本人の自然観」は秀逸です。
小文ですが、日本の自然とそれに起因する日本人気質を西洋と比較しながら大きな枠で捉え、簡潔かつ小気味よく記しています。
ハッとしたのが以下の文章;
「西欧科学を輸入した現代日本人は西洋と日本と出自然の環境に著しい相違のある事を無視し、したがって伝来の相地の学を蔑視して建てべからざる所に人工を建設した。そうして克服し得たつもりの自然の厳父の振るった鞭の一打ちで、その建設物が実に意気地もなく壊滅する、それを眼前に見ながら事故の錯誤を悟らないでいる、といったような場合が近頃頻繁に起こるように思われる。」
まるで、3.11の東日本大震災と原発事故、それを教訓にできず原発稼働を続けようとする日本人の失態を名指ししているようではありませんか!
この文章が書かれたのが昭和10年(1935年)と今から80年前。
先人の忠告は、現在の日本人に届くのか・・・。
<メモ>
抜粋集。
■ 「天災と国防」(昭和9年)より
昔の人間は過去の経験を大切に保存しし蓄積してその教えに頼ることが甚だ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に耐えたような建築様式のみを墨守してきた。それだからそうした経験にしたがって作られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。
今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。
■ 「津波と人間」(昭和8年)より
こんなにたびたび繰り返される自然現象(=津波)ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことができていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
津波に懲りて、はじめは高いところだけに住居を移していても、5年経ち、10年経ち、15年20年と経つ間には、やはりいつともなく低いところを求めて人口は移って行くであろう。
我々も昆虫と同様、明日のことなど心配せずに、その日その日を享楽していって、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという捨て鉢の哲学も可能である。
日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくとも毎年1回ずつ1時間や2時間くらい地震津波に関する特別講演があっても決して不思議ではないであろう。
■ 「颱風雑俎」(昭和10年)より
安倍能成(よししげ)君が西洋人と日本人とでは自然に対する態度に根本的の差異があるということを論じていた中に、西洋人は自然を人間の自由にしようとするが日本人は自然に帰し自然に従おうとするという意味のことを話していたと記憶するが、このような区別を生じた原因の中には颱風や地震のようなものの存否がかなり重大な因子をなしているかもしれないのである。
■ 「災難雑考」(昭和10年)より
植物でも少しいじめないと果実をつけないものが多いし、ぞうり虫パラメキウムなどでもあまり天下太平だと分裂生殖が収束して死滅するが、汽車にでも乗せて少し揺さぶってやると復活する。このように、虐待は繁昌のホルモン、災難は生命の醸母であるとすれば、地震も結構、颱風も歓迎、戦争も悪疫も礼賛に値するのかもしれない。
■ 「日本人の自然観」(昭和10年)より
大自然は慈母であると同時に厳父である。
人間の力で自然を克服せんとする努力が西洋における科学の発達を促した。何故に東洋の文化国日本にどうしてそれと同じような科学が同じ歩調で進歩しなかったかという問題があるが、多様な因子の中の少なくとも一つとしては、日本の自然の特異性が関与しているのではないかと想像される。すなわち日本ではまず第一に自然の慈母の慈愛が深くてその慈愛に対する欲求が満たされやすいために住民は安んじてその懐に抱かれることができる。一方ではまた、厳父の厳罰の厳しさ恐ろしさが身に沁みて、その禁制に背き逆らうことの不利をよく心得ている。その結果として、自然の十分な恩恵を享受すると同時に自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を集収して蓄積することを努めてきた。これは分析的な科学とは類型を異にした学問である。
冬湿夏乾の西欧に発達した洋服が、反対に冬乾夏湿の日本の気候においても和服に比べて、その生理的効果が優れているかどうかは科学的研究を経た上でなければにわかに決定することができない。
床下の痛風をよくして土台の普及を防ぐのは温湿の気候に絶対必要で、これを無視して創った文化住宅は数年で根太が腐るのに、田舎の旧家には百年の家が平気で立っている。
近来は鉄筋コンクリートの住宅も次第に殖えるようである。これは地震や颱風や火事に対しては申し分のない抵抗力をもっているのであるが、しかし一つ困ることはあの厚い壁が熱の伝導を遅くするためにだいたいにおいて夏の初半は屋内の湿度が高く冬の半分は感想が激しいという結果になる。
日本では、土壁の外側に羽目板を張ったくらいが防寒防暑と湿度調節とを両立されるという点から見てもほぼ適度な妥協点を狙ったものではないかという気がする。
単調で荒涼な沙漠の国には一神教が生まれると云った人があった。日本のような多彩にして変幻極まりなき自然を持つ国で八百万の神々が生まれ崇拝され続けてきたのは当然のことであろう。山も川も樹も一つ一つが神であり人でもあるのである。それを崇めそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は到る所の集落に鎮守の社を建てさせた。これも日本の特色である。
仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し続けたのはやはりその教義の含有する色々の因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。
自然の恵みが乏しい代わりに自然の暴威も穏やかな国では自然を制御しようとする欲望が起こりやすい。まったく予測しがたい地震颱風にむち打たれ続けている日本人はそれら現象の原因を探求するよりも、それらの災害を軽減し回避する具体的方策の研究にその知恵を傾けたもののようにも思われる。おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりにも多彩であまりにも無常であったかもしれないのである。
外国の詩には自我と外界との対立がいつもあまりに明白に立っており、そこから理窟が生まれたり、教訓が組み立てられたりする。万葉の単科や蕉門の俳句におけるがごとく人と自然の渾然として融合したものを見いだすことは私にははなはだ困難なように思われるのである。
枕詞と称する不思議な日本固有の存在については未だ徹底的な説明がついていないようである。枕詞の語彙を点検してみると、それ自身が天然の景物を意味するような言葉が非常に多く、中にはいわゆる季題となるものも決して少なくない。枕詞が呼び起こす聯想の世界があらかじめ一つの舞台装置を展開してやがてその前に演出さるべき主観の活躍に適当な環境を組み立てるという役目をするのではないかと思われる。換言すれば、ある特殊な雰囲気を喚び出すための呪文のような効果を示すのではないか。
日本の自然界が空間的にも時間的にも複雑多様であり、それが住民に無限の恩恵を授けると同時に、また不可抗な威力を持って彼らを支配する、その結果として彼らはこの自然に服従することによってその恩恵を十分に享楽することを学んできた、この特別な対自然の態度が日本人の物質的ならびに精神的生活の各方面に特殊な影響を及ぼした。
私は、日本のあらゆる特異性を認識してそれを活かしつつ周囲の環境に適応させることが日本人の使命であり、また世界人類の健全な進歩への寄与であろうと思うものである。