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新聞の父ジョセフ・ヒコの生誕地で顕彰団体が交流「世界や身近なことが分かる、新聞ないと困る」

2022年12月06日 04時28分38秒 | Weblog
標題の見出しで2022年11月19日5:30神戸新聞NEXTが報道しています。
記事の内容としては11月18日に「新聞資料研究会第30回播磨大会」、11月19日
「ジョセフ・ヒコ講演会」が兵庫県立考古博物館で開催された。
(播磨町60周年を記念して開催)
これに合わせて出席し交流したのはジョセフ彦記念会(埼玉県所沢市)、新聞愛好家でつくる
「新聞資料研究会」(東京)、岸田吟香を語り継ぐ会(岡山県美咲町)の3団体。
上記3団体は日本初の民間邦字新聞を発行し、「新聞の父」として知られる兵庫県播磨町出身のジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵、1837~1897年)や、発行に携わった岡山県出身の岸田吟香(ぎんこう)(1833~1905年)を顕彰する団体。

記事内容の詳細は下記リンク

本ブログでは今迄に書いてきたジョセフ・ヒコのブログをレビューした。
今回は日本で初めての新聞を発刊した事象を中心に記す。

ジョセフ・ヒコの一生
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)は日本で最初に民間新聞を発刊したことで知られています。洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)でここではメインとしてこの名前を踏襲するが、アメリカ彦蔵(アメ彦)、浜田彦蔵、ジョセフ彦、浜田彦太郎、墓碑に彫られた浄世夫彦などの別名もある。日本名では浜田彦蔵で幼名は彦太郎天保8年(1837)9月20日に現在の播磨町古宮に生まれました。嘉永4年(1851)、満13歳のときに漂流し、アメリカ船(オークランド号)に助けられてアメリカサンフランシスコに行きます。1年後に香港経由で日本に帰還させられる予定であったが、その年(嘉永5年)10月に香港より再びアメリカへ渡航(2度目)しそして、安政6年(1859)22歳で日本に帰国し領事館通訳などの職につきます。しかし翌年(安政7年)2月に職を辞め、貿易商館を開く。当時は尊皇攘夷思想が支配しており外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、ジョセフ・ヒコは身の危険を感じて文久元年(1861)9月17日に3度目のアメリカに戻った。文久2年 (1862)10月13日、横浜に帰り再び米国領事館通訳の仕事を始めるが、文久3年( 1863) 9月30日、領事館を辞任し商売を始める。この年の秋には漂流記を上梓。さらに元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。慶応2年( 1866) 12月25日(新暦換算)、横浜を去り長崎に向うここで伊藤博文や木戸孝充と知り合いとなる。慶応4年(1868)9月22日生まれ故郷の古宮に帰郷した。東京を中心に活動した。以下の略歴を略す。明治30年( 1897) 12月12日、心臓病で死去。青山の外国人墓地に葬られる。
上の写真は右側のジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)とヴァン・リードがサンフランシスコ
で撮ったガラス板写真。神奈川に訪ねてきた義兄に帰国記念に渡したもの。
1858年に撮影
ヴァン・リード(1835-1873)(Eugene M. Van Reed)は最初の日系ハワイ移民に尽力した人物です。
詳細は下記ブログで書いています。

播磨町が作製したジョセフ・ヒコの生涯を解説したYoutube動画
 播磨町(兵庫県)『新聞の父ジョセフ・ヒコ物語』
 
ジョセフ・ヒコの年表(外部リンク)
 
ジョセフ・ヒコのはじめ物語
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)はギネスブックに残るようなはじめ物語が多数
ありますので紹介します。

1)日本人として禁教後最初にキリスト教の洗礼を受けた。
    1854年10月30日 USA ボルチモアの教会
    名前は Cathedral of The Assumption B.V.M
B.V.Mはラテン語でBeata Virgo Maria出英語では
    Blessed Virgin Maryとなり聖少女マリアと直訳できる。
    この教会は1806年に建てられたものであるが現在もある由緒ある
    教会である。

2)日本人として初めてUSAの大統領(ブキャナン大統領)と合う
    1857年 11月25日

   1962年3月12日にはリンカーン大統領とも会っています。

3)日本人として初めてアメリカの市民権を得る
   1858年6月30日

4)日本人で初めて6,000mの深さの海底を調査。
   1858年9月~11月 測量船の小帆船 クーパー号(ブルック艦長)

5)日本のアメリカ領事館で初めての日本人通訳
   1859年 5月29日 事前に駐日公使ハリスと上海で合流

6)日本で初めての新聞 新聞誌のちの海外新聞を発刊
   新暦で元治元年(1864)6月28日 旧暦では1864年5月25日
   ヒコが岸田吟香、本間清雄らの協力を受けて英字新聞を日本語訳して発刊されました。 
   1号から4号は手写しの新聞誌として創刊されたが2-3か月で廃刊となった。
   翌年の1865年5月の通算5号からは海外新聞(海外新聞第1号)と名称を変更して発刊された。
上の写真は1864年に発刊された日本で最初の新聞「新聞誌」 第1号
 出典:播磨町郷土資料館編 「ヒコの新聞と錦絵新聞」平成25年(2013)Page5
上の写真は海外新聞 第6号の表紙
 出典:播磨町郷土資料館編 「ヒコの新聞と錦絵新聞」平成25年(2013)Page5

7)初めての国立銀行条例をつくる。
   1872年渋沢栄一の下で英国人のシャンド(Alexander Allan Shand)と協働でつくった。

8)神戸で初めての電灯にヒコの精米所の蒸気機関が使用される。
    1884年12月

9)日本人初めての英文の自伝書 The narrative of a Japaneseを発刊
    上巻は1892年 下巻は1895年に刊行

日本国新聞発祥之地の碑 in 横浜関帝廟通 
上の写真は日本における新聞誕生の地のモニュメントです。
説明板の文章は下記のとおり。
 日本における新聞誕生の地
  ここ, 横浜の元居留地141番は, 1864(元治元)年6月28日,
ジョセフ彦が, 「海外新聞」を発刊した居館の跡である。
  彦は, リンカーン大統領と握手した唯一の日本人であった。
リンカーンの民主政治が勃興期の米国の新聞の力に負うところ
大なるを体得し, 開国したばかりの祖国のため, 日本最初の新聞を創刊し,
「童子にも読める」新聞精神を提唱した。
読みやすく, 判りやすい新聞を, 創世記の日本の新聞界に植えつけた
新聞の父・彦の功は大きい。
さらに木戸孝允, 伊藤博文, 坂本龍馬など多くの人びとに 民主政治を
伝えた彦は, 民主主義の先駆者として, およそ新聞を読む ほどの人々の
心の奥に残る文化の恩人であった。
    1994(平成6)年6月28日
    「海外新聞」発刊130年記念日に
        ジョセフ彦記念会
詳細は下記ブログで書いています。

海外新聞発行は26号まで続いたが赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。
海外新聞の定期購読者は4名でしかもすべて九州の人であった。
1部が500文 1年間の購読料にして1両はあまりにも高価すぎた。
拡販のため大半は寄贈された。
それでもジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の新聞は一部の知識人の間で筆写され回覧され
読まれたとのこと。慶応元年(1865)7月発行の第5号にはリンカーンの暗殺をいち早く
報じています。ジョセフ彦は1862年3月2日にリンカーン大統領と会見しています。

ヒコの協力者「岸田吟香」
岸田吟香(1833-1905)は旧旭町栃原出身。目薬や氷の販売、定期航路(横浜-東京間)開設
などを手掛け、明治6年(1873)から東京日日新聞主事となり、日本初の従軍記者として
台湾にも渡った。初めての横組印刷の和英辞典を出版した。
盲亜学校創設など多彩な業績を残した。著名な洋画家「岸田劉生」の父でもある。
玉子かけご飯を愛好し、広めたことでも知られています。

ジョセフ・ヒコ関連の本
上の写真は兵庫県立図書館の郷土資料室での展示の全体を撮ったものです。
ジョセフ・ヒコ関連の本が展示されていました。
撮影:2014-6-18
上の写真はジョセフ彦が日本で初めて新聞を発行した26号までを収納した早稲田大学出版部刊行の
「海外新聞」です。 
更に詳細は下記ブログで書いています。

ジョセフ・ヒコ関連ブログ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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