階段を降りて、電話台の向こうの風呂場のドアを開けると、ちょうど正面に洗面台があって、大きな鏡に、背後の壁に飾ってある小さな絵が映っているのが、目に入った。ピンクのチョウチョの翅を背中につけた、妖精のような小さな女の子が、ひし形の白い額縁の中で、スカートの端をつまんでポーズをとっている。環は急いでドアを閉めた。
ピンクの翅の妖精は、おかあさんがよく描く図柄のひとつだ。おかあさんの絵は、一応二流の美大を出ただけのことはあって、上手だとは思うけれど、あの図柄は幼稚な感じがするから、環はあまり好きになれない。
環は脱いだセーターをカゴに投げ入れながら、(いいかげん、あれ、外せばいいのに)と、腹立たしげに思った。
(うちのおかあさんて、どうしてこう、変わってるのかなあ……)
環は湯船にどぷんとつかりながら、深いため息をついた。湯加減は少しぬるめで、環にはちょうどいい具合だった。環はお湯の中でゆっくりと足をのばすと、少し黒カビの散った天井を見上げた。
「タマキがおかあさんのおなかにいた時ね、おかあさん、小さな女の子の妖精が、おなかに入る夢を見たの。タマキは、妖精がおかあさんにくれた、最高のプレゼントなのよ」
昔、おかあさんが話してくれたこんな話を、環は長いこと、ほんとのことだと信じていた。友だちに、自分は妖精の生まれ変わりなんだってことを言って、笑われてしまい、泣き泣き家に帰ったこともある。そんな時、おかあさんは環に言ったものだ。
「タマキ、おかあさんは決してウソついたりしないわよ。でもね、世の中には、ホントのことが見えない人が、多すぎるの。だから、ホントのことをいう時は、とても注意しなくちゃいけないのよ」
「注意って、どうするの?」
「ホントのことを、歌や、お話御中に閉じ込めたり、織り込んだりして、それをさりげなく見せてあげるの。ホントのことが込められた歌やことばは、魔法の小箱みたいなものなのよ。それを聞いただけで、みんな、忘れていたことを思い出すわ」
「おかあさん、魔法がつかえるの?」
環は目を輝かせた。おかあさんが魔女だなんて、すごい! そう思った環は胸をわくわくさせながら、おかあさんの返事を待った。するとおかあさんは、意味ありげな瞳で環を見つめ、にっこりと笑った。そしておおげさな動作をしながら、もったいぶった声で言ったものだ。
「ええ、使えますとも!」
環は、手でお湯をばしゃんとたたいた。いやなことを思い出してしまった。あの後、環はクラスの友だちに、おかあさんが魔女だということを自慢してしまい、またばかにされたのだ。
(ああ、もういや!)
環は大きくかぶりをふると、湯船からざっとあがった。
お星さまを渡る龍の話だとか、お花畑にいた迷子の小人だとか、環たちのおかあさんは、昔から、そういうおとぎ話みたいなことを、さも本当にあったことのように話して、子どもたちをだますのが上手だった。今考えると、ほんとにばかばかしくて、おかあさんのあんな手にうまうまと引っ掛かってきた子供時代のことが、今の環にはくやしくてたまらない。
でも、おかあさんの言うことが、全部が全部ほんとじゃないってことを感じ出したのは、いつごろからだろう? 環は頭をごしごし洗いながら、考えた。確か、環が今の要くらいの時には、もうおかあさんのいうことは、ほとんど信用しなくなっていたように思う。
(そうだよね……、普通、二年にもなったら、いいかげん、わかるよね……。おかあさんて、大人のくせに、どうしてそんなことがわかんないのかしら?)
環は頭にお湯をかぶると、ぬれた頭にタオルをまいて、もう一度湯船につかった。
おかあさんは、昔、美大を卒業してしばらくの間、売れないイラストレーターなんかをやってたことがあるらしい。大人のくせに、おとぎ話が好きな原因はそんなことにもあるのかなと思う。
「子どもたちにいっぱい夢をあげられる絵本を作るのが、夢だったの」
以前、そんなことを言っていたのを、思い出す。
おかあさんは、二番目に生まれた要の目が見えないということがわかった時、イラストレーターの夢を一旦あきらめたのだそうだ。でも今は、主婦業の合間をぬってタウン誌のイラストを描いたり、出版するあてのない絵本の絵を、コツコツ描いたりはしている。あと、点訳ボランティアのサークルに入って、目の不自由な子どもたちにも楽しめる絵本などを考えたりも、している。
「最初はびっくりしたけどね。どうしていいかわからなくて、神さまをうらんだりしたわ。でも、後でわかったの。カナメは、おかあさんにすてきなプレゼントを持って生まれてきてくれた、天使なんだって!」
そんなことも言っていた。環はもうだまされないけど、要は、自分が天使の生まれ変わりなんだってことを、今でも信じてるようなふしがある。
いろんなことを一生懸命やって、がんばってるおかあさんを見るのは、環もそんなにきらいじゃない。でも、あの、おとぎ話を本当みたいに言うような癖は、絶対やめてほしいと思う。子どもに話すだけならいいけど、おかあさんは相手が大人だって、おんなじように話すのだ。前に住んでいたオツラン市のマンションでは、おかあさんは「天使の砂田さん」というあだ名で、近所のおばさんたちの間で有名人だった。
おかあさんの言うことを信用しなくなってからも、環は、そんなおかあさんのことが原因で、近所の子どもたちにからかわれたことが何度かある。そういうとき環は、おかあさんには何も言わず、おとうさんの帰りを夜おそくまで待った。おとうさんは常識のわかる人で、環の気持ちもよくわかってくれたから。
「……気にするな、タマキ。あれで、亜智さんは一生懸命つらいことに立ち向かおうとしてるんだ」
おかあさんがおふろに入っている時間などを見はからって、おとうさんは環の話をじっとまじめに聞いてくれた。
「つらいこと?」
「亜智さんは、ノー天気でなんにも考えてないように見えるけどな、要の目が見えていないとわかったとき、ほんとに苦しんだんだ。何もかも自分のせいだなんて言ってな。おとうさんは、亜智さんがいつ自殺するかと思って、見張るのが大変なくらいだった。亜智さんが天使だの妖精だのと口にするのも、多分そのせいだろう。人間、つらいことを耐え抜くためには、……なんていうかな、どうしても、神さまの助けがいるんだよ」
「神さま? でも、ゆっちやまなみんは、神さまなんていないって言うよ」
環がそういうと、おとうさんは困ったような顔をして、しばし考えこんだ。
「……うーん、こういうのは、いるかいないかより、信じるか信じないかの問題じゃないかなあ。……人間はね、とても弱いんだ。強がり言っても、偉そうなことを言っても、いろんなものに支えられないと、生きていけないんだ……」
「じゃあ、神さまって、ほんとはいるの?」
「うーん、どう説明すればいいのかなあ……」
環には、おかあさんの気持ちを全部理解することは、とうていできない。要のことが悲しかったのはわかるけれど、それがどうして天使や神さまとつながるのかと思う。そんな非現実的なものに頼らなければ、つらいことに耐えられないほど、おかあさんは神経が細くて、弱いんだろうか。普段のおかあさんの顔を見る限り、そんな風にはとても見えないけど。
(大人って、ちょっとやそっとの苦しいことにも、笑って耐えられるくらい、強いものだと思うな。……そうよ。わたしだったら、きっと、だれの助けを借りなくても、一人で耐えられる。それが本当の大人ってものよ。おかあさんが、おかしくなっちゃったのは、きっと、心が弱いからなんだ……。ようするに、まだコドモなんだよね)
環は、おとうさんに深く同情してあげたい気分になった。考えてみれば、あんなおかあさんのもとで、環が普通に育つことができたのも、おとうさんのおかげなのだ。常識家のおとうさんがいると、おかあさんのおとぎ話病も、あんまり害にはならないから。おかあさんが、突然、「さあみんな、今日の夕食は、この豚肉と薬草で魔女の儀式をするわよ!」なんて言い出しても、おとうさんの「今夜はナベの方がいいなあ」の一言で、その晩の夕食はちゃんと普通の食事になる。
でも、おとうさんがいないと……。
環の眉がくもった。実を言うと、おとうさんだけをオツラン市に残して、この町に引っ越すことが決まった時、環の最大の心配の一つは、そのことだった。歯止めのなくなったおかあさんが、また変なことをしでかすんではないかしら……。
足ふきマットの上に立って、バスタオルで頭をふきながら、環はふと何かの予感に襲われたような気がして、顔をあげた。くもった鏡の向こうから、白くけむった自分の顔が、ぎょろっとこっちをにらんでいる。
あれは、去年のことだったろうか。おとうさんの仕事の都合で、ゴールデンウィークのピクニックの予定がつぶれたことがあった。その時、おかあさんは、突然「地獄を探検しにいくわよ!」と言いだして、九州まで三日がかりのドライブを決行したのだ。
旅館の予約なんかしてなかったから、ずっと車の中で寝泊まりして、大変な旅行だった。おかあさんは地図を読むのが下手だから、何回も道を間違った。最初のうちは、おいしいラーメンを食べたり、変な博物館でワニの骨に触ったりして、おもしろかったけど、だんだん疲れてきて、後半はもうくたくたで、トイレに行きたくても車から出る気力もない有り様だった。この「探検」を最後まで楽しんでたのは、おかあさんと要だけ。(要のやつ、おかあさんのすることは何だって正しいと思ってるんだから!)
そんなこんなで、ようやく別府についたら、真っ青になったおとうさんが環たちを迎えにきていた。「みんなで地獄に行ってきます」というおかあさんの置き手紙を読んで、肝をつぶしたおとうさんは、あちこちに連絡してみんなを捜しまわったあげく、ようやく別府行きをつきとめて、飛行機で先回りして待ってたんだそうだ。もちろん仕事を休まなくちゃならなかったから、おかあさんはこっぴどくしかられた。
(まさか、あのときみたいなバカはしないと思うけど……)
おとうさんの帰ってくる土曜日、おかあさんはいつもきげんがいい。お小遣いをねだっても、めったに断られることはないくらいだ。アサギリ市に引っ越してきてから、意外におかあさんがおとなしくしてるのも、土曜日にはきちんとおとうさんが帰ってきてたからだ。でも今度は、ひと月以上も、おとうさんは帰って来ない。クリスマスにも、帰れないとなると……。
環はバスタオルをばさっと脱衣カゴの中に落とした。
(……だめだ。きっと何かやらかす!)
環のそのカンは、見事に当たった。
『サンタクロース探偵団。発足式』
翌朝、ぬくぬくと布団にくるまっていた環が、ようやく起き出して、顔を洗いに階下に下りてきてみると、居間の壁にこんな横断幕が張ってあったのだ。
「こ、これ何? おかあさん!」
驚いた環がすっとんきょうな声で言った。
「おはようタマキ。カナメもヒカルももう着替えてるわよ」
おかあさんが台所から、のんびりと答えた。
「あのね、おねえちゃん、これから要たち、サンタクロースを探しに行くんだって!」
冷蔵庫を開けて、ジャムのびんを探っていた要が言った。光はファンヒーターのそばで靴下をはきながら、楽しそうに『ジングル・ベル』を歌っている。環はわけがわからず、きょとんとおかあさんの背中を見つめた。
「さ、パンが焼けたわよ。タマキも突っ立ってないでテーブルにつきなさい。ヒカル、ゆで卵は一つずつよ」
少し不安を感じながらも、香ばしいトーストの匂いにひかれて、環は椅子に座った。おかあさんは、みんなが席についたのを見届けると、突然エプロンのポケットからクラッカーを取り出し、「さあ、いくわよっ」と声をあげた。要があわてて耳に指を突っ込んだ。そして環があんぐりと口を開けて見守る中、おかあさんは天井にクラッカーを向けて思い切りヒモを引っ張った。
すぱーん!!!
環は、コマクが飛び散るかと思った。特有の匂いが広がってきて、飛び出した七色のテープがミルクの中に入った。耳をふさぎそこなった光は、大好きなゆで卵を床に落としてしまった。
「さあみんな、聞きなさい。これから私たちは、探索の旅に出なければなりません!」
テープの束を頭からかぶった要が、わくわくした表情で、おかあさんの方に顔を向けている。おかあさんは環たちの顔を見渡すと、アサガオの種みたいに目を小さくして、にぃっこりと、笑った。そして空になったクラッカーをマイクがわりに、おおぎょうに手振りをまじえて、演説をはじめた。
「昨日、わが家の王子が、友によって一つの試練を授けられました。……果たして、プチ・ノーレのサンタクロースは、ほんものか? いやそもそも、サンタクロースとは何者か? 本当に存在するのか? われわれは、この謎をぜひとも解かなければなりません。そうしなければ王子の名誉が回復できないのです。家族が結束するのは、まさにこの時! 私は本日、『サンタクロース探偵団』を発足することを、ここに宣言します!」
要がぱちぱちと拍手をした。光も卵を拾ってから、あわてて要に続いた。環はパンを口につっこんだまま、呆然とおかあさんの顔を見上げた。
(つづく)