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江戸時代、草津は本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠屋は七十軒余を有し宿場町として大変賑わったそうです。中でも「田中七左衛門本陣」は建物、敷地とも往時の面影を今に伝え、昭和二十四年「草津宿本陣」として国の史跡に指定されたそうです。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/40/d694cdb257c9973e16e06207dac9a486.jpg)
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今日は家人と「草津宿本陣」見学に行って来ました。家人も子供達も小学生の頃に見学した事が有りましたが、当然ながら私は今回が初めてであります。
入館券売り場で「何処からお見えですか?」と尋ねられ「草津市内です。永年住んでいて今日が初めてなんです。」と照れ笑いで答えると、「そいう方も結構お見えですよ。」の一言でちょっと安堵(何で?)いざ入館。
門から続く白州を通り玄関へ、幅三間、奥行き一間の式台には沢山の関札が展示してありました。関札とは休泊者が持参し、本陣の入り口に標識としてかかげるもので、敬称は付けません。但し公家の方は敬称を付けたそうです。
名前の下に「宿(やど)」とあるのは一行が全ての材料を持ち込み一行の台所役人が料理する。「泊(とまり)」とあるのは本陣が賄いし、「休(やすみ)」とあるのは本陣で休みを取ると言う事だそうです。
また、玄関広間に展示してある大福帳の中には、元禄十二年(1699)7月4日に浅野内匠頭、その9日後に吉良上野介が(松の廊下の2年前)、文久元年(1861)10月22日には皇女和宮が14代将軍家茂に嫁ぐため江戸へ行く途中、この本陣で昼食をとったとか、慶応元年(1865)5月9日には新撰組が宿泊した(幕末だったので規制も緩んだのか)とかの記述もあり、関札や大福帳の保有数は膨大な物で他に類を見ないそうですよ。
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式台を右に入ると長い畳廊下が続き、左側は座敷広間、右側は御善所、東広間。
そして、その奥は一段高くなって上段相の間左に台子の間、上段の間、右側に向上段の間となっていました。
畳廊下
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上段の間
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そして、その奥に庭園があり、両脇に上段雪隠と湯殿が配置されていました。
やはりもっとも奥には主客の部屋があり、避難用の「御除ヶ門」や屋敷の周りは高塀で守られていたようですね。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/ee/2f6826cbaf7ff62f7ad10dfeb789700e.jpg)
本陣職家の住居棟や土蔵は、これらの接客間の右側に土間を挟んで配置されていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/ac/8e8d76866a9da2fe5dd1ab4733932419.jpg)
因みに、建坪四百六十八坪、部屋数は三十室余、二百六十八畳半の建物は平成元年から平成八年まで「半解体修理工事」の平成大修理が行われたそうです。
今回、草津宿本陣を見学して、やはり昔からの交通の要衝、それも2大街道の合流地だけ有って、ここ草津には貴重な歴史的遺産が沢山あることに、今更ながら感心し、またいろいろ調べてみようとする原動力となりました。
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今日は家人と「草津宿本陣」見学に行って来ました。家人も子供達も小学生の頃に見学した事が有りましたが、当然ながら私は今回が初めてであります。
入館券売り場で「何処からお見えですか?」と尋ねられ「草津市内です。永年住んでいて今日が初めてなんです。」と照れ笑いで答えると、「そいう方も結構お見えですよ。」の一言でちょっと安堵(何で?)いざ入館。
門から続く白州を通り玄関へ、幅三間、奥行き一間の式台には沢山の関札が展示してありました。関札とは休泊者が持参し、本陣の入り口に標識としてかかげるもので、敬称は付けません。但し公家の方は敬称を付けたそうです。
名前の下に「宿(やど)」とあるのは一行が全ての材料を持ち込み一行の台所役人が料理する。「泊(とまり)」とあるのは本陣が賄いし、「休(やすみ)」とあるのは本陣で休みを取ると言う事だそうです。
また、玄関広間に展示してある大福帳の中には、元禄十二年(1699)7月4日に浅野内匠頭、その9日後に吉良上野介が(松の廊下の2年前)、文久元年(1861)10月22日には皇女和宮が14代将軍家茂に嫁ぐため江戸へ行く途中、この本陣で昼食をとったとか、慶応元年(1865)5月9日には新撰組が宿泊した(幕末だったので規制も緩んだのか)とかの記述もあり、関札や大福帳の保有数は膨大な物で他に類を見ないそうですよ。
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式台を右に入ると長い畳廊下が続き、左側は座敷広間、右側は御善所、東広間。
そして、その奥は一段高くなって上段相の間左に台子の間、上段の間、右側に向上段の間となっていました。
畳廊下
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上段の間
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そして、その奥に庭園があり、両脇に上段雪隠と湯殿が配置されていました。
やはりもっとも奥には主客の部屋があり、避難用の「御除ヶ門」や屋敷の周りは高塀で守られていたようですね。
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本陣職家の住居棟や土蔵は、これらの接客間の右側に土間を挟んで配置されていました。
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因みに、建坪四百六十八坪、部屋数は三十室余、二百六十八畳半の建物は平成元年から平成八年まで「半解体修理工事」の平成大修理が行われたそうです。
今回、草津宿本陣を見学して、やはり昔からの交通の要衝、それも2大街道の合流地だけ有って、ここ草津には貴重な歴史的遺産が沢山あることに、今更ながら感心し、またいろいろ調べてみようとする原動力となりました。
少し前の布袋葵の記事にマモタンさんが書いてた玉之江のお寺ですが、今日通ったら布袋葵、いっぱい咲いてきれいでしたよ。足場が悪くあまり近ずけないけど。
四国にも本陣が有ったのですね。ほんとにtadashiさんは色々な事に造詣が深いですね。貴ブログ順次読ませて頂いてます。
草津宿本陣の大福帳は元禄5年(1692)から明治7年(1874)の182年間分182冊、関札は木製が約460枚、紙製が約2900枚保存されているそうです。
余談ですが、大修理以前は公民館代わりに使われていた時代も有ったそうです。