Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

憧れの憤死

2009-02-04 | 徒然雑記

死んでしまいたいと願うことは、生きているうちに都合何回くらい訪れるものだろう。
死んでしまいたいという思いが希望のように暖かく感じられることは、これまで何度くらいあっただろう。
自分や、誰かほかのものに対して「死んでしまえばいいのに」とにこやかに悪態をつくことで自分の身を切る思いをするのは、実際に自分が死んでしまうまでにあと何回くらいやらねばならないことなのだろう。


身体じゅうの痛みにガタガタと震えながら、この暗くて暖かいひとりぼっちの夜をあと何度越えていけば、もっと違う希望がそこに見えてくるのだろう。


中世なんかのヨーロッパでは、なんだか流行りのように「憤死」っていうのがあったかのように世界史の教科書には書いてある。
憤りの果てに死ぬなんてなんかカッコいい。直感でそう思ったときから、「憤死」と「腹上死」は私のあこがれになった。

憤るには力が必要で、絶望するにも力が必要。
憤死に辿り着くまでにはどのくらいの日時とエネルギーが必要なのか、知りたい。
記述によれば、よく「毛穴から憤りのあまり血を噴き出して」とあるが、それは物理的になかなか難しそうだとも思う。判りやすいのは多分脳の血管がぷっつり切れることくらいだが、従来低血圧の私には縁遠そうな気がしないでもない。


ひとりぼっちの夜に、憤死に向けてのやるせないあこがれとかなり果てしなく長そうな道程を思っては、寒い部屋でこうしてキーボードを叩く。
だけれどわたしは、あと数時間も経てば朝のひかりがわたしを暖めてくれることすら信用できない馬鹿だから、そうそう簡単に憤死までの最短距離を見つけることはできないかも、と哀しくなる。