Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

法華寺(十一面観音)

2005-06-22 | 仏欲万歳
 久方振りのシリーズが帰ってきました。
来月、奈良に調査にゆく予定を調整中の為、奈良への里心がついているためと、lapisさんの記事で『幻術の塔』にまんまとかどわかされてしまったためだ。『幻術の塔』がある海竜王寺は法華寺のすぐお隣のような場所にあって、もとは平城宮の鬼門(北東の角)を守っていたために別名「隅寺(すみでら)」と呼ばれているところ。余談はいいとして、そういう位置関係にある為に大抵ここを訪れるときは2寺セットとなることが多く、記憶の中では同じ引き出しに収納されているようだ。片方を引っ張り出すとつられてもう一方も出てくる塩梅だ。

手始めに、十一観音の頭上面の意味は概ね次の通り。

本面     ----- 菩薩本来の慈悲の相
頂上仏面   ----- 究極の理想としての悟りの相
化仏(阿弥陀) ----- 十一面観音が阿弥陀仏の慈悲の心を実践する菩薩であることを示す
菩薩面    ----- 善い衆生を見て、慈悲の心をもって楽を施す(本面と合わせ3面)
瞋怒面    ----- 悪い衆生を見て、怒りをもって仏道に入らせる(3面)
牙上出面   ----- 清らかな行いの者を見て、讃嘆して仏道を勧める(3面)
大笑面    ----- 善悪雑穢の者を見て、悪を改め、仏道に導く

(※化仏は菩薩であることを示す菩薩全般の特徴で、十一面固有のものではない)

 「十一」という数については、あらゆる方向に顔を向けていると言う理念を示す。菩薩が見つめる全方位とは、中心一つ・北・北東・東・南東・南・南西・西・北西の八方向に加え、上方及び下方の合計十一方向。

 教科書的な説明はこの辺で仕舞うことにする。書いていてもさして面白くない。
さて、法華寺の十一面観音はその色もあでやかな秘仏さまで、つい先頃の6月上旬に特別開扉が行われたばかり。こういう秘仏の開扉は観光客を当て込んで秋に集中的に行われることが多いが、蓮の花咲くこの季節にこの開かずの扉を開けることはまるで不文律であるかのように、似合う。
何故なら、画像で一目瞭然だが、この菩薩の光背は異様な姿の蓮光背であるからだ。水分が失われかけているのか、あるいは菩薩の身体から放たれる光と熱が強いためか、くるりんと丸くなってしまっている葉が殆どで、そのひとつひとつの曲線は見事に艶かしく、目を細めたら風もないお堂の中でゆらゆらとそれぞれの茎が異なるリズムを持って揺れているに違いない。

 今までに紹介した仏像と明らかに異なる点は、檀像風の作りであること。檀像とは、元来白檀のような香木を用いた一木造りの彫像であり、香りを消滅させないために素地のまま仕上げているのが特徴であるが、日本では香木の入手が容易でないことから、桜や檜、カヤの木など木目の美しい素材がよく利用される。
法華寺のそれも生地の美しさが全面に押し出され、彩色は頭髪・眉・黒目・髭・唇程度。殊に唇の朱は鮮やかなもので、他の肌目に色彩がないからこそ、見る者の視線は嫌が応でも吸い込まれるように唇に集約される。弘仁・貞観時代の特徴である躍動感のある衣文のドレープの下には、ゴーギャンが描くような豊満で褐色の肌を持つ女性の肉体が美しい木目と艶そのもので表現される。

 和風とも異国風とも取り難いこの菩薩の持つ挑発的な要素はそこだけに留まらない。これまた植物的に長くひゅるっとした右手の指先で天衣を摘み上げる指先の反らし具合。宝瓶を持つ、というよりそっと摘み上げただけの左手の指先同様、非日常的な仕草この上ない。写真を見ながら、是非自分の手で真似てみて貰いたい。しんどいほどの仕草ではないが、自然にしていて生まれる角度でもあるまい。不自然な緊張感が伴うからこその美なのである。

 更に加えるなら、蓮台からはみ出した遊足(体重を乗せていない側の足)の右足の親指も上に反らしている。ちょっと踏み出しすぎた片足が蓮華からはみ出していること自体が示す若干のお行儀悪さがこれまた小悪魔的で、その親指が反っているところに、今まさにこの足が動いていました、という意識の集中を感じさせるではないか。

 犯罪的な程に計算し尽された菩薩の挑発。
 乗る乗らないはこちらの自由。
 ・・乗らないで済まされるものであるのならね。