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承久記絵巻に描かれた承久の乱と北条義時の肖像

2022年02月03日 03時17分35秒 | Weblog

承久記絵巻に描かれた承久の乱について、今年の1月5日にNHKBSPで放送された

英雄たちの選択「北条義時・チーム鎌倉の逆襲」で紹介されていました。

番組で紹介された内容をもとに承久の乱(承久3年(1221)5月~6月)の経過と

北条義時の肖像画を写真紹介します。

参照書としては坂井孝一 著「承久の乱 真の武者の世を告げる大乱」(2018)

参照サイトは80年ぶりに見つかった幻の絵巻物から「承久の乱」を大解説!朝廷と武士による世紀の争いを目撃せよ | 和樂web 日本文化の入り口マガジン (intojapanwaraku.com)

上記本の表紙を下に添付しておきます。

まず、約80年間所在不明であった「承久記絵巻」が令和2年(2020)10月26日、

発見され報道陣に公開された話題から話を始めます。

鎌倉時代の承久3(1221)年に公家と武士の間で起きた承久の乱を描いた唯一の

絵巻ながら、約80年もの間、所在不明となっていた「承久記絵巻」全6巻が見つかった

と、京都市文化博物館が2020年10月26日発表した。2021年は承久の乱から800年の

節目で、同館は2021年4月6日~5月23日に絵巻を展示した。

その後の2021年7月、「承久記絵巻」は、かつて所蔵していた高野山の塔頭寺院「龍光院」

(和歌山県高野町)に寄贈された。

上の写真は2020年1月、80年ぶりに再発見された「承久記絵巻」。絵巻は和歌山県

高野山の龍光院が所蔵し平家物語などと並ぶ4大合戦絵巻とされていたが、昭和14年

(1939)に現在の京都国立博物館で展示されたのを最後に、所在不明となっていた。

上の写真は「承久記絵巻 全6巻」が収められた木箱で木箱には「土佐光信 画」

「月輪禅定(つきのわ ぜんじょう)筆」と書かれています。

土佐光信は室町時代中期から戦国時代前期にかけて活躍した画家で、日本画の一派

「土佐派」の中でも特に優れた3人の1人と言われる人物です。

そして月輪禅定は九条兼実(くじょう かねざね)の出家後の名前です。しかし九条兼実は

鎌倉時代の関白。文字を書いた人と、絵を描いた人の年代が合いません。

巻物の装丁や着色から見ると、江戸初期に書かれた巻物だろうと推測されます。

絵は土佐光信筆とされてきたが、作者不明ながら江戸時代前期に描かれたと推測されます。

絵巻は6巻いずれも幅約0・5メートル、長さ約15メートル。後鳥羽上皇と幕府間で

争った承久の乱を中心に、幕府執権・北条義時追討の院宣発給、敗れた後鳥羽上皇の

御所退出など全36場面で構成される。

上の写真は後鳥羽上皇が三浦氏、小山氏、武田氏などの有力御家人に対して、北条義時追討

の院宣及び官宣旨した文書(日付は5月15日)を三浦義村が義時に差し出す場面。

5月19日の北条義時、北条泰時、北条時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによる

軍議では、箱根・足柄の峠で徹底抗戦をする迎撃論が有力であったが、広元は逡巡して

幕府方の団結がくずれる恐れがあるという理由で即時京への積極的な出撃を主張した。

義時はさらに政子にも相談して迎撃ではなく出撃することを決定。

 

上の写真は北条義時の肖像。上述の場面の拡大版。

鎌倉幕府軍(19万)は3つの軍に分けて京に向けて出陣した。

最初の出陣は北条義時の子の北条泰時である。

上の写真は最初の戦いである大井戸の渡の戦い(東山道 美濃の国)

朝廷軍は幕府軍の10分の1以下の軍勢であった為、1日で幕府軍が圧勝した。

吾妻鏡5月25日条によれば東山道における幕府軍(5万余騎)の大将軍は武田信光、

小笠原長清、小山朝長、結城朝光。

大井戸の渡での朝廷軍は大内惟信、五条有長、糟屋久季

wikipedia(承久の乱:一部加筆)によれば

6月5日、甲斐源氏の武田信光と小笠原長清が率いる東山道軍5万騎は、大井戸渡に

布陣する大内惟信、五条有長、糟屋久季、高桑大将軍(実名不詳)が率いる京方2000騎を

撃破した。この戦いで戦死した高桑大将軍は、『承久記』によると、幕府軍、朝廷軍、

通して承久の乱での戦死第一号とされる。

上の写真は北陸道での戦いで「火牛の計」で幕府軍が朝廷軍を破る様子を描いたもの

吾妻鏡5月25日条によれば北陸道における幕府軍(4万余騎)の大将軍は北条朝時、

結城朝広、佐々木信実

さらに、東海道における幕府軍(10万余騎)の大将軍は北条時房、北条泰時、北条時氏、

足利義氏、三浦義村、千葉胤綱(たねつな)

上の写真は瀬田橋の戦い(6月13日)

上の写真は宇治川の戦い(6月13日)

上の写真は在所から護送される後鳥羽上皇の牛車

上の2枚の写真は牛車付近の拡大版。

後鳥羽上皇(天皇)は牛車の中にいると思われるがわざとその姿が描かれていません。

上の写真は慌てふたむく貴族の姿を表現したもの。ここに貴族から武家の世に移行

していきます。

 

承久の乱を要約すると、鎌倉幕府2代目執権の北条義時を相手に、後鳥羽上皇が

承久3年(1221)に起こした兵乱。上皇側が敗れ、隠岐(島根県)に流された。

幕府はこれを機に六波羅(ろくはら)探題を京都に置いて朝廷の監視を強め、

西国支配を進めた。

この事変により真の武士政権が成立したとされます。

それまでの鎌倉幕府の支配地域は東国のみであった。

 

最後に承久の乱の最終章、宇治・瀬田戦線の地図坂井孝一 著「承久の乱 Page187」

を添付して筆を置きます。

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