CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

明治期の垂水海神社と海神社宮司の上月豊蔭の顕彰碑

2019年01月18日 05時40分15秒 | 神戸情報

主題とは異なりますが、まず海神社の概要説明を行います。
海神社は底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三神を祀っており、社伝では
千数百年の歴史があり、神功皇后が三韓へ出兵帰途のとき、垂水沖で軍船が暴風雨に
見舞われたが、鎮静を祀ったところ、暴風雨がおさまり、無事に都へ帰れたというのが
鎮座の由来とい言われている。通常かいじんじゃという名前で呼ばれていますが
「綿津見(わたつみ)神社」という別名で呼ばれる場合もあります。
別称としては他に日向大明神、衣財田大明神、海(あま)神社、垂水(たるみ)神社。
神戸市垂水区を代表する神社である。

毎年10月10日より12日に行われる秋の例祭は垂水地区の布団太鼓の練りがあり
賑わいます。秋の例祭では船舶の安全を願い魚業発展を祈願する海上渡御と陸上での
神輿巡業もあります。

秋の例祭関連のブログ:2018年 海神社秋祭り

           2017年 海神社の秋祭り

           2016年 海神社秋祭りの情報

海神社の基本情報

住所:神戸市垂水区宮本町5-1  TEL:078-707-0188及び0189
御祭神:底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神
末社:蛭子神社、天神社


公式サイト:http://kaijinjya.main.jp/

明治期の海神社

上の写真は明治26年(1893)に出版された「明治新撰 播磨名所図絵」(中谷興助著 
大阪工新図匠舘) 昭和50年(1975)全復刻版に掲載の海神社の図です。


明治期の海神社の事蹟を箇条書きしておきます。

 明治4年(1871)5月14日 国幣中社に列せられる
              出典:兵庫県神社誌・神宮官国幣社一覧
  江戸時代の初頭より「日向大明神」と呼ばれていたが、明治4年(1871年)に
  国幣中社に列格した際に「海神社」に復称した
              出典:Wikipedia

  太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」によって近代社格制度が制定
   出典:神戸の空の下で。~街角の歴史発見~のサイト

 明治7年(1874)11月8日 正遷宮
              出典:橋本覚書

 明治8年(1875)8月1日 火災発生
              出典:古事談 第7本


 明治30年(1897)3月15日 官幣中社に昇格した。
              出典:Wikipedia


 「ワタツミ」の読みは本居宣長の説に基づきつけられた。

上月豊蔭宮司の顕彰碑



上の写真は明治期に長くにわたり海神社の宮司を務めた上月豊蔭の顕彰碑の遠景と近景
設置場所は駐車場の詰所(トイレの近く)の脇にあります。
はっきりと読み取れない部分が大半ではあるが顕彰碑の内容から読み取れたことと
上月豊蔭宮司について調べた判った事を記載していきます。

上月豊蔭 (こうづきとよかげ)1840年-1900年

明治時代の歌人。
天保11年(1840)生まれ。姫路藩士の子。和歌を本居豊穎(もとおり とよかい)に学び
また書がたくみであった。
上月刑部少輔の末裔。上月刑部少輔景盛(上月次郎)は上月荘(佐用郡上月村)に住む。
建武元年(1334)上月山城築城。景盛の子の上月刑部少輔景忠が居城としたとする。
父親の名前は為彦。
海神社の宮司になる前は兵主神社の神職を務めていた
明治6年(1873)神戸・垂水の海(わたつみ)神社の宮司となる。
        死去までの28年間宮司を務める。
明治33年(1900)11月5日死去。60歳。通称は修理之進。号は桜花真人。
明治33年(1900)11月7日に正六位を叙勲


顕彰碑は明治34年(1901)11月に建立
東京府知事 正三位勲三等男爵千家尊福翁が題額の字を書かれています。
千家と言えば出雲大社の宮司として有名ですが千家尊福は
「♪と~し~のは~じめのためしとて~」で知られる唱歌 「一月一日」の作詞者です。
文章は従四位勲四等の本居豊穎が担当
顕彰碑の書は正七位の海神社宮司 田村千秋



境内写真(2019-1-16)





海神社関連ブログ:
 海神社の「とんど焼き」と「初えびす」 on 2018-1-10

 旧垂水警察署の庁舎
  昭和30年台から昭和40年代の海神社の鳥居が写っています。

 十日戎

 寳ノ海神社=宝ノ海神社と海神社の鳥居  on 2016-10-12

 山田岸松氏の銅像 in 2016-10-12

 海神社の夏祭り (夏越しの大祓) on 2016-7-18


 海神社---神戸市垂水区

 布団太鼓の屋台の部分名と海神社秋祭宵宮(ふとん太鼓巡行)on 2014-10-11

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょこっと関西 歴史たび 明石城

2019年01月17日 17時08分15秒 | 神戸市以外の兵庫県
JR西日本は「ちょこっと関西 歴史たび」というキャンペーンを2013年から実施
されています。毎年、春、夏、秋、冬の4回。関西の由緒ある史跡を選び、期間限定の
特別公開や特別講座、ガイド付きウォークなど魅力的な企画です。

2019年1月12日(土)から3月22日(金)までは明石城のキャンペーンです。

本ブログではキャンペーンの内容をJR西日本のPR誌「西NAVI」より紹介するとともに
明石城に関する歴史を中心に記載していきます。

PR誌「西NAVI」
 明石市立文化博物館

 撮影禁止となっていますので私が撮った写真はありませんが1月12日(土)に訪問済
 同時開催の竹久夢二展については下記ブログを作成済です。
  明石市立文化博物館 新春特別展 竹久夢二展 見学記 on 2019-1-12

また、下記サイトで明石市市制100周年及び明石城築城400周年記念に関して
 ブログを作成していますのでリンクしておきます。
 明石市市制施行100周年イベント予定 目玉は11月23日-24日開催予定のB-1グランプリ








上の4枚の写真は西NAVIで紹介の展示内容の解説
実際の展示では明石城を説明したビデオや場内、武家屋敷、商人が住んだ城下町の
区域が判るパネルが判り易い解説であった。
また城郭復元のジオラマも理解しやすい展示であった。



上の写真は1月12日(土)18:30からのテレビ大阪の番組「おとな旅あるき旅 
兵庫・明石へ!冬に食べたい瀬戸内の幸と明石名物を堪能」よりジオラマに主要な
名称を記載したものです。


上の写真は同じくテレビ大阪の番組よりで第8代明石藩藩主・松平直明の鎧兜などの展示


上の写真は明石市立博物館の掲示板に掲示のPRポスター
撮影:2019-1-12


上の写真は「ちょこっと関西 歴史たび 明石城」の幟旗
撮影:2019-1-12

明石城の歴史

概要説明
 明石城の概要説明を明石城パンフレット(一部加筆)より引用紹介します。

「元和三年(1617)、小笠原忠真(おがさわら ただざね)が信州松本より
明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上
(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。
現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する
備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。
徳川秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるように命じ、3ヶ所の
築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目
(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。
この頃、姫路藩本多忠政に仕官していた宮本武蔵が町割り図を作った。

石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ
工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、
三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり
、幕府より
派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。
幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は
幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。

普請を終え、同年九月から藩主忠真により櫓、御殿、城門、塀などの作事
(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城と
なった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。
創建当初の坤櫓については次の資料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け
移築されたことを示している。
「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」
                          『小笠原忠真年譜』
「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」
                           『笠系大成附録』
各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。

築城当初の明石城は、本丸に三層の御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、
天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。」




上の写真は昔の明石城を示したもです。
現在は無い外堀や外堀の門、居屋敷の周囲に設けられていた内堀、さらに現在は一部
埋め立てられた中堀のかっての姿がわかります。
出典:郷土の城ものがたり 東播磨編 兵庫県学校厚生会(1973)Page14


上の写真は明治19年(1886)測量の大日本帝国参謀本部陸軍部測量局が作成した地図に
掘、川、海、池など水に関する場所と西国街道を色付けしたものです。
外堀や藩主の居舘のあった内堀が正確に描かれているので江戸時代後期の姿に近いものが
推定できる地図でもあります。
また中堀でも現在は埋め立てられて見られない部分の以前の状態が判る。
出典:明石城関連絵図資料集Ⅱ 明石葵会 平成29年(2017)3月発行 Page44

明石城下全体を観る資料として添付しました。


上の写真は明石市立図書館から観た明石城の遠景です。
西(左手)の櫓(やぐら)が坤(ひつじさる)櫓、東(右手)の櫓が巽櫓
現存するのは上述の2つの櫓ですがかっては北東の艮櫓(うしとらやぐら)や
北西の乾(いぬい)櫓も存在していましたが、明治の廃城後の明治14年(1881)に
取り壊されてしまいました。
撮影:2019-1-10


明石城各論

坤櫓
本丸跡に残る巽櫓(たつみやぐら)と坤櫓(ひつじさるやぐら)は、
元和5年(1619)年城主小笠原忠真が築城したとき建築されたものです。
巽櫓は船上城から移築され、坤櫓は伏見城から移設のものと伝えられています。
元和6年(1620)4月に移築建設が完了したそうです。

2012年11月10日の訪問記にリンクしておきます。
 明石城 坤櫓(ひつじさるやぐら)訪問記 on 2012-11-10

今回のキャンペーンでは2階及び3階も公開されます。(詳細は下の西NAVI記事)


上の写真は天守台から観た坤櫓
撮影:2019-1-12


上の写真は入り口側(正面)から観た坤櫓 撮影:2019-1-12








上の4枚の写真は1月12日(土)18:30からのテレビ大阪の番組「おとな旅あるき旅 
兵庫・明石へ!冬に食べたい瀬戸内の幸と明石名物を堪能」より坤櫓関連写真


上の写真は(公財)兵庫県園芸・公園協会 明石公園が作成した「明石城の歴史」の
リーフレットの添付資料で建築装飾の概要が理解できます。

巽櫓
巽櫓は船上城から移築されました。2016年4月30日(土)の訪問記にリンク。
 明石城 巽櫓 一般公開 見学記 on 2016-4-30


上の写真は2019年1月12日撮影の巽櫓

本丸土塀



現在工事中の内容掲示

歴代城主

上の写真は明石シニアカレッジゆう・あい明石グループが2018年11月30日に発刊された
「明石城のことがよくわかる 楽しい 明石城学」の歴代城主のひょうです。
上記の冊子の表紙も添付しておきます。


下の写真は上述の明石シニアカレッジゆう・あい明石グループが纏めた初代藩主小笠原忠政の
系図です。


明石城の築城に深く関与した初代明石城藩主「小笠原家」は姫路藩主の本多忠政とも
深い関係があります。

明石城ゆかりの寺社
高家寺
高家寺(こうけじ)は初代城主小笠原忠政が再建したとされる寺院です。
高家寺の訪問記にリンクしておきます。

 高家寺と太寺廃寺塔跡 on 2012-10-26



上の写真は高家寺(こうけじ)本堂 撮影2012-10-26


上の写真は西NAVIの記事

本松寺

上の写真は本松寺の本堂。(2008-6-12撮影)

訪問記にリンク
 本松寺庭園


月照寺

上の写真は播州名所巡覧絵図(作者は秦石田、絵師:中井藍江)文化元年(1804)刊
の図絵

2008年6月12日の月照寺訪問記にリンクしておきます。

 月照寺



長寿院



上の2枚の写真は長寿院に眠る越前松平家の歴代藩主の墓
出典:明石市ふるさと図書館の展示より(2019-1-12撮影)

8代目以降の藩主について記載しておきます。
8代目城主は松平直明(1682-1701)
 明石藩主8代目松平直明公から15代松平斎宣公までの歴代の
 城主とその夫人、子供など約60基の御廟所となっている松厳山長寿院を

9代目城主は松平直常(1701-1743)
10代目城主は松平直純(1743-1764)
11代目城主は松平直秦(1764-1784)
12代目城主は松平直之(1784-1786)
13代目城主は松平直周(1786-1816)
14代目城主は松平斉昭(1816-1840)
15代目城主は松平斉宣(1840-1844)8万石
 松平斉宣(なりこと)は徳川将軍家斉の25男で養子に来て明石城主となった
 養子に迎える見返りに2万石加増された。

16代目城主は松平慶憲(1844-1869)
 松平慶憲(よしのり)の時代、鳥羽伏見の戦い(1868)で山陽鎮撫使
(さんようちんぶし)が通過する際、それまで佐幕の方針を貫いてきた
 明石藩であったが藩の存続のため恭順した。
 江戸の明石藩邸にいた大目付の津田柳雪は脱藩し松石隊を結成彰義隊に加勢
 明治4年(1871)5月10日の上野戦争に加わった。
 上野戦争で松石隊は津田柳雪の子芳之助ら7人が戦死し壊滅。

17代目城主は松平直致(1869-1869)
   
松平 直致(まつだいら なおむね、嘉永2年8月4日(1849年9月20日) -
明治17年(1884年)6月28日)は明治2年(1869年)慶憲の隠居に伴い家督を
相続する。同年6月版籍奉還で知藩事となる。この年、鎮姫と婚姻する。

明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県により明石県が置かれ、知藩事職を
免官となる。東京へ移住する。その後、11月2日(12月13日)に明石県は姫路県
に併合され、1週間後に姫路県は飾磨県と改称された。
明治6年(1873)の廃城令により門や櫓が解体される運命に
明治17年(1884年)に病没し、弟の直徳が家督を継いだ。


2008年7月20日、長寿院への訪問記にリンク
 明石長寿院

魚の棚
現在魚の棚商店街は観光の目玉になっており観光客も多い。地元の人からは「うおんたな」と
呼ばれ親しまれています。魚屋、練り製品、乾物などを中心に100軒あまりの店がある
そうです。
西NAVIのキャンペーンに合わせ「もぐチケ」330円も販売されています。
先着で「イラストで描く散歩地図」がプレゼントされるそうです。
下記のブログで最近撮影した魚の棚の写真を掲載しています。
 時を刻むまち 明石

2008年3月3日の魚の棚訪問記にリンク
 魚の棚商店街
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神戸西神中央そごう内の東天閣でのランチ on  2019-1-8

2019年01月16日 06時19分40秒 | 神戸情報
2019年1月8日(火)に神戸西神中央そごう内の東天閣でランチをいただきましたので
写真紹介します。

東天閣西神店の基本情報
住所:神戸市西区糀台5-9-4 そごう西神店5階 TEL:078-991-1122
料理ジャンル:中華料理


公式HP:http://totenkaku.com/



上の2枚の写真は私が選んだ日替わり定食 1,250円(税別)と内容が書かれたパネル




上の2枚の写真は奥様が選んだ海鮮あんかけ焼きそば 1,500円(税別)と内容が書かれた
パネル

当日は神戸市埋蔵文化財センターで常設展示などを観ていました。
3階に掲示されていたポスターから現在(2019-1-16)も観覧できるイベントを
ピックアップ添付しました。

キトラ古墳壁画保存管理施設



大阪府立近つ飛鳥博物館





姫路市埋蔵文化財センター




今城塚古代歴史館


八尾市立埋蔵文化財調査センター


桜井市立埋蔵文化財センター
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明石市市制施行100周年イベント予定 目玉は11月23日-24日開催予定のB-1グランプリ

2019年01月15日 17時12分15秒 | 神戸市以外の兵庫県
大正8年(1919)11月1日に誕生した明石市は、2019年11月1日に100周年を迎えます。


2019年1月1日に発行された広報あかし No.1276号に100周年を記念して予定されている
イベントカレンダーが紹介されています。
関連写真やサイトの紹介を交えて書いていきます。

イベントカレンダー
3月
 23日(土)築城400周年開会式典&オープニングイベント
    プロの和太鼓奏者による「とき打ち太鼓演奏」が披露されます
 29日(金)~
    4月2日(火) 桜のライトアップ

4月
 27日(土)~5月6日(月・休) 明石薪能・能舞台活用イベント

5月
 2日(木・休) あかし伝統夢まつり
          布団太鼓34台 獅子9頭が集結競演の予定

 11日(土)流鏑馬


8月
 1日(木)~9月1日(日) 光の明石城 坤櫓、巽櫓と石垣がカラフルにライトアップ
 
 中旬  テレビ東京 「開運!なんでも鑑定団」公開収録(予定)

9月
 上旬 佐渡裕指揮 兵庫芸術文化センター管弦楽団演奏会(仮)

 13日(金) 明石城観月会

 28日(土)~10月6日(日) 明石薪能・能舞台活用イベント

10月
 中旬  明石城まつり

11月
 1日(金)市制施行100周年記念日

 23日(土・祝)~24日(日) B-1グランプリ全国大会

 30日(土) 桜の記念植樹・築城400周年閉会式典

明石市誕生の頃


上の写真は大正8年(1919)11月1日、全国で81番目、兵庫県内では4番目の市として
誕生した明石市の市制を祝い11月25日から5日間にわたり祝賀行事が行われた時の
様子を示したものです。
提灯行列や相撲大会、花火、イルミネーションなど、市を挙げて盛大に祝賀イベントが
行われたようです。
出典:明石市立ふるさと図書館の展示


上の写真は市制施行を祝い当時の総理大臣原敬からの祝電を紹介したパネル
当時の市域は明石川より東側、人口は3万2000人余りでした。
出典:明石市立ふるさと図書館の展示


上の写真は大正13年(1924)の明石市の地図
出典:明石市立ふるさと図書館の展示

明石市の歴史
明石市の公式サイト(ホーム)へリンクさせていただきました。
 https://www.city.akashi.lg.jp/index.html

ホームから下記のように進んで下さい。
ホーム > 市政情報 > 各課室別案内 > 政策局 > 政策局 市制施行100周年記念事業推進室 > 明石の歴史を写真で振り返る

シンボルマーク


明石城築城400年の記念事業
次に兵庫県が明石城築城400年の記念事業として予定しているイベントを紹介(PDF)
しているサイトにリンクさせていただきました。
 https://web.pref.hyogo.lg.jp/press/documents/20181005_983_1.pdf

明石城の概要説明を明石城パンフレット(一部加筆)より引用紹介します。

「元和三年(1617)、小笠原忠真(おがさわら ただざね)が信州松本より
明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上
(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。
現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する
備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。
徳川秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるように命じ、3ヶ所の
築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目
(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。
この頃、姫路藩本多忠政に仕官していた宮本武蔵が町割り図を作った。

石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ
工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、
三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり
、幕府より
派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。
幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は
幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。

普請を終え、同年九月から藩主忠真により櫓、御殿、城門、塀などの作事
(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城と
なった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。
創建当初の坤櫓については次の資料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け
移築されたことを示している。
「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」
                          『小笠原忠真年譜』
「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」
                           『笠系大成附録』
各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。

築城当初の明石城は、本丸に三層の御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、
天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。」




上の写真は明治19年(1886)測量の大日本帝国参謀本部陸軍部測量局が作成した地図に
掘、川、海、池など水に関する場所と西国街道を色付けしたものです。
外堀や藩主の居舘のあった内堀が正確に描かれているので江戸時代後期の姿に近いものが
推定できる地図でもあります。
また中堀でも現在は埋め立てられて見られない部分の以前の状態が判る。
出典:明石城関連絵図資料集Ⅱ 明石葵会 平成29年(2017)3月発行 Page44


上の写真は明治26年(1893)に出版された「明治新撰 播磨名所図絵」(中谷興助著 
大阪工新図匠舘) 昭和50年(1975)全復刻版に掲載の明石神社の図です。
明石城の本丸のかっての姿が描かれています。
本丸の4隅に3重の櫓が描かれています。廃城後の明治14年(1881)に取り壊された
北東の艮櫓(うしとらやぐら)や北西の乾(いぬい)櫓もかってはこんな位置に
あったことが判る絵です。
明石神社は明治19年(1886)に建立された当時の姿です。
下の方に明治21年(1888)に開通した山陽鉄道(後に国鉄、JR)の軌道と汽車も
描かれています。
人丸社として描かれている場所は現在一丸塚として案内板(下の写真)が掲示されています。



下の写真は艮櫓(うしとらやぐら)の現地説明板
説明で解体されたのは明治初期という表現になっていますが明治14年(1881)
に解体されたと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明石市立文化博物館 新春特別展 竹久夢二展 見学記 on 2019-1-12

2019年01月14日 05時55分37秒 | 神戸市以外の兵庫県
2019年1月12日(土)、JR西日本の歴史たび特別企画「明石城」を観覧する
目的で明石市立文化博物館に行きました。その時「竹久夢二展」が行われていたので
こちらも観覧しました。

絵画展は写真撮影禁止のところが多いが珍しく今回、2階の展示は写真撮影OKで
あったので何枚かの写真を紹介していきます。

竹久夢二展PR看板

上の写真は新春特別展「竹久夢二展」のPR看板です。
見出しに 「大正浪漫 グラフィックデザイナーの原点」と書かれています。
1月4日から2月3日に開催
神戸新聞が2019年1月6日に特集記事を掲載されています。


上の写真はリーフレット裏側
石版画(リトグラフ)、木版画、オフセット、ペン画、書、写真、紙本・絹本彩色、鉛筆画
など種々の技法を用いて作品を残している様子が判りました。
会期中の関連イベントも掲載されています。

明石市立文化博物館の建物外観



上の写真は明石市立文化博物館の建物外観です。

竹久夢二年譜




上の2枚の写真は2階の展示室入口に掲示の竹久夢二年譜
明治32年(1899)4月から12月までの8か月、神戸中学校(現神戸高校)に在学
(叔父、竹久才五郎を頼って)ということで神戸ゆかりの人物でもあります。

良く読めないと思いますので詳しい年譜が書かれた下記サイトにリンクしておきます。
岡山郷土美術館(岡山市中区浜2丁目1-32)の公式サイト

デビューの頃の夢二と美人画

入口に掲示されていたデビューの頃の夢二と美人画

木版画

浮世絵と同じく原画を夢二が制作。彫師と摺師の分業で木版画を制作

関連として港屋絵草紙店の写真と説明パネルを添付(下の2枚の写真)





セノオ楽譜






写真

夢二は写真を撮ることが好きであったようです。
愛用のペスタンカメラと同型のカメラが展示されていました。


写真パネル展示
一番右がNo.176 ペスタンをかまえる夢二 大正初期
一番左がNo.179 机に向かう彦乃 大正10年頃

夢二と3人の女性

お葉




岸たまき




笠井彦乃




塗り絵イベント

上手い塗り絵の作品が展示(1階)されていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金龍閣 名谷店でのランチ on 2019-1-11

2019年01月13日 04時48分27秒 | 神戸情報
2019年1月11日に金龍閣 名谷店でランチをいただきましたので写真紹介します。

金龍閣 名谷店 の基本情報

住所:神戸市須磨区中落合2-2-3 須磨パティオ専門店3番館 1F
TEL:078-791-7166 料理ジャンル:中華料理
 営業時間:11:00~21:30(L.O.21:00) 定休日:なし

公式HP: (シンエーフーヅ)

シンエーフーヅ(株)は金龍閣の他に日本料理系ではたかくら新長田店(2018-5-31閉店)
東京田村 加古川店。

欧風料理ではデルパパさんプラザ店、六甲山牧場の中にシープベル、神戸チーズ、
三木山公園内の旬彩レストラン デルパパ、須磨海浜水族園内の和楽園などを
展開するチェーン店です。

シンエーフーヅの中華料理の店には名谷の他にDuo神戸と西明石に店があります

当日は2人ともにセレクトランチ 1,100円(税込)を注文



奥様は八宝菜をメインとしたセレクトランチを注文。(上の写真)


私はマーボー豆腐をメインとしたセレクトランチを注文。(上の写真)


上の写真はデザートの「おしるこ」



上の写真は当日撮ったPATIOの風景

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創生期の洋紙産業とウォルシュ兄弟

2019年01月12日 04時57分16秒 | Weblog
日本の洋紙の黎明期又は創生期と言われるのは明治7年(1874)から明治12年(1879)に
かけて7つの工場が出来て生産を始めた時期をさします。

本稿では明治12年(1879)4月に上質紙の製造を開始した神戸製紙所(後の三菱製紙)の
創業期に経営に関与したウォルシュ兄弟に焦点を当てて創生期の洋紙産業の概況についても
併せて書いていきます。


参照資料

1)神戸みなと知育講座 Part10 神戸開港150年記念 150年を彩る人々(その2)
   神戸ものづくりはじめ物語:機関車・紙から船まで
    トレビシック兄弟、ウォルシュ兄弟、キルビー、ハンター
     2018年11月24日 神木哲男先生 講演資料

2)紙の活用アドバイス 洋紙と用紙 金児 宰 著 光陽出版社(1992)


3)古代製紙の歴史と技術 Dard Hunter著 久米康生 訳 (2009)


4)紙の源流を尋ねて 『月刊紙パ』抜刷集  高尾尚忠 著 室町書房(1994)


5)外国人居留地と神戸 田井玲子 著(2013)


1.ウォルシュ兄弟

 トーマス・ウォルシュ Thomas Walsh 文政10年(1827)~明治33年(1900)
 ジョン・ウォルシュ  Jhon Walsh  文政12年(1829)~明治30年(1897)

 ニューヨーク州ヨンカーズYonkersでアイルランド系移民の子として生まれる。
 長男はリチャードRichard、次男トーマスThomas、三男ジョンJhon、四男 ロバートRobert

 安政5年(1858)インド・中国を舞台に活躍していたジョンが上海経由で長崎にやって来て
 安政6年(1859)長崎の居留地12番にウォルシュ商会を開いた。兄のトーマスは遅れて来日。
 ウォルシュ商会は機械、武器、船舶の輸入を手がけ、生糸、茶、樟脳を買い付け輸出した。
 ジョンは安政6年(1859)~元治2年(1865)アメリカ合衆国初代長崎駐在領事を務めています。
 文久2年(1862)頃にジョンは日本人の山口リンと結婚し、娘アイコ(1864-1910)を設けた

 安政6年(1859)、横浜の居留地1番にジョージ・ホールと共にウォルシュ・ホール商会を
 創設(通称アメリカ一番=亜米一)し生糸、茶、樟脳を扱う。




上の写真は山口リンと共に修法ガ原の神戸市外国人墓地に眠るジョン・ウォルシュの墓碑
撮影:2018-11-17


出典:https://www.findagrave.com/memorial/78443375

   
https://books.google.co.jp/books?id=Si-NAgAAQBAJ&pg=PT216&hl=ja#v=onepage&q&f=false


https://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man06.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/ウォルシュ兄弟

ウォルシュ兄弟の肖像については下記のサイトで参照することができます。
 https://www.findagrave.com/memorial/78443375/john-glia-walsh


2.ウォルシュ兄弟の来神

 明治元年(1868)の神戸開港と同時に来神、居留地第1回競売(1868-9-10)で
 居留地2番(527坪)にウォルシュ商会(Walsh & Co.)を開業、後に
 ジョージ・ホールと共にウォルシュ・ホール商会(Walsh,Hall & Co.)を開設
 商会の事務所及びThe Japan Paper Making Co.の事務所として使用されます。


3.製紙業の活動経過

 明治5年(1872)、英米人に呼びかけ5万ポンドを資本金としてイギリスの法律による
 株式会社を設立、社名をThe Japan Paper Making Co.とした。
  (日本での商法公布は明治26年以降のことである)
 資本金の半額をウォルシュ兄弟が出資していた。

 明治7年(1874)、雑居地外の海岸沿いの莵原郡小野浜新田の土地を借り受ける
 ことを申請したが許可が得られず、明治8年(1875)1月、神戸区三宮町1丁目外29号の
 民有地2,319坪、借用期間25年、地代は坪4銭で借り受け、工場建設を計画。当初は
 英国人のオルコック氏と木綿ボロからパルプ化し米国に輸出する計画であったが
 米国では輸入パルプに高い関税をかけており、日本の石炭も高価なところから採算が
 合わないこともあってパルプ工場を製紙工場に切り替えることとなった。
 明治9年(1876)3月、工場の建設を抄紙会社(後の王子製紙)の建設を手がけた
 鹿島岩蔵(鹿島建設の創業者)に依頼。完成段階で大幅な資金不足が発生。
 他の出資者が手を引きウォルシュ兄弟が経営を引き受けることとなり、明治10年(1877)
 7月、Kobe Paper Millと会社名を変更。
 Kobe Paper Millの経営はウォルシュ兄弟の二男トーマス(Thomas)、
 三男のジョン(John)を中心に長男のリチャード、4男のロバートも事業を補佐した。


上の写真は神戸製紙所の工場があった位置を示したものです。
出典:田井玲子 外国人居留地と神戸 (2013) Page52


上の写真は神戸製紙所の工場のスケッチ
出典:田井玲子 外国人居留地と神戸 (2013) Page187


上の写真はThe Japan Paper Making Co.の人たち(王子製紙社史)
出典:高尾尚忠 紙の源流を尋ねて (1994) Page320


 明治11年(1878)岩崎弥之助(岩崎弥太郎の弟で米国留学の際ウォルシュ商会の親族
 から援助を受けた)から資金不足を補充するため13万円を借用。
 抄紙機はジョンが渡米し米国(ライス・バートン社製)の72インチ(1.88m)円網抄紙機を輸入し
 据付。明治12年(1879)4月より抄造が開始されました。
 抄造関係の技師としては抄紙会社(後の王子製紙)より小野寺正敬(まさのり)を招き
 指導を受けています。小野寺は明治27年まで神戸製紙所の技師長を務めています。
 神戸製紙所は新聞用紙や印刷用紙を抄造しウォルシュ・ホール商会を通して販売して
 いましたが同商会は輸出入目的の会社であるため製品の消化には限度がありました。
 諸経過があって、明治17年(1884)柏原孫左衛門と契約を結ぶことにより関東の一手
 販売店を持つことができました。
 明治20年(1887)には2.13m幅の長網抄紙機を増設した。
 明治22年(1889)5月、Kobe Paper Millから神戸製紙会社と改称
 明治30年(1897)8月 三男のジョンが急死(68歳、小野浜外国人墓地に埋葬)
   次男のトーマス(当時70歳)は事業を整理し帰国を決意により三菱の岩崎久弥は
   ウォルシュ兄弟の持ち分を買い取り。
   トーマスは事業譲渡後スイスに移住 明治33年(1900)、死去
 明治31年(1898)1月、合資会社神戸製紙所を設立
 明治35年(1902)5月 高砂に新工場建設移転
 明治37年(1904)  三菱製紙所に改称
 大正6年(1917)  三菱製紙株式会社となる 


4.製紙所連合会の結成 
 
わが国の洋紙製造業は西南戦争(明治10年=1877)後から始まった不況のもと、販売不振と
輸入紙との競争に喘ぎ、明治13年(1880)製紙会社(後の王子製紙)の渋沢栄一氏などの
主唱で製紙会社、神戸製紙所など同業者の11名が会合して、同業会組織を結成することを決めた。
これに洋紙商も加わって明治13年(1880)12月製紙所聯合会が発足した。

ウォルシュ兄弟は渋沢栄一と共にこの組織結成の功労者である。
製紙所聯合会は近代工業分野で最初の同業者団体で後の日本製紙連合会に繋がっていきます。

5.黎明期の製紙業

冒頭で述べた創生期の7つの工場とは上述した神戸製紙所の他、日本で最初の製紙会社有恒社、
および抄紙会社(王子製紙)、蓬莱社、三田製紙所、パピール・ファブリックの6つの会社
と明治9年から紙幣用紙の製造が始まった大蔵省紙幣寮抄紙局(現在の印刷局)である。

神戸製紙所を除く5社の沿革について簡単に記していきます。

 (1)有恒社
   旧広島藩主浅野長勲が中心となって東京日本橋に明治5年(1872)設立されました。
   工場建設には至らなかったが明治3年(1871)に設立された日本初の製紙会社
   である洋法楮製商社に続く、2番目の製紙会社であった
   有恒社は明治7年(1874)6月に日本で最初の機会漉きの洋紙製造に成功しました。
   工場の敷地は東京府日本橋区蛎殻町3丁目10番地(水天宮付近)の浅野家所有地。
   抄紙機は60インチ長網多筒式(乾燥筒は0.91mφ12筒)。工場の建設はイギリス人
   建築技師トーマス・ウォートルスの手により建設に着手した。抄紙機をイギリスから
   輸入し、工場の操業にあたってはイギリス人技術者のジョン・ローゼルを雇い入れました。
   社長には浅野家の中野静衛 資本金10.7万円。抄紙機代金は4.2万円。
   トーマス・ウォートルスの助手として多少機械知識のある岡田基三郎があたった。
   工場には旧広島藩の者が多く雇用され、授産事業としての側面も有していた。
   操業開始当初は規定の品質は得られず損紙が多くまた機械トラブルによる休業も多かった。
   操業開始後やっと調子も出はじめ筆記用紙や上質印刷用紙、色紙、吸取紙などが製品の
   域に達したものの今度は需要がなく製品を倉庫に貯蔵させながらの操業が続きました。
   明治9年(1876)大蔵省紙幣寮から証券印紙類の委託がありやっと先が明るくなりました。
   さらに明治10年(1877)に西南戦争が起こり新聞の発行部数が急増、工場の在庫は
   一掃されたという。その後も操業を継続していたが、後発の製紙会社の勢力が伸長
   してきたために明治23年(1890)頃になると業績は低迷した。そこで明治25年(1892)、
   全面的に経営を久保順太郎に委任、彼の下で経営改革が行われた結果建て直しに成功した。
   明治39年(1906)、市区改正に伴って工場移転が必要となったため、浅野家は有恒社の
   廃業を決定した。これに対して久保ら工場関係者は、彼らを中心に株式会社を組織して
   浅野家から事業を継承することに決し、明治39年(1906)12月13日、株式会社有恒社
   を設立した。
   工場の移転先は南葛飾郡亀戸町大字亀戸字高貝洲(現・東京都江東区亀戸9丁目)中川と
   竪川の合流地点が選ばれた。浅野家から譲り受けた機械と一部新調した機械を据え付け、
   新工場は明治41年(1908)9月より操業を開始した。
   大正7年(1918)、会社の中心人物であった久保順太郎が死去しため、経営陣は王子製紙
   に出資を求めることに決し株を売却することになった。
   大正13年(1924)王子製紙(亀戸工場)に併合。昭和18年(1943)に閉鎖。


 (2)抄紙会社(王子製紙)
   明治6年(1873)2月、「抄紙会社」が設立された。この会社が初代王子製紙の
   前身である。輸入に頼っていた洋紙の国産化を企図して、この頃官僚から実業家に
   転身した渋沢栄一が中心となって設立した。洋法楮製商社(1871年設立、製造に至らず)、
   旧広島藩主の浅野家が設立した有恒社(1872年設立)に次ぐ、国内で3番目の製紙会社
   である。設立当初は、両替商の三井組(三井財閥の祖、45%)・小野組 (25%)・
   島田組 (10%) と渋沢栄一 (10%) らが出資していた。

   操業開始は明治8年(1875)7月、抄紙機は英国製78インチ(2m幅)長網多筒式
   英国人のチースメン氏(建築)とボットムリー氏(機械)が技術指導。
   操業開始翌年から、政府から地券状用紙の大量発注があり、この官需が創業期の
   立ち上がりを支えた。官需が減退した後は民需に重心を置くようになり、新聞紙や
   雑誌に用いられる印刷用紙を中心に生産することになる。

   明治9年(1876)5月に抄紙会社から「製紙会社」へと改称

 (3)蓬莱社製紙部
   後藤象二郎氏を創立者とした商事会社蓬莱社の製紙部として大阪・中之島に設立。
   操業開始は明治8年(1875)2月。
   機械は英国製60インチ(1.5m幅)技師はイギリス人のウィリアム・マクファーレン氏と
   エーリング・ボーゲル氏。新聞用紙、帳簿用紙、色紙、包紙
   真島製紙所、大阪製紙所(住友系)、下郷製紙所、中之島製紙所など名称変更の後、
   大正15年(1926)樺太工業と合併 昭和3年(1928)工場は廃止。機械は樺太工業の
   真岡工場へ、その後王子製紙の傘下に。

 (4)三田製紙所
   薩摩出身の林徳左衛門を創立者として東京・三田に設立。明治8年(1875)10月開業。
   機械は米国製57インチ(1.45m)の丸網抄紙機。技師はアメリカ人のエム・ゼ・シェー氏
   林徳左衛門は技術習得の為に甥の村田一郎氏をつけました。
   村田氏はその後富士製紙の2代目社長になっています。
   政府は地券用紙の抄造を三田製紙所に命令。三田製紙所は需要量が膨大であるため
   有恒社、抄紙会社、真島製紙所(蓬莱社製紙部)、パピール・ファブリックに協力依頼
   明治12年(1879)マッチ製造会社の新燧社からマッチ用紙の注文がありこの紙は
   日本で最初の産業用紙となりました。明治13年(1880)真島第二製紙所となりましたが
   明治15年(1882)経営困難のため売り戻され、同年12月、工場火災を契機に廃業。

 (5)パピール・ファブリック
   パピールファブリックは明治9年(1876)京都の西郊梅津に開業した京都府営の
   製紙工場です。ドイツ製1.52m幅長網の抄紙機。技師はルドルフ・レーマン氏と
   オットマン・エキスネル氏。
   翌年には明治天皇が行幸された。明治13年(1880)に磯野製紙所
   さらに明治39年(1906)梅津製紙所となり、その後富士製紙、王子製紙、
   日本加工製紙京都工場と変わり、昭和46(1971)年に閉鎖された。

製紙連合会の下記サイトに簡明に説明されていますのでリンクさせていただきました。
  https://www.jpa.gr.jp/p-world/p_history/p_history_08.html

明治初期の洋紙生産量と輸入量


上の写真は明治初期の洋紙生産量
出典:紙の活用アドバイス 洋紙と用紙 金児 宰 著 光陽出版社(1992)Page249


上の写真は明治初期の洋紙輸入量
出典:紙の活用アドバイス 洋紙と用紙 金児 宰 著 光陽出版社(1992)Page245

明治初期の製紙原料
当時はまだ木材パルプが普及される前で原料はボロ着(木綿ボロ)でしたこのため抄紙工場
は集荷に有利な人口密集地の周辺に立地しています。
木材パルプの発明は木材を機械ですりつぶしてパルプを作る方法(GP)をドイツ人の
ケラーが1840年に発明しています。GPはGround Pulpの略。

ボロ着(木綿ボロ)のパルプ化は苛性ソーダ(NaOH)により蒸煮し漂白して製紙原料とした。

日本におけるプルプ化の歴史を観ると、わらパルプは明治15年(1882)、サルファイト
パルプ(SP)は明治22年(1889)富士製紙 気田で、GPは明治24年(1891)富士製紙 第1で
クラフトパルプ(KP)は大正14年(1925)樺太工業(王子)、溶解パルプ用のサルファイト
パルプ(DSP)は昭和5年(1930)樺太工業(王子)で工業化しています。

明治初期の洋紙製造と関係が深いわらパルプについてもう少し詳しく書くと、欧米では
わらパルプの原料に麦わらを使用。日本では麦より稲が多く採れる条件を生かし、稲わら
パルプを独自に開発。明治15年(1882)には木綿ボロ4に対してわらパルプ6の割合で
抄造しています。このわらパルプの開発は洋紙製造にとって革命的な出来事でした。
原料確保問題の解決、品質向上、量産化など沢山のメリットをもたらしました。

洋紙発祥之地記念碑


上の写真はJR王子駅前の十条製紙の旧工場跡地に昭和28年(1853)に建てられた
洋紙発祥之地記念碑(右手)と洋紙発祥の碑の説明板(By 日本製紙)
出典:Googleストリートビュー

碑文と説明板の文章を添付しておきます。
洋紙発祥之地
此地ハ明治五年十一月渋沢栄一ノ発議ニ因リ創立シタル王子製紙株式会社ガ英国ヨリ
機械ヲ輸入シ洋紙業ヲ起セシ発祥ノ地ナリ当時此会社ハ資本金拾五万円ヲ以テ発足シ
同九年畏クモ明治天皇英照皇太后昭憲皇太后ノ臨幸ヲ仰ギ奉リ東京新名所トシテ一般ノ
縦覧スル所トナレリ 同社ハ昭和二十四年八月苫小牧製紙十條製紙本州製紙ノ三社ニ
分割スルニ至ルマデ名実共ニ日本洋紙界ノ中心タリキ茲ニ八十年ノ歴史ヲ記念シテ永ク
洋紙業発展ノ一里塚トセン
昭和二十八年十月
藤原銀次郎 撰文
高島菊次郎 篆額
近藤高美 書



洋紙発祥の碑
日本の洋紙生産は、 明治6年 (1873年) ヨーロッパの先進文明を視察して帰国した
渋沢栄一 が「抄紙会社」を設立し、 ここ王子に製紙工場を作ったことから始まりました。
田圃の中、 煙を吐くレンガづくりの工場は、 当時の錦絵にも描かれ、 東京の新名所
になりました。その後 日本の製紙業に大きな役割を果たしましたが、 昭和20年 (1945年)
戦災により その歴史を閉じました。
この碑は、 工場創立80周年を記念し、 昭和28年、 その跡地に建てられたものです。
日本製紙株式会社


碑のある場所の写真(2枚)も添付しておきます。
出典:Googleストリートビュー



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十日戎

2019年01月11日 15時00分20秒 | 神戸情報
2019年1月10日、山陽電車の垂水駅で神戸市兵庫区の柳原蛭子神社と明石市の
岩屋神社の十日戎のPRポスターを見つけました。(下の4枚の写真)

今回は行けませんでしたが今後のために記事を書くことにしました。


上の写真は柳原蛭子神社の十日戎のポスター






上の3枚の写真は岩屋神社の初戎祭

えびす神社は全国各地に約3500社ありますが、全国のえびす宮総本社が西宮市の
西宮神社になり、マグロの奉納や一番福のイベントなどが全国区で知られています。

十日戎は七福神の一人でもあるエビス様に商売繁盛を祈願する祭りで関西では
ほとんどの神社で1月9日、10日、11日に行われます。
商売繁盛のほかに無病息災、五穀豊穣、大漁なども祈願します。

関連ブログ:


十日戎


柳原蛭子神社

兵庫七福神めぐり on 2013-1-4

神戸七福神

神戸七福神

海神社の「とんど焼き」と「初えびす」 on 2018-1-10

兵庫県立美術館でのエッチング(銅版画)教室 2017年度前期 銅版画作品第1作(七福神)

兵庫津史跡と兵庫商人の店巡りツアー参加録 on 2014-5-24
柳原蛭子神社も訪問しています。

山手七福神 恵比寿尊 瀧泉寺
東京都山手七福神の紹介

牛島神社

東京都墨田七福神の1つの神社です。

恵比寿神社---由宇町
岩国市の恵比須神社の情報です。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県磯城郡田原本町 散策記 on 2018-11-25 その10(最終回) 唐古・鍵考古学ミュージアム

2019年01月11日 06時03分10秒 | 奈良情報
2018年11月25日、秦河勝所縁の秦楽寺(じんらくじ)と唐古・鍵遺跡を見ることが主目的で
奈良県磯城(しき)郡 田原本(たわらもと)町を散策しました。

散策にあたっては近鉄田原本町駅の前にある観光ステーション磯城の里(田原本町観光協会)
で自転車(1日 1,000円)を借りて回りました。時間は9:30~15:50


本日は田原本町散策シリーズの第10回で唐古・鍵考古学ミュージアムについて写真紹介します。
唐古・鍵考古学ミュージアムは平成16年(2004)11月24日、田原本青垣生涯学習センター
2階に開設された施設で唐古・鍵遺跡及び町内の遺跡の出土品などの展示が行なわれています。
今回でこのシリーズの最終回とします。

過去の散策記

第1回 奈良県磯城郡田原本町 散策記 on 2018-11-25 その1 下之庄不動尊

第2回 奈良県磯城郡田原本町 散策記 on 2018-11-25 その2 秦楽寺

第3回 奈良県磯城郡田原本町 散策記 on 2018-11-25 その3 浄照寺

第4回 奈良県磯城郡田原本町 散策記 on 2018-11-25 その4 本誓寺

第5回 奈良県磯城郡田原本町 散策記 on 2018-11-25 その5 津島神社


第6回 奈良県磯城郡田原本町 散策記 on 2018-11-25 その6 田原本聖救主教会 礼拝堂

第7回 奈良県磯城郡田原本町 散策記 on 2018-11-25 その7 鏡作神社

第8回 奈良県磯城郡田原本町 散策記 on 2018-11-25 その8 安養寺


第9回 奈良県磯城郡田原本町 散策記 on 2018-11-25 その9 唐古・鍵遺跡史跡公園


唐古・鍵考古学ミュージアムの基本情報
住所:奈良県磯城郡田原本町阪手233-1 田原本青垣生涯学習センター2階 TEL:0744-34-7100
開館時間:9:00~17:00(入場は16:30まで) 休館日:毎週月曜日、年末年始
観覧料:大人 200(150)円 高校生・大学生100(50)円 ( )内は団体料金
開館日:平成16年(2004)11月24日


公式サイト:http://www.town.tawaramoto.nara.jp/karako_kagi/museum/index.html


Goo地図を添付しておきます。


展示室の概要

上の写真は3つの展示室の展示内容を示したものです。
出典:唐古・鍵考古学ミュージアムのリーフレット

第1室 唐古・鍵の弥生の世界

出典:唐古・鍵考古学ミュージアムのリーフレット

第2室 弥生の美・形・技

出典:唐古・鍵考古学ミュージアムのリーフレット

第3室 唐古・鍵の周辺遺跡と唐古・鍵集落、その後

出典:唐古・鍵考古学ミュージアムのリーフレット

これからは各室の展示を詳しく観ていきます


展示室は2018年6月にリニューアルオープンされています。
朝日新聞と産経新聞の紹介記事にリンクさせていただきました。
 https://www.asahi.com/articles/ASL5Z3S9SL5ZPOMB006.html


 https://www.sankei.com/region/news/180531/rgn1805310021-n1.html
  373点の重文(考古)が展示


田原本町の広報誌(2018年5月)のサイト(PDF)にもリンクさせていただきました。
 https://www.town.tawaramoto.nara.jp/material/files/group/3/180502_03.pdf


リニューアル前の展示
リニューアル前の展示について詳しく書かれているサイトがありましたので
リンクさせていただきました。
 https://narayado.info/nara/karako-kagi-museum.html


唐古・鍵の弥生の世界

(1)遺跡調査の歩み

出典:唐古・鍵考古学ミュージアム常設展示図録 Page8
唐古・鍵遺跡は,奈良盆地のほぼ中央部を流れる初瀬川が形成した沖積低地に位置する
弥生時代の代表的な大規模環濠集落跡である。人物・シカなどの絵画が措かれた土器や
石器が担土する遺跡として、明治時代から著名であった。昭和12年の京都大学と奈良県
による唐古池の発掘調査によって,多数の竪穴や貯蔵穴,多量の土器・石器・木製品などが
発見された。後に第1次とされるこの調査の成果として,鎌・杵などの木製農耕具や木器の
盛行が日本で初めて確認され,弥生時代の性格が明らかとなり,また近畿地方の弥生土器
編年の基準が作られた。
遺跡の範囲を確認する目的で,昭和42年から昭和56年の間に奈良県教育委員会が5次にわたる
調査を実施し,その後昭和61年から平成9年の間に田原本町教育委員会が6次にわたる調査を
実施し,多重環濠がめぐる我が国有数の大規模な集落跡であることが明らかになりつつある。
また,開発に伴う田原本町教育委員会による事前調査の成果も合わせて,
掘立柱建物、人骨の残る木棺墓、壺棺墓、井戸、橋脚などの遺構や多種多様で多量の遺物など
貴重な発見が相次いでいる。

以上は文化庁の国指定文化財データのサイトより引用


上記の写真のように2018年に唐古・鍵遺跡の出土品1,921点が重要文化財(考古)に指定
関連サイト:file:///C:/Users/Naoshi%20Chiku/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bbwe/TempState/Downloads/唐古・鍵遺跡出土品1%20(1).pdf

京都大学の119点と奈良県立橿原考古学研究所付属博物館所蔵の40点の出土品は昭和42年
(1967)6月に国の重文に指定済みです。


過去の調査内容について簡潔に纏められているサイト(PDF)にリンク
 http://www.town.tawaramoto.nara.jp/material/files/group/34/32809018.pdf

(2)唐古・鍵ムラの成立
 縄文期から弥生期への移行期(紀元前1,000年の頃)唐古・鍵の地は人がほとんど
 住んでいない未開の地であった。そこに農耕技術を持った人達が大和川をのぼり
 やって来てムラを形成していった。
 弥生時代前期前半には馬蹄形をなす微高地上に2〜3の比較的小規模な集落が形成され、
 明確ではないが,前期後半には一都の集落に環濠がめぐらされるようである。
 中期になると,幅釣10mの巨大な環濠を径400mにわたってめぐらせた舵機簿集落へと
 発展する。この環濠の外側にはさらに3〜5条の環濠がめぐり,幅100〜150mの環濠の帯を
 形成している。中期後葉から後期にかけては,この環濠帯は幅150〜200m程度にまで拡大し,
 集落が最も大規模になったと考えられる。この時期には,青銅器の鋳造に関連する遣物が
 集落の東南部から出土しており,付近に工房の存在が推定される。

上の写真は最盛期の唐古・鍵のムラの姿(模型展示)


上の写真は唐古・鍵ムラの面積や人口に関する展示


上の写真は復元された唐古・鍵の倭人の展示

弥生時代は従前はBC3世紀からAD3世紀とされていたが現在はBC10世紀からAD3世紀と
なっています。詳しくは下記ブログ。
 平成29年度 神戸市埋蔵文化財センター連続講座「こうべ考古学」第2回「弥生土器入門講座」 on 2017-8-26

 神戸市埋蔵文化財センター2015年春の企画展「弥生時代のムラ・古墳時代のムラ」


(3)米づくりと食

上の写真は「縄文から弥生へ」と「米づくりと食」の展示遠景


上の写真は「米づくりと食」の展示

(4)弥生のくらし

上の写真は弥生のくらしの展示

(5)まつりと祈り

上の写真はまつりと祈りの展示

(6)西から東から

上の写真は西から東からの展示

(7)弥生の戦い
石製の武器、弓、盾などを展示

弥生の美・形・技
(1)弥生の絵画と記号


(2)弥生の文様と色


(3)弥生の形


(4)編む・織る技


下の2枚の写真は神戸市埋蔵文化財センターの展示




(5)木を加工する技


下の2枚の写真は神戸市埋蔵文化財センターの展示




(6)石と骨を加工する技


(7)鋳物を作る技

上の写真は鋳物を作る技の展示


上の写真は銅鐸の製造法の解説展示

唐古・鍵の周辺遺跡と唐古・鍵集落、その後

上の写真は「唐古・鍵の周辺遺跡と唐古・鍵集落、その後」の展示遠景

(1)唐古・鍵むらの墓地と水田


(2)周辺遺跡

上の写真は阪手東遺跡の展示


上の写真は清水風遺跡の展示

(3)唐古・鍵遺跡から纏向遺跡へ

上の写真は唐古・鍵遺跡から纏向遺跡への展示

弥生時代の末から古墳時代の始めにかけて環濠は認められなくなり集落は衰退した
ものと考えられます。




上の写真は「唐古・鍵遺跡から纏向遺跡へ」に関する資料(位置図)と説明文
出典:唐古・鍵考古学ミュージアム 常設展示図録 Page57

(4)唐古・鍵弥生集落、その後

上の写真は古墳時代の空古・鍵遺跡(4~6世紀)の展示
弥生集落が衰退した100年後の4~5世紀、唐古池の東側の集落が造られた。
発掘調査で出土した大型井戸(5c前半)からは祭祀遺物、土器、腰かけ、田下駄、
手網、木錘、馬の頭蓋骨などが見つかっている。


上の写真は平安から江戸時代の唐古・鍵遺跡(11~18世紀)の展示

(5)埴輪の世界

羽子田古墳群や笹鉾山古墳群から出土の埴輪などが展示されています。

平成30年度 秋季企画展
 期間:10月27日~12月2日  テーマ:「古墳時代黎明~唐古・鍵弥生ムラのその後~」

  観覧させて頂いたが内容は省略


出土品の概要と史跡指定理由
以下は文化庁の国指定文化財データのサイトより引用
出土品には,木製農耕具とその未製品,建築部材,鐸形土製品,楼閣を描いたと
されるものをはじめとした多数の絵画土器,銅矛・銅鏃や青銅器の土製鋳型,
鞘入り石剣,骨角器,刻骨,連結したイノシシ下顎骨,糞石,多量な動・植物遺体
などがあ豊富な内容と量を誇る。
本蓮跡は,弥生時代研究において画期的な基礎を作った学史的に著名な遺跡である。
また,我が国有数の規模を誇る拠点的な多重環濠集落であり,弥生時代の一中心地
であった近畿地方中枢部における社会の実態やその変遷過程を示し,さらに多種多様な
出土遺物は当時の生活の状態を伝える上できわめて重要である。
よって,史跡に指定に指定し保護しようとするものである。



シリーズ連載を終えて 
なんとか記事を書け終えました。
田原元町は大和川流域の水運に恵まれている地で縄文期から人が住み始め、大陸から
渡来した人達が多く住んだ町で古くから農耕が営まれていたこと、倭国の混乱期に
防御の為や水運、生活水としての多重濠を有していたこと。
また、銅を使用した種々の品々を生み出したしていたこと。
ここの文化・技術が纏向遺跡のような都市型遺跡に繋がっていること等
多くの新しい知識を得ることができました。
桃太郎伝説の残る地であるがこの関係については今回は見て回れなかった。
今後、機会があれば再訪したい。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その8 Mamezo & Cafe 大丸神戸店

2019年01月10日 04時31分18秒 | 神戸情報
ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチをシリーズで記載します。
本日はその第8回で「Mamezo & Cafe 大丸神戸店」でのコーヒーを写真紹介します。


訪問日:2019年1月9日(水)
ランパス有効期間:2018年11月15日~2019年2月14日


過去の訪問記:

第1回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その1 ボウルズキッチン

第2回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その2 ON THE CURRY

第3回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その3 よくばりKitchen しりとり

第4回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その4 ガンジ Gange

第5回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その5 ボールズキッチン(2)

第6回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その6  おうどん処 たべよし

第7回 ランチパスポート神戸版(Vol.18)を利用した500円ランチ その7 


「Mamezo & Cafe 大丸神戸店」の基本情報

住所:神戸市中央区明石町40 大丸神戸店9F TEL:078-331-7760
営業時間:11:00~200:30(L.O.)  定休日:不定(大丸に準ずる)
ランパス掲載ページ:Page132


今回のランパスはランチではなくコーヒーとわらび餅のセットで300円
のセットです。


上の写真がランパスのコーヒーとわらび餅のセットです。
コーヒーは大阪にある創業が大正2年の老舗店「ダイヤモンド珈琲」が豆の種類や状態
ごとに焙煎したオリジナルブレンドが提供されています。

大丸神戸店(旧居留地40番)の周辺で当日撮った写真も添付して筆を置きます。


上の写真は旧居留地38番の看板が掛った建物外観 注連縄が掛っています


上の写真は大丸神戸店1階外のカフェ


上の写真は大丸神戸店入口の門松


上の写真は元町商店街の入口の正月飾り
ゲートは 「ラ・ルーチェ」と名付けられています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする