CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

志比線刻磨崖仏 on 2011-9-26

2015年01月13日 05時13分34秒 | 旅行記
2011年9月26日に訪問した永平寺バス停近くにある志比線刻磨崖仏を写真紹介します。

こんな古い時期の訪問記を書くようになったのは2015/01/10(土)のNHKBSプレミアムで
ニッポンぶらり鉄道旅「“ニッポンの宝”を探して えちぜん鉄道」で沿線の永平寺等を
高橋光臣さんが訪問する番組を観て書こうと思い立ちました。

永平寺については既に小生のブログにアップ済です。(下記サイト)
  永平寺 on 2011-9-26

永平寺の雪の風景が紹介されていたので写真を撮らせていただきました。


上の写真は越前鉄道の永平寺口を下車し永平寺に向かう高橋光臣さん






上の3枚の写真は永平寺の雪景色。

さて、本題に戻り志比線刻磨崖仏の写真紹介に移ります。




上の写真は志比線刻磨崖仏の碑。


上の写真は線刻された聖観音菩薩像(右)と地蔵菩薩立像(左)です。

聖観音菩薩像は2体、地蔵菩薩立像7体全部で9体あるそうです。

4体に永正年間(1504~1520)の銘があるそうです。
また、施主常祐、妙才、妙鉄の銘も確認されており僧侶の名前であろうと思われる。



上の2枚の写真は志比線刻磨崖仏付近の遠景です


私が訪問した時は説明板が設置されていませんで設置工事の看板(上の写真)が
あるのみでしたが最近訪問された方が説明版を含めた写真を紹介されていました
のでリンクさせていただきます。

http://blogs.yahoo.co.jp/takanorikubo/folder/398923.html

志比線刻磨崖仏を調査した結果報告書が出版されており国立国会図書館や
福井県立図書館で閲覧できます。(下記書籍情報)

書籍名 志比線刻磨崖仏調査報告書
寄与者 永平寺町教育委員会
出版社 永平寺町教育委員会, 1989
ページ数 43 ページ



 

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城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その10 萩八景 遊覧船めぐり

2015年01月08日 06時33分07秒 | 旅行記

萩の散策とグルメシリーズの第10回となります。
本日は萩城跡横の指月橋をスタートし堀内伝統的建造物群保存地区を眺めながら、
橋本川を上る萩八景 遊覧船めぐりを写真と動画で紹介していきます。

過去9回の萩の散策とグルメシリーズの記事内容は以下のとおりです。

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その9 井上剣花坊の川柳碑


上の写真は遊覧船で回るコースの見どころを紹介した説明板


上の写真は遊覧コースです。
船頭さんが萩の見所や歴史を紹介してくれたり、民謡を歌ってくれたり40分間
寒かったが効率的に萩市内を観れました。
萩観光には欠かせないコースだと思います。当日は台風の影響で海が荒れており
堀内疎水、橋本川のみの川沿いを巡るコースとなりました。

以下動画で紹介していきます。

出発です。倉江の帰帆 常盤橋

乗船する場所のGoo地図はこちら
 


観音院が見えてきました。玉江洲(しま) 玉江の秋月
観音院は平成24年3月7日の修理工事が完了(萩市のサイト)
 http://www.city.hagi.lg.jp/site/furusato/2438.html

萩博ブログに掲載されていた北海道の海を拓いた萩の船
明治中ごろの撮影と考えられる玉江浦船溜まりの写真がありました
リンクさせていただきます
 http://hagihaku.exblog.jp/24000420/


堀内伝統的建造物群保存地区
口羽住宅の場所のGoo地図はこちら
 


平安橋が見えてきます


平安(ひやこ)&玉江橋  桜江の暮雪


玉江橋、中尾の渡し かんきつ公園  桜江の暮雪
 


田中義一邸


253mの面影山   小松江の晩鐘


 小松江の晩鐘


Uターン











萩八景について簡単に紹介します。

萩八景とは、貞亨2年(1685)藩主毛利吉就(よしなり)が、お抱えの絵師・雲谷等潘、
歌人・安部春貞、学者・山田原欽の三人に命じて選ばせた橋本川と松本川沿岸の
萩城下の佳景のことです。「萩八景図巻」(防府毛利報公会所蔵)として保存され
現代に伝えられています。萩八景図巻は絹本淡彩、タテ40cm、長さは9mにも
およぶものである。

萩三角州の周囲を取り巻くように作られた「萩八景」である「八江萩」の図巻
には次の8箇所の情景が描かれています。

   倉江の帰帆、玉江の秋月、桜江の暮雪、小松江の晩鐘、

   鶴江の夕照、下津江の落雁、中津江の夜雨、上津江の晴


1倉江の帰帆

遠島や 渡もひとつに 緑なる 雲よりいでて 帰るつり舟

2玉江の秋月

江の水に 移る影さへ 白玉を みがくばかりの 秋の夜の月

3桜江の暮雪

白雪の 夕の色は さくら色 江の波かけて 散るかとぞ見る

4小松江の晩鐘

山の端も 霞わたりて 遠き江の 松より伝う 入相の鐘

5鶴江の夕照
  
鶴のいる 入江の村の 松原に 残る夕日の 影ぞさやけき

6下津江の落雁

有明の 入江の芦の ほのぼのと あくる空より 落つる雁がね

7中津江の夜雨

更る夜の 雨もふる江の しづが屋に 残るも細き 灯火の影


8上津江の晴嵐
  
山川の 瀬々の朝霧 たえだえに 江の浪見えて 行嵐かな

萩八景について詳しく解説されているサイトへリンクさせていただきます。

http://ishike2002.web.fc2.com/hagi/01nature/10_hakkei/10_hakkei.htm

https://www.google.com/fusiontables/DataSource?docid=1M_iB1uNPQ_-Cix5w8zJuOEHnbANLHM5nXuPeNg
 萩八景の絵が記載

写真説明
http://blogs.yahoo.co.jp/naomi_pororon/29559468.html

萩八景遊覧船基本情報
萩八景遊覧船(所要時間40分)
運航期間 3月~11月
運航時間 3月~10月 09:00~17:00受付16:00最終便16:20
11月 09:00~16:10受付15:00最終便15:30
※天気により変動あり
料金 個人;大人1,200円 小人600円
団体(20名以上)大人1,000円 小人500円
貸切(10名以上) 12,000円
定員 12人乗り
乗降場所 萩市堀内 指月小橋横
予約・問合わせ (社)萩観光協会;(0838)25-1750
萩市観光課;(0838)25-3139

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 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その9 井上剣花坊の川柳碑

2015年01月07日 04時18分20秒 | 旅行記
萩の散策とグルメシリーズを再開します。本日は萩出身の川柳作家で新しい作風を
創出し川柳界の正岡子規の異名を持つ井上剣花坊の川柳碑を写真紹介します。


萩の散策とグルメシリーズの第9回となります。
過去8回の記事内容は以下のとおりです。

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡



いきなりですが上の写真が井上剣花坊(いのうえけんかぼう)の川柳碑です。

「絶頂で 天下の見えぬ 霧の海」と詠まれています。

川柳は井上剣花坊52歳(大正12年頃)の作品だそうです。
平成10年(1998)3月に光国忠史氏が建立されました。
光国忠史氏は長州屋光国製菓という和菓子店を経営されています。

また光国忠史氏はしたの写真のような川柳を書かれています。
「見ただけで 碑文は読ます 皆通り」
地元の萩の人々を何ともユーモアたっぷりに皮肉ったもので笑いを誘う
良い作品だと思いました。

長州屋光国製菓のHP:http://www.e-hagi.net/mitsukuni/



井上剣花坊の川柳碑の設置場所は萩グランドホテルの西側 萩市大字古萩町25-26です。

Goo地図はこちら
 

 赤印のところではなく萩グランドホテル西側の長州屋光国製菓の道路に
面したところに碑が設置されています。

萩市内に井上剣花坊及び奥様の井上信子の石碑は20以上設置されています。

これらの石碑を紹介したサイトにリンクさせていただきます。
 http://hagilib.city.hagi.lg.jp/genkou/hagibungaku/bungakuhi5pdf.pdf
 上記サイトのNo.19が本日紹介のものです。

萩市で井上剣花坊顕彰会もあります。(下記サイトで活動を紹介)
 http://hagicenter-yui.jp/lib/24.pdf


上の写真は井上剣花坊を紹介した現地の説明板です。

Wikipediaより井上剣花坊の紹介を引用させていただきます。


井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日(1870年7月1日)~
昭和9年(1934年)9月11日)は、日本の川柳作家。幼名は七郎、のちに幸一。
著書に『江戸時代の川柳』などがある。

明治3年(1870年)6月3日、山口県萩市江向に生まれた。家系は毛利家に仕えて
いたが、廃藩後に没落、父栄祐は1891年に、不遇のうちに亡くなった。

独学で小学校代用教員となり、のちに山口県の新聞社『鳳陽新報』
(のち『長周日報』、その後防長新聞に併合されて消滅)に就職して新聞記者と
なった。同じ頃山県トメと結婚し、3人の子供を授かるも、トメは3人目出産後の
予後が悪く、1898年に他界。なお井上はその3年後の1901年に岡ノブと再婚、
2人の子供をもうけた。同じ1901年には『越後日報』に就職、主筆となった。

1903年7月、『越後日報』を退社し新聞「日本」に入社。ここで剣花坊の筆名で
新川柳の選者を務めた。なお筆名は、山口県で「争気がある人」を「喧嘩ぼう」
といったことから、自らをそれになぞらえて「剣花坊」の漢字を当てたものである。
その後退社したものの、客員として同誌の選者を務めた。
また他に『國民新聞』や『読売新聞』でも選者を務め、新興川柳の普及に努めた。
1905年結成の柳樽寺派の先達としても活躍「大正川柳」(のちに「川柳人」に改題)
を創刊、新興川柳派を支援した。しかし同誌に掲載された鶴彬の句が
治安維持法違反とされたため、同誌は廃刊に追い込まれた。

1929年からは『福岡日日新聞』『主婦之友』『中国民報』でも選者を務めた。

しかし1933年頃から体調不良を自覚し、翌年の1934年には軽い脳溢血を起こして
右半身が不自由となった。1934年9月8日に脳溢血で倒れ、9月11日、仮寓の神奈川県
鎌倉の建長寺で死去した。没後は妻の信子が後継となり、川柳誌を発行し続け、
また川柳作家の鶴彬を支援した。


「萩ものがたりvol.13 川柳中興の祖 井上剣花坊」(井上剣花坊顕彰会監修 
有限責任法人萩ものがたり発行 2006年)という小冊子(以下「小冊子」)
が刊行されており「小冊子」の後半に萩市内にある井上剣花坊の句碑が紹介
されているそうです。



上の写真は萩グランドホテルです。

萩グランドホテル玄関右脇にも井上剣花坊の「あの船のどれにも帰る港あり」
の川柳碑があります。
平成18年3月の建立だそうです
















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 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡

2014年11月25日 18時14分34秒 | 旅行記
2014年10月4日、萩のバスセンターの近くに2010年4月に設置された唐樋高札場(復原)の
写真・動画紹介します。

萩の散策とグルメシリーズの第8回となります。
過去7回の記事内容は以下のとおりです。

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

唐樋高札跡(復原)の設置場所:萩市東田町

Goo地図はこちら
 
 


上の写真は復原された唐樋高札跡の遠景です。


上の写真は説明版の説明。下記のように書かれています。

高札場(復原)
高札場は、幕府や藩からの御触れを記した高札を掲示する場所です。多くの人に知らせるため、道路の交差する辻や街道沿いの宿場町など、人通りの多いところに設けられました。
唐樋札場の高札場には、承応3年(1654)時点で7枚の高札が掲示されていたことが文献記録に残っています。高札には「忠孝にはげみ、親子兄弟仲良くすること」や「田畑を一生懸命耕し、荒さないこと」といった暮らしや仕事に関すること、また、「キリシタン禁令」や「異国船の抜荷禁止」などの禁止事項が記されており、城下での規律正しい生活を促すものでした。この他、磔(はりつけ)や獄門の刑に相当する罪人を見せしめのため、この地に晒場(さらしば)を設け、最長で三日間にわたり群衆の面前にさらすことも行われました。唐樋札場は、明治時代になってその役割を終え、取り壊されました。
唐樋札場跡では平成21年2月から5月にかけて発掘調査を行い、しっかりとつき固められた基礎(版築土)の上で、高札場建物を支えていた柱穴、地面より一段高く見せるための基壇化粧石、細長い延石、雨水を受けるための瓦組遺構などが見つかりました。これらは全て地中に保存されています。建物推定規模は東西3.94m、南北7.51m、4本の柱間距離はそれぞれ1.97mです。
こうした発掘調査の成果と文献記録、絵図、類例建物などを参考にして、高札場を往時の姿に復原しました。
復原された高札場は、高さ5.67m、木造切妻造、鋼板葺(往時は板葺)となります。



上の写真は平成21年の発掘調査の写真です。

現地の動画を添付しておきます。
 





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 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

2014年11月24日 06時20分38秒 | 旅行記
2014年10月4日、萩で人気のグルメ処 割烹 「千代」でランチをいただきましたので
写真紹介します。

萩の散策とグルメシリーズの第7回となります。
過去6回の記事内容は以下のとおりです。

a href="http://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/8565207e8c045ecdd4a5fa0a06b673dd">城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷






割烹「千代」の基本情報

住所:萩市今古萩20-4  TEL:0838-22-1128
料理ジャンル:和食
営業時間:昼 11:30〜14:00/ 夜 17:00〜22:00
 定休日:月曜日 月曜が祝日の場合火曜日


Goo地図はこちら
 

当日、注文したのは私がお造り定食 1,944円(税込)
奥様は甘鯛唐揚げ定食 1,944円(税込)をオーダーしました。

上の写真はメニュー表です。価格は税抜き表示になっています。

私は焼酎のお湯割りを注文 (上の写真)

上の写真はお造り定食の盛合せ。

上の写真は甘鯛唐揚げ定食のメインとご飯及びお吸い物

上の写真はご飯のアップ。

上の写真は小鉢。

上の写真はデザート。

どれも繊細に仕上げられており大満足でした。カウンター席は7-8人が定員なので
 予約をしないと食べられないと思います。是非早めに予約してください。

上の写真はトイレ内の飾りつけ。
おもてなしの心意気を感じました。

上の写真はお店の外観です。

次回、萩を訪問する機会が」あれば再訪したいと思っています。

シリーズの目次

萩の散策とグルメシリーズの記事内容は以下のとおりです。

第1回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

第2回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

第3回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

第4回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

第5回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

第6回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

第7回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

第8回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡

第9回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その9 井上剣花坊の川柳碑

第10回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その10 萩八景 遊覧船めぐり

第11回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その11 萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)

第12回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その12 野山獄跡、岩倉獄跡

第13回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その13 住吉神社

第14回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その14 旧萩藩 御船倉

第15回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その15 梅屋(山本)七兵衛旧宅

第16回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その16 旧山村家住宅

第17回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その17 すし喜でのランチ

第18回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その18 田町・御成道

第19回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その19 旧益田家物見矢倉

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 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

2014年11月23日 06時29分39秒 | 旅行記
2014年10月4日、松陰神社の境内に建てられている「薩長土連合密議之処」と
書かれた石碑の写真を撮りましたので紹介します。

萩の散策とグルメシリーズの第6回となります。
過去5回の記事内容は以下のとおりです。






上の写真が「薩長土連合密議之処」と書かれた石碑です。
石碑は明治維新から100年を記念して昭和43年(1968)に建立。
石碑には右側に「薩州 田上藤七 長州 久坂玄瑞 土州 坂本龍馬」、
中央に「薩長士連合密議之處 岸信介書」、
左側に「文久二年一月 鈴木勘蔵宿之跡」と刻してあります。

石碑の所在地 : 萩市椿東1537 (萩市松本市) 松陰神社内
Goo地図はこちら
 

坂本龍馬は文久2年(1862)1月14日から9日間剣術の研鑽を名目として萩の地を
訪れています。吉田松陰亡き後、攘夷派のリーダーとして長州志士たちの
中心的存在であった久坂玄瑞を訪ね、武市半平太の書を携えてやってきたのだ。
ちょうどその頃、華山三円の書を持った薩摩藩士の田上藤七も萩に滞在
していて、図らずもこのとき 薩摩・長州・土佐の三藩の志士が一堂に
 街道沿いの鈴木勘蔵の旅館(現在は松陰神社の境内)で談合することになった。

坂本龍馬が帰る時に、久坂玄瑞は武市瑞山宛の書簡を託している。それには、藩そのものを
否定しても草莽の志士が結合して実践に移ろうというもので、
松陰の「草莽崛起(そうもうくっき)論」と思想的なつながりを持っている。
 その2か月後、龍馬は土佐藩の政策に反対し脱藩。そして江戸で勝海舟の門に入っています。

シリーズの目次

萩の散策とグルメシリーズの記事内容は以下のとおりです。

第1回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

第2回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

第3回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

第4回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

第5回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

第6回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

第7回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

第8回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡

第9回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その9 井上剣花坊の川柳碑

第10回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その10 萩八景 遊覧船めぐり

第11回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その11 萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)

第12回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その12 野山獄跡、岩倉獄跡

第13回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その13 住吉神社

第14回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その14 旧萩藩 御船倉

第15回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その15 梅屋(山本)七兵衛旧宅

第16回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その16 旧山村家住宅

第17回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その17 すし喜でのランチ

第18回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その18 田町・御成道

第19回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その19 旧益田家物見矢倉

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 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

2014年11月20日 16時43分23秒 | 旅行記
2014年10月4日、松陰神社の境内に建てられている厚東 常吉(ことう つねきち)翁像の
写真を撮りましたので紹介します。

萩の散策とグルメシリーズの第5回となります。
過去4回の記事内容は以下のとおりです。

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

まず、厚東 常吉(ことう つねきち)翁について簡単に紹介します。

厚東 常吉(ことう つねきち) (1884年-1968年)は萩の迎賓館とも称される老舗旅館
「常茂恵」(大正14年11月3日創業)の創業者で実業家であると同時に県会議長や
衆議院議員も務めた政治家でもありました。

厚東 常吉翁の業績で忘れてならないのは松陰神社の建立に尽力したことと、
松本川に架かる萩橋を私費で建設し寄贈したことだと思います。






上の2枚の写真が厚東 常吉翁の銅像です。
像の作者は長嶺 武四郎氏で昭和42年(1967)に建立されました。
台座の名前刻板は内閣総理大臣の岸信介の書によるものです。


上の写真は「常茂恵」の写真です。

常茂恵が創業したのは、大正14年(1925)11月3日のこと。
「萩には中央からの客人をもてなす宿泊施設がない」と貴族院議員の滝口明城 氏、
後の総理大臣田中義一氏、近代日本画家の巨匠 松林桂月氏、実業家の久原房之助氏ら
郷土の名士が厚東常吉翁に相談したのがきっかけでした。

常茂恵の名前は常吉の一字を取って「常に茂って恵みがあるように」との意味を込めて
名づけられたそうです。


 


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城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

2014年10月29日 05時28分44秒 | 旅行記
萩の散策とグルメシリーズの第4回「松浦松洞誕生地」について写真紹介します。


過去3回の萩の散策とグルメです。


城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社



上の写真は松浦松洞誕生地の石碑他。萩循環まぁーるバス東廻り松陰神社前
の停留所の付近にあります




上の写真は現地の説明板です。

上記の説明板をもとに松浦松洞の略歴を紹介します。(下記のとおり)


松浦松洞 まつうらしょうどう

松浦松洞(1837-1862)は幕末の画家。
天保(てんぽう)8年魚商人の正之助の次男として生まれる。
長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士根来(ねごろ)主馬につかえる。
幼時から絵に秀で羽様西涯(はざませいがい)に学ぶ。
上京して四条派の画家小田海韆に師事する。
安政3年(1856)松下村塾にはいり,尊攘(そんじょう)運動に加わる
安政5年(1858)、江戸に遊学し芳野金陵に漢籍を学び萩に帰る。。
安政6年(1859)5月安政の大獄で江戸におくられる吉田松陰の肖像を描き残した。
文久2年(1862)久坂玄瑞らとともに上京、公武合体論を展開していた長井雅楽(うた)
の暗殺を計画するが京都藩邸の穴戸九郎兵衛に遮られ失敗。
文久2年(1862)4月13日時事に憤慨し京都粟田山で自害。26歳。名は温古。
通称は亀太郎。変名に松田和介など。








京都大学附属図書館 維新資料画像データベースのサイトでの
松浦松洞の紹介
松浦松洞が描いた吉田松陰先生の絵もあります。

国会図書館のレファレンス回答「松浦松洞の描いた吉田松陰」
 http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000064373

[転記用URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000064373

参考サイト
  http://bakumatsusanpo.com/matsuura-kametaro.html

  http://town.zaq.ne.jp/report/4swxde5mfowvfxz6t6di

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城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

2014年10月27日 05時13分11秒 | 旅行記
本日(2014-10-27)は旧暦ですが吉田松陰先生の命日です。
 吉田松陰の命日 安政6年(1859)10月27日(1859年11月21日)
そこで本日は松下村塾松陰神社について写真と動画で紹介していきます。

このシリーズで記事を書くのをさぼっていましたが再開します。
過去2回の記事は下記のとおりで記事にリンクしておきます。





いきなりですが松下村塾の動画を下に添付しておきます。



安政2年(1855)12月、獄を出て杉家宅で幽閉された先生は、家族などを相手に、獄内
に引き続いて『孟子』の講義をはじめます。
これに近隣の子弟が大勢参加するようになると、安政4年(1857)11月、杉家隣の小屋
を改装し、8畳1間の塾が開かれました。この時より松下村塾は事実上、松陰先生が
主宰する塾となり、それまでの初代の玉木塾・2代目久保塾とは性格を大きく変貌
させます。尊皇攘夷を旨とし、儒学、兵学、史学などを始めとした広範な学問が教授
され、ただ講義を聴くだけでなく、活発な議論もくり広げられていました。
約二年しかなかった松下村塾ですが92名(諸説ある)が卒業し、維新までにそのうち
20名が亡くなるものの総理大臣2名・大臣2名・県知事4名と、異例な一大学閥と言える
ほどの人材を輩出しています。その名前の一部を列挙しておきます。伊藤博文、
山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎らが、明治政府の
最高指導者を担った。他の門下生には、萩の乱を起こした前原一誠や飯田俊徳、
渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、
中村精男、玉木彦助、飯田正伯、杉山松助、久保清太郎、生田良佐、宍戸璣(山県半蔵)

その後、8畳1間から10畳の講義室を増設しました。これが現在も松陰神社境内に
 保存されている松下村塾です。


吉田松陰先生の年譜を下記に紹介します(Wikipediaより)

文政13年8月4日(1830年9月20日)、長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)に
          家禄26石の萩藩士・杉百合之助、瀧の次男として生まれる。
天保5年(1834年)、父の弟である吉田大助の仮養子[5]となる。吉田家は山鹿流兵学師範
          として毛利氏に仕え家禄は57石余の家柄であった。
天保6年(1835年)、大助の死とともに吉田家を嗣ぐ。
天保11年(1840年)、藩主・毛利慶親の御前で『武教全書』戦法篇を講義し、
          藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
天保13年(1842年)、叔父の玉木文之進が私塾を開き松下村塾と名付ける。
弘化2年(1845年)、山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。
嘉永3年(1850年)、九州の平戸へ遊学。山鹿流兵学者の山鹿万介や葉山左内に学ぶ。また肥後熊本で、宮部鼎蔵を知る。
嘉永4年(1851年)、平戸藩主の参勤交代に従い江戸へ出る。佐久間象山に学ぶ。
          東北地方へ遊学する際、通行手形の発行が遅れたため、宮部鼎蔵らとの約束を
          守る為に通行手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を行う。
嘉永5年(1852年)、脱藩の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育(はごくみ)となる。
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、
          金子重之輔と長崎に寄港していたロシア帝国の軍艦に乗り込もうとするが、失敗。
安政元年(1854年)、伊豆下田港にて、再航したペリー艦隊に金子と二人で赴き、密航を訴えるが拒否される。事が敗れた後、そのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。
安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。その後、叔父の玉木文之進が
          開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を始め、
          幕末維新の指導者となる人材を多く育てる。
安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと激しくこれを非難、
         老中の間部詮勝の暗殺を企て、警戒した藩によって再び投獄される。
安政6年(1859年)、幕命により江戸に送致される。老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、
         江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)


上の写真は吉田松陰先生が両親宛に残した句の説明板です。
松下村塾の入り口少し手前にあります。


次に松陰神社の動画を紹介します。

2014年10月4日に訪問した松陰神社です。
以下松陰神社の公式HPの由緒書きより引用させていただきました
松陰神社の御祭神、吉田矩方命(吉田松陰)が殉節されてから31年後の明治23年(1890)8月、
松下村塾出身者などの手により松下村塾の改修が行われました。
明治40年(1907)、松下村塾出身の伊藤博文や野村靖が中心となって、このほこらを公の
神社として創建しようと、山口県に請願書が提出されました。同年10月4日に、
 当時の社格制度の中で県社の社格をもって創建が許可されました。

松陰神社の基本情報

住所:萩市椿東1537  TEL:0838-22-4643
御祭神:吉田矩方命(吉田松陰)

Goo地図はこちら


関連サイト

 

シリーズの目次

萩の散策とグルメシリーズの記事内容は以下のとおりです。

第1回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

第2回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

第3回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

第4回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

第5回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

第6回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

第7回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

第8回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡

第9回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その9 井上剣花坊の川柳碑

第10回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その10 萩八景 遊覧船めぐり

第11回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その11 萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)

第12回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その12 野山獄跡、岩倉獄跡

第13回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その13 住吉神社

第14回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その14 旧萩藩 御船倉

第15回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その15 梅屋(山本)七兵衛旧宅

第16回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その16 旧山村家住宅

第17回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その17 すし喜でのランチ

第18回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その18 田町・御成道

第19回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その19 旧益田家物見矢倉



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城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

2014年10月10日 05時45分01秒 | 旅行記
2014年10月4日から10月6日まで2泊3日で城下町萩を訪問しましたのでシリーズで紹介していきます。

本日はその第2回で「萩市指定史跡 桂太郎旧宅」を写真・動画で紹介します。
英文表記:Taro Katsura Old Residence
訪問日は2014年10月6日

第1回 旧湯川家屋敷


桂太郎旧宅の基本情報

所在地:山口県萩市川島73番地の2

問い合わせ先:萩市江向510 0838-25-3139 萩市観光課 (平日のみ)
       萩市椿3537-3 0838-25-1750 萩市観光協会

開館時間:9:00~17:00 観覧料:100円/1回


萩市指定史跡指定年月日:平成10年(1998)1月27日

Goo地図   http://map.goo.ne.jp/place/35000257206/



上は桂太郎旧宅の庭の桂太郎の銅像(拓殖大学より寄贈)と水琴窟を中心に撮った動画です

Wikipediaより桂太郎元総理大臣の略歴を紹介します。

桂 太郎(弘化4年(1847年)-大正2年(1913年))は、日本の武士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。
位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功三級。爵位は公爵。諱は清澄。元老井上馨とは義理の親子の関係。
台湾総督、陸軍大臣、内閣総理大臣、内務大臣、文部大臣、大蔵大臣、貴族院議員、元老、内大臣、外務大臣などを歴任
桂太郎は、萩藩士桂與一右衛門の一子として弘化4年(1847) 萩城下の平安古に生まれ、山菜のときに川島に移り住んだ。
藩校明倫館で学び、戊辰戦争では奥羽地方鎮撫総督の参謀として活躍した。明治34年(1901) 内閣総理大臣となり、
以後3度にわたって組閣した。また拓殖大学の創立者としても著名である。
旧宅は、明治40年(1907) に桂が少年時代を過ごした川島の土地を買い戻して新築したものである。


さらに詳細はこちら


上の写真は桂太郎旧宅の入り口よりの遠景


上の写真は桂太郎旧宅付近藍場川の鯉




上の2枚の写真は桂太郎旧宅の現地説明板。


上の写真は桂太郎元総理の略歴が書かれた現地説明板


上の写真は桂太郎旧宅の庭にある水琴窟の原理図です。


上の写真は桂太郎旧宅の平面図 (現地で入手したパンフレットより)


桂太郎の紹介サイト
  明治宰相列伝

桂太郎の墓は遺言により吉田松陰の墓所がある東京都世田谷区若林4丁目35-1の松陰神社に
隣接した場所にあるそうです。

世田谷区の松陰神社の説明 By Wikipedia

東京都世田谷区若林に所在する。旧社格は府社。付近には国士舘大学(世田谷キャンパス)や世田谷区役所がある。
東急世田谷線松陰神社前駅下車。

鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、
高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された。
明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。
現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものである。

松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、
青木周蔵などの名前が刻まれている。松下村塾を模造した建物、頼三樹三郎、広沢真臣らの墓もある。
松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、慶応4年(明治元年)、木戸孝允が
これを修復整備した。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。
また、敷地に隣接する形で桂太郎の墓もあるが、案内が不十分なこともあり、参拝者は少ない。
桂自身の遺言により、この地に埋葬された。


徳富蘆花の「謀反論」でも書かれているが谷を挟んだ向こう側には豪徳寺がある。豪徳寺は吉田を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の菩提寺である。










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