CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

改元に関する話題 その2 平成改元 30年へて新証言

2019年03月14日 04時02分41秒 | Weblog
本日は改元に関する話題の第2回で平成改元 30年へて新証言という話題を取り上げます。
テレビで視聴したが写真を撮っていないので証言関連の写真はありません。

過去のシリーズIndex
 第1回 改元に関する話題 その1 光文事件

平成の改元に関わった元早稲田大学総長の西原春夫さんは1か月を切ったこの時期に
NHKの取材に応じて質問に答えて新証言をされました。

西原さんは、有識者(8人)からなる「元号に関する懇談会」に出席し、民間人として
初めて元号の選定に関わった人物です。

8人の有識者は西原さんの他に池田芳蔵氏、久保亮五氏、小林与三次氏、中川順氏
中村元氏、縫田曄子氏、森亘氏の7人です。

7人の方の肩書はNHKの池田芳蔵会長、物理学を専門とする東京大学の久保亮五教授、
日本新聞協会の小林与三次会長、日本民間放送連盟の中川順会長、
インド哲学を専門とする東京大学の中村元名誉教授、国連婦人の地位委員会の縫田曄子委員、
国立大学協会の森亘会長。

昨日(2019-3-13)のニュースで次のような報道がありました。
内閣官房幹部は予算委で、新元号候補の考案を国文学、漢文学、日本史、東洋史などの
専門家に委嘱する方針を明らかにした。立憲民主党の長浜博行氏への答弁。
政府は新元号選定で「平成」改元時の手続きを踏襲。4月1日に開く有識者懇談会で
数個の原案を示して意見聴取し、閣議で正式に決定する。



全文は下記サイトに書かれています。
 https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/14769.html

発言の要旨を整理しておきます。

1)平成への改元は、昭和天皇の崩御が前提となるため、政府は準備作業を極秘としていた。
  昭和天皇が亡くなられた後、懇談会の設置が初めて公にされ、そのメンバーの陣容は
  当日の午後、有識者が官邸に入る際に明らかになった。
    注)昭和天皇の崩御は昭和64年1月7日午前6時33分

2)官邸で行われた「元号に関する懇談会」茶色と白色の2種類の封筒がおのおのが
 見られるよう机の上に置かれ、茶色の封筒には元号選定の手続きなどが書かれた紙が、
 白色の封筒の中には「平成」「修文」「正化」と新元号の3つの案が書かれた紙が入っていた。
 平成がいちばん最初に書かれていた記憶がある。
 政府側の第1候補なのかなという印象を持った。

3)懇談会は、的場順三内政審議室長の司会で進められ、有識者に対して、3案について
 まとめて意見を述べるよう求められた。

4)平成とはとか、修文とはとか、その中身はこういう意味ですという説明はなかった。

5)ある有識者が「平成がいいんじゃないか」と感想を述べたのを皮切りに、「平成」を推す
  声が相次いだ。

6)平成という案には反対しないという前提で、明治とか昭和というのが音がピシッと
  締まるのに対して、平成は、音が流れていく。大正というなんとなく個性や特色のない
  時代を想像させ、短い時代になってしまうような感じを持つ。
  そういうことは考えなくてよいのかと意見を述べた

7)何故「平成」になったかについて、やはり戦争ということがあったと思う。明治、大正、昭和
  という戦争の時代があった。戦後すでに40年の平和が続いたけれども、そういう時代に戻って
  ほしくない、「平成」は、平らかにして成るという、戦争のない平和な時代という意味を
  持っており、「これが合うんじゃないか」という感じを皆さん持たれた様子だった。

8)元号の選定は懇談会で自主的に決めた。政府からの誘導は無かった。

9)修文、正化を推す意見はありませんでした。

10)平成を振り返っての雑感(内容は略)



尚、今回の「元号に関する懇談会」の有識者として候補にあがっているメンバーは
教育界から鎌田薫前早稲田大総長、マスコミから日本新聞協会会長の白石興二郎氏
読売新聞グループ本社会長、上田良一NHK会長、民放連会長の大久保好男日本テレビ社長、
それに、ノーベル受賞者の山中伸弥京都大教授、作家の林真理子氏、宮崎緑・千葉商科大教授
榊原定征前経団連会長、法曹界からは寺田逸郎前最高裁長官の9人とのこと。


上の写真は3月1日のNHKテレビ朝の放送で懇談会のメンバーに女性を前回より1人多い
2人にするとの報道。


上の写真も同じく3月1日のNHKテレビ朝の放送で懇談会のメンバーは発表の当日、
外部にリークすることを防ぐため官邸に缶詰状態になることを報じたもの。

今回の「元号に関する懇談会」に関する報道内容にリンクさせていただきます。
 https://www.yomiuri.co.jp/politics/20190305-OYT1T50072/

 https://www.jiji.com/jc/article?k=2019030500926&g=pol


代替わりに関するブログ

 即位礼正殿の儀における松の間前庭の参列者と旛

 皇位継承に関わる51の儀礼・行事について


 即位礼正殿の儀  NHK「京都御所~秘められた千年の美~」を視聴して

 天皇陛下「退位奉告の儀」 代替わり、一連の行事始まる

 
 
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ピッコロ ミント神戸店でのランチ on 2019-3-1

2019年03月13日 06時09分01秒 | 神戸情報
2019年3月1日、ピッコロ ミント神戸店でランチを頂きましたので
写真紹介します。
今まで何回か入ったことのある店ですがブログへの投稿は2回目です。

ピッコロ ミント神戸店の基本情報

住所:神戸市中央区雲井通7丁目1−1 ミント神戸 B1F  TEL:078-242-3281
営業時間:11:00~21:30  定休日:不定休
料理ジャンル:カレー    開店日:2014年8月18日


公式サイト:http://www.piccolo.ne.jp/


上の写真は当日頂いたオムライスランチ730円(税込)です。

下の写真は最初に出てくるサラダ



下の写真お店の外観です。



過去の訪問記:
 ピッコロ ミント神戸店でのランチ on 2018-7-20
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西宮散策記 on 2019-2-24 その1 夙川公園

2019年03月13日 05時57分41秒 | 神戸市以外の兵庫県
2019年2月24日、徳若の万代大澤醸造で西宮蔵開2019年のイベントが開催されていたので
西宮に出かけていました。

その時に訪れた場所を写真紹介していきます。

今回はその初回で夙川公園(正式名称は夙川河川敷緑地)を取り上げます。
阪神香櫨園駅で下車し海側の西宮砲台跡に向かう途中で通りました。

香櫨園と言う名称は明治40年(1907)、大阪の商人である香野蔵治と櫨山喜一の
手によって開設された香櫨園遊園地に因むものである。
ただ、香櫨園遊園地が設置されていた場所は現在の阪急夙川駅の北西側、羽衣町、霞町、
松園町、相生町、雲井町、殿山町一帯であった。8万坪に及ぶ広大な敷地であったそうです。
参照サイト:Wikipedia及び下記サイト
 http://www.omaehama.org/archive/history/titbit.htm








上の3枚の写真は歩き始めて最初の頃の夙川公園
Wikipediaによれば
夙川公園は南は香枦園浜の海岸部から北は銀水橋までの約4km、20.8haにわたって
整備された都市公園である。なお、公園へ続く川沿いの道路は夙川オアシスロード
と呼ばれている。
1937年(昭和12年)、当時の金額で34万円余りの費用と約5箇月の時間をかけて
造成され、同年5月17日午前10時から上流の阪急甲陽線苦楽園口駅東側で竣工式が
盛大に行われた。
1949年(昭和24年)、1,000本のサクラの若木の植樹が行われ、桜博士と呼ばれる
笹部新太郎が管理、育成、植樹の指導をした。
1990年(平成2年)、「日本さくら名所100選」に選定された。


桜の時期には人気の場所であるので、桜に関する情報として西宮市のサイトにリンク。
 https://www.nishi.or.jp/access/koen/shukugawa.html



上の写真は阪神香櫨園に下りてすぐの所に掲示されていた地図です。


上の写真は夙川公園と周辺の案内地図(酒蔵通りを過ぎたところに掲示)


上の写真は松葉坂付近。
ボランティアの方々が清掃の奉仕をされていました。ご苦労様です。
またランニングの方、犬をつれた散歩の方を多くお見受けしました。


上の写真は翠橋


上の写真は桜並木(まだ開花時期までは大分ありそうですが・・・・)


上の写真は中央図書館、郷土資料館などが入る建物
10時からの開館だったので中には入らず。
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幻の大津京

2019年03月12日 04時25分49秒 | 滋賀県情報
大津宮はWikipediaによれば次のように纏められています。
近江大津宮(おうみおおつのみや/おうみのおおつのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が
近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇は
この宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。
天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の
壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。
史料上は「近江大津宮」のほか「大津宮(おおつのみや)」・「志賀の都(しがのみやこ)」
とも表記されるが、本来の表記は「水海大津宮(おうみのおおつのみや)」であったとの
指摘もある。1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で
宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。


現在、林博通氏の著書「幻の大津京を掘る」(2005)を借りており、この書籍及び
ネットの情報より大津宮や大津京の実態に少しでも近づかれたらと思い筆をとりました。

大津宮跡の発見
昭和49年(1974)11月18日、「近江大津宮錦織遺跡」の発掘調査が開始されました。
発掘調査は翌年(1975年)の3月まで継続。

上述のWikipediaの文章のように大津宮跡は「近江大津宮錦織遺跡」として昭和54年(1979)
7月2日、国指定の史跡に指定されました。平成22年2月22日追加指定
ここで、文化庁の国指定文化財等データベースの解説文を引用紹介します。

近江大津宮[[錦織]にしごり]遺跡: 近江大津宮は、天智天皇の宮都であり、同天皇6年(667)
3月に遷都が実行された。天智天皇7年、中大江皇子は天智天皇としてこの近江大津宮で
即位し、同年にはすでに内裏や濱臺が、8年には大蔵、9年には宮門、10年には新臺に
漏尅、西小殿、内裏佛殿、内裏西殿、新宮、大炊省などの諸建物が記録に見え、宮都の整備の
進展がたどれる。
天智天皇10年12月、天皇の崩御があり、続いて起る壬申乱による大友皇子の自縊とともに
廃都となる。したがって近江大津宮は6年間という短期間の宮城であり、宮城内の諸施設の
建設は記録に見えるものの、その京域については濱臺の名が見えるに過ぎず、関連諸建物の
建設や條坊の施行については全く記事を見ないだけに、実質的な整備はなお、十分では
なかったものと考えられている。
この近江大津宮の所在地については、記録・伝承を欠くこともあって、今日、大津市錦織町に
比定する説をはじめ南滋賀町、滋賀里町にあてる諸説があり未だに帰結するところを見ない。
昭和49年以来、滋賀県教育委員会が数次にわたって実施して来た大津市錦織2丁目周辺の
発掘調査により、近江大津宮推定地の一つである錦織2丁目御所之内地域の一劃、滋賀宮址
顕彰碑の建碑地を中心に天智天皇のころに属する遺物をはじめ、雄大な規模、斉整な配置を
もつ諸遺構が発見された。建物は、東西4間以上、南北1間以上の門跡をはじめ、この門から
東にのびる回廊を6間まで確認しさらに東に及ぶことが知られている。
この回廊の5間目から直角に北へ9間以上のびる柵が連なり、門・回廊・柵で囲まれる範囲は
広場となっている。この地域の北方、錦織1丁目字御所大平の地域でも、東西4間以上、
南北1間以上の建物が発見され、その西縁から西方へ柵が2間のび、その西端は南北に長く
7間以上連なる柵に連なる。建物の南には広場をつくり、その南に、南北の柵から東へ行く
5間以上の柵が見られる。
錦織1・2丁目の両所に見られるこれらの遺構は共に建物軸を真北にとり、相互に関連する
形で整然と配置され、巨大な柱穴と掘方を伴う柵列のあり方などを通じて考えるならば、
一種の官衙の構造であることを示している。遺物の時期が天智天皇のころにあること、
遺構の構造が宮の一画を暗示することからすれば、この遺跡は近江大津宮の重要な一部と
見ることも可能である。ただ、大津市南滋賀町、滋賀里町等の擬定地については十分な調査が
なされていない現在、錦織地区の本遺跡についてとりあえず明確な遺構をもつ地域をとりあげ
保存をはかるものである。


平成10年追加指定分
[近江大津宮錦織遺跡]おうみおおつみやにしごりいせき: 近江大津宮は、大津市西部、
JR西大津駅の北方約500メートルに位置し、天智6年(667)、天智天皇により
飛鳥の地から遷都された都である。しかし、壬申の乱(672年)によって近江朝廷側が
敗れ、この宮は廃棄された。この大津宮は、『日本書紀』に「浜台、大蔵、宮門、朝庭、
殿、漏刻台、内裏仏殿、内裏西殿、大蔵省第三倉、新宮、大炊」等の宮にかかわる建物等の
記載があるが、その実態はほとんど明らかではなかった。昭和49年、滋賀県教育委員会
による発掘調査により、当地一帯で宮の中心部分の一部が確認されるようになり、
内裏正殿・南門・回廊・塀・倉等が検出された。
指定は、当該地が住宅密集地であるため、保存のできる場所から実施しており、今回は、
南門の遺構の所在する地域を追加して指定し、保存を図ろうとするものである。




上の2枚の写真はJR大津京駅で見つけた大津宮錦織遺跡の説明板




上の2枚の写真は昭和49年(1974)11月から昭和30年(1975)3月にかけて発掘調査
された近江大津宮錦織遺跡の発掘状況を示した写真と図
内裏の南門(SB001)と回廊(SC001)及び足場組の柱穴(SX001)と見られる遺構を確認

出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page19,page119




上の2枚の写真は内裏正殿の遺構
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page124、128


上の写真は近江大津宮錦織遺跡の発掘地点を記載した地図
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page146


上の写真は大津宮中枢部(錦織地区)の推定復原図
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page155


上の写真は内裏正殿(SB015)の平面復原図及び復原立面図
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page151

大津京遷都の理由
諸説があり確定したものはありません。
663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたことを第一要因として考えるのが
一般的な傾向で、支持されています。
琵琶湖は水上交通されていますの要所で湖西に遷都して畿内と北陸・東国方面への交通
が便利であり防衛上も有利な位置であると思われます。
有力氏族や職人などの居住状況など宮を営むのに必要な環境が整っていたことも
有力な理由の1つであった。
さらに、従前より比良宮という行宮(あんぐう)が存在していた。
天智天皇はもともと大津に宮を造ることを構想していたとも考えられます。

関連事項として7世紀頃の古代山城の分布を添付しておきます。

白山江で大敗した日本の各地に百済からの避難した人達により多くの山城が建設された

大津京の所在地(候補地)






上の3枚の写真は大津宮所在地各説を地図と共に示したものです。
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page112,113、178

日本の首都の変遷

日本の首都の変遷を簡潔に纏められていますので添付しました。

出典:「再現・長岡京」 (表紙を下に添付しました)
向日市文化財調査事務所編、向日市埋蔵文化財センター編 (2001年3月)



何かまとまりの無い内容になってしまいましたがこの辺でアップします。
今後、関連地域や博物館を訪問し内容を補充していきたいと考えています。
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放亀山1号墳バーチャル探訪記

2019年03月11日 04時56分10秒 | バーチャル探訪
2019年3月6日(水)、赤穂市立有年考古館を訪問した時に2018年3月3日に行われた
放亀山(ほうきやま)1号墳発掘調査現地説明会の資料を入手できました。

この資料と実際に現地説明会に参加された方のサイトを参考に放亀山1号墳の
バーチャル探訪記を書くことにしましたので紹介します。
(実際に現地を訪問した訳ではありません)

放亀山1号墳は従前は円墳とされあまり注目されていませんでしたが、平成26年(2014)に
実施された分布調査でこの古墳が前方後円墳である可能性が出てきた為、発掘調査が実施され
2018年3月1日、赤穂市教育委員会は放亀山1号墳が前方後円墳であることを確認したと
公表されました。赤穂市で初の前方後円墳となります。

放亀山古墳群は大鷹山(標高201m)から東へ続く尾根が千種川西岸に達するあたりにあり、
昭和40年代の調査で尾根上に4基、南斜面中腹に1基の計5基が確認されていた。

放亀山1号墳の基本情報

形式:前方後円墳 全長:38m 後円部直径:23m 高さ:4.5m 
前方部:2段 後円部:2段築成
建設時期:古墳時代前期前半(1,700年前) 4世紀前半
発掘調査担当は赤穂市教育委員会


報道機関の報道例
 神戸新聞NEXT(2018-3-2)

 赤穂民報(2018-2-28)

所在地と周辺の遺跡

上の写真は放亀山1号墳の位置図と周辺の遺跡地図 出典:現地説明会資料


上の写真は大鷹山(標高201m)の遠景 撮影:2019-3-6


上の写真は掲示地図に放亀山1号墳の位置を示したもの(赤字で表示

墳丘測量図と復原図

上の写真は墳丘測量図と復原図でトレンチが明示されています。出典:現地説明会資料


上の写真は古墳の想定復元図  出典:現地説明会資料

発掘調査説明図

上の写真は各調査区(トレンチ)の発掘結果概要をまとめたもの 出典:現地説明会資料

埋葬施設の変化

上の写真は埋葬施設の変化を推定復元した図です。 出典:現地説明会資料

葺石の断面図 

出典:現地説明会資料
しっかりと石材が残されており、古墳の築造過程を理解できる

現地説明会の様子
現地説明会は2018年3月3日に行われました。
 https://uminohakata.at.webry.info/201803/article_1.html

実際に現地に行かれた方のサイト
 http://blog.livedoor.jp/geibi/archives/53900943.html


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赤穂鉄道有年駅 

2019年03月10日 04時36分36秒 | 昔こんなものがあった 大正編
2019年3月6日、JR山陽本線有年(うね)駅に初めて下車しました。
有年駅で下車し南側ロータリーの所に大正10年(1921)に開通し昭和26年(1951)に
廃線となった赤穂線についての説明がありましたので文章と共に写真、図を含めて
紹介します。

説明板は平成27年(2015)3月に有年地区まちづくり推進協議会によって作成された
ものです。


上の写真は上述の説明板

下記は赤穂鉄道に関する記述です。

1915年(大正4年)5月、赤穂鉄道株式会社が創立され、1921年(大正10年)に開通した。
赤穂鉄道は、播州赤穂駅・有年駅間12.7キロメートルを約30分45銭で結び、
途中駅は砂子、坂越、目坂、根木、周世、真殿、富原であった。
有年駅は、日本固有鉄道有年駅を隣接し、乗降客は、1日3〜400人程であった。
赤穂郡と京阪神等を結ぶ玄関口となり、米の集積地、塩等の中継地としても重要な役割を
果たした。米俵等を積んだ牛車が往来し、駅構内は宿場特有の混雑があったという。
しかし、日本固有鉄道赤穂線の開通により、1951年(昭和26年)12月11日をもって
廃線となり、30年の歴史に幕を閉じた。



上の写真は昭和20年前後の有年駅(説明板より)


上の写真は時期は不詳ですが昔の有年駅。


上の写真は有年駅周辺の広域図で
赤穂線が赤の点線で記載されています。
 出典:有年原・田中遺跡に掲示の地図


上の写真は有年駅コンコースより岡山方面を撮ったものです。


上の写真は有年駅コンコースより姫路方面を撮ったものです。


上の写真は有年駅の遠景


上の写真は有年駅周辺が整備後のイラスト掲示

以下Wikipediaの引用で赤穂鉄道の概要解説です。
赤穂鉄道は、かつて国鉄山陽本線の有年駅から播州赤穂駅(現在の播州赤穂駅とは別駅)間の
鉄道路線を運営していた鉄道会社です。
明治43年(1910)に軽便鉄道法が公布されたことから、これを契機として軌間762mmの
軽便鉄道の敷設が決定され大正4年(1915)に会社創設、大正10年(1921)に開業した。
戦後、山陽本線相生駅と接続する国鉄赤穂線が開業することになったため、昭和26年(1951)
に廃止となってしまいました。
1950年(昭和25年)11月改正時の運行状況は下記の通りです。
旅客列車本数:日9往復
所要時間:全線44 - 45分



同じくWikipediaからの引用で赤穂鉄道12.7Kmに設置の9駅です。

駅名  累計距離 開設日      備考
有年駅  0Km   1921年4月14日

富原駅 2.3Km   1925年10月1日

真殿駅 3.8Km   1922年3月29日   当初は貨物駅

周世駅 5.7Km   1925年10月1日

根木駅 6.5Km   1921年4月14日  1925年9月1日に高雄村駅から改称

目坂駅 7.6Km   1925年10月1日

坂越駅 9.4Km   1921年4月14日

砂子駅 10.2Km   1925年10月1日

播州赤穂駅 12.7Km 1921年4月14日  赤穂線の播州赤穂駅より南側の位置
                  (現在のウエスト神姫赤穂営業所)にあった。



尚、赤穂鉄道の砂子駅跡については下記ブログで書いています。
 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その2 赤穂鉄道砂子駅跡

播磨孤道(はりまこどう)さんが赤穂鉄道の廃線跡を全部周って纏めておられます。
リンクをさせていただきました。
 https://harimakodou.capilano-fw.com/?p=4166

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天上川検定問題と解答例

2019年03月09日 04時12分17秒 | 神戸情報
昨日(2019-3-8)の神戸新聞朝刊25面わがまち「神戸」で「天上川検定 難問ぞろい
全8問 歴史や知識深めよう
」という見出しで4択のクイズ問題が出題されていました。
神戸新聞の記事へリンクしておきます、
 https://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/201903/0012122810.shtml

そこで問題と解答例、並びに関連事項を書いていきます。
天井川は神戸市東灘区に流れる川の一つで天井川の西側には石屋川、住吉川が東側には
高橋川があり「甲南山河 東灘マンスリー」のシリーズで連載されています。
本日(2019-3-9)の朝刊に解答が掲載されると思います。

①うんてい
 問題:サンシャインワーフ神戸にある「うんてい」の長さは?
     (ギネスブックに申請準備中だそうです)

 解答例:150m

 
サンシャインワーフ神戸は昭和46年(1971)から平成11年(1999)まで存在していた
東神戸公共フェリーふ頭 別名、東神戸フェリーセンターの跡地に建設されたショッピング施設
で平成12年(2000)に開設しています。
オートバックス、ヤマダ電機、ダイソーなど15のテナントが入っています。
旧神戸フェリーセンターについては下記ブログで纏めています。
 東神戸公共フェリーふ頭(東神戸フェリーセンター)


②商店街
  問題:岡本商店街の店舗数は?
  解答例:281店舗

 回答の根拠は2019年2月16日付神戸新聞NEXTの記事で石畳の商店街、市内最大の281店舗
 と見出しで記載。
 しかしながら、岡本商店街のサイト:
  http://www.syoutengai.or.jp/jirei/h28/008_Ki_okamoto.pdf
 に店舗数 400店舗という情報もあり368店舗であっても正解とすべきか

③ゴルフ場
  問題:日本で2番目にできたゴルフ場があった場所は
  解答例:魚崎中学校・瀬戸公園野球場

日本で最初のゴルフ場はイギリス人アーサー・ヘスケス・グルームが明治34年(1901)に
六甲山に4ホールのゴルフ場を開設した。
この六甲山上のゴルフ場は、冬期は積雪で閉鎖された。そのため、この不便を補う目的で、
六甲の会員のウイリアム・ロビンソンが、明治37年(1904)に、当時の武庫郡魚崎町横屋に
独力で6ホールの横屋ゴルフ場を創設した。
詳細は下記サイト:
   http://www.nigiwai-net.jp/walk/golf.html

横屋ゴルフ場跡の場所の地図を添付しておきます。(下の写真)
 

④梅
 問題:岡本(梅林)公園にある梅の品種数は?
 解答例:42品種

下記サイト41種類の梅の種類が例示されています。
 https://www.us3.jp/souryu/okamotokouen/

⑤酢の会社
 問題:青木地区に本社を構えたことのある酢を製造する会社は?
 解答例:マルカン酢

 消去式で在神戸の企業を選択した。
 マルカン酢は六甲アイランドに事業所があります。

⑥モチーフ
 問題:川井公園にある銅像でモチーフになっていない動物は?
 解答例:ウサギ

下記サイトに写真が添付されておりその写真より解答を導いた。
(カバ、パンダ、ゴリラが確認できた)
 https://nippon1000parks.blogspot.com/2014/07/7361000.html


上の写真は川井公園の場所を地図で示したものです。


⑦平生釟三郎の言葉
 問題:甲南学園の創始者「平生釟三郎」が残した言葉は?
 解答例:常ニ備ヘヨ

上記言葉が書かれた石碑を紹介したサイト(kobecco 2018年5月号)
  https://kobecco.hpg.co.jp/31865/
  

⑧並木物の植物
 問題:魚崎浜町の北側にある並木道に植えられている植物は?
 解答例:アーモンド

下水処理場敷地内(建設局東水環境センター)に水辺の遊歩道 うおざきが整備されており
約100本のアーモンドの木が我々を迎えてくれます。

深江浜町の東洋ナッツのアーモンドフェスティバルは観に行ったことがあります。(下のブログ)
 第28回アーモンドフェスティバル in 東洋ナッツ食品本社工場 on 2017-3-20


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さんきゅう水産 西神中央店でのランチ on 2019-3-2

2019年03月08日 04時06分41秒 | 神戸情報
2019年3月2日に頂いたさんきゅう水産 西神中央店でのランチを写真紹介します。

当日は神戸市埋蔵文化財センターでの講演会のために出かけていました。

さんきゅう水産 西神中央店の基本情報

住所:神戸市西区糀台5-2-3 プレンティ 専門店二番館 1F  TEL:078-991-5539
料理ジャンル:寿司
営業時間:11:00~22:00  定休日:なし 年中無休


公式ホームページ:http://sankyu.co/sankyu/TopPageInit.do?method=initialize




上の2枚の写真は当日いただいたサービスセット 790円(税込)






上の写真はメニュー表

昼食後、そごう西神店の1階にあるカフェノバールでブレンドコーヒー360円(税別)を
いただきました。

過去の訪問記:
 さんきゅう水産 西神中央店でのランチ on 2018-3-3

 さんきゅう水産 西神中央店でのランチ on 2017-11-4

 さんきゅう水産 西神中央店でのランチ on 2017-5-13



雛祭りの時期なので「ひな飾り」を何枚か添付しておきます。






上の3枚の写真はそごう西神店のショーウィンドーに展示の雛飾り




上の2枚の写真は赤穂市立有年考古館での展示 撮影:2019-3-6

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第20回 神戸・垂水 いかなご祭

2019年03月08日 03時59分35秒 | 神戸情報
2019年3月5日にイカナゴ漁が解禁され例年の如くスーパーなどで高値(4,000円/1Kg)
で販売されています。

今年も例年どおり2019年3月9日(土)に第20回 神戸・垂水 いかなご祭が開催予定
ですのでポスターなどの写真紹介します。

第20回神戸・垂水いかなご祭の基本情報

開催日時:2019年3月9日(土)10:00~16:00 ※雨天決行
開催場所:JR「垂水駅」東口北側の垂水レバンテ広場
      いかなごのモニュメントがある広場

問い合わせ先: 垂水商店街振興組合 (TEL 078-707-4650)

第20回いかなご祭のイベントと時間の紹介:
      https://www.tarumi.ne.jp/event/ikanago2019.html


上の写真は第20回 神戸・垂水 いかなご祭のポスター

いかなごくぎ煮の基本レシピ
いかなご1Kgに対して

  濃口醤油270cc、中ざら砂糖380g、みりん100cc、しょうが25g

関連ブログ

いかなご祭
 第19回 神戸・垂水 いかなご祭 on 2018-3-10

  このブログに過去のいかなご漁の解禁日を記載しています。

 第13回 神戸・垂水いかなご祭 on 2012-3-10

いかなごのくぎ煮発祥の地
 いかなごくぎ煮発祥の地塩屋魚友

 駒ヶ林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑 on 2013-10-9


 神戸市長田区駒ヶ林町の散策記 on 2017-2-19 その1 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑

いかなごのモニュメント
 いかなごのモニュメント in 垂水駅前 on2010-1-25

 いかなごのモニュメント in 垂水駅前 on2010-6-14

いかなごの漁獲量
 イカナゴの漁獲量


関連ニュース
 https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201903/0012127752.shtml


 
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改元に関する話題 その1 光文事件

2019年03月07日 05時23分46秒 | Weblog
約1か月後に新しい元号が発表されます。
今までの慣例で有識者が3つの元号候補を政府に提示し懇談会で審議され
決定されるプロセスで進むと推定されます。

そこで今回は、改元に関する話題として光文事件を取り上げました。

まず、光文事件についてWikipediaより引用紹介します。
1926年(大正15年)12月25日午前1時25分に大正天皇が48歳で崩御したが、東京日日新聞
(現在の毎日新聞)が崩御直後に発行した「聖上崩御」号外で「元號は光文
樞密院に御諮詢」、及び同日午前4時に発行した朝刊最終版(市内版)において
「元號制定 『光文』と決定―樞府會議で」の見出しで、新しい元号として「光文」「大治」
「弘文」等の諸案から「光文」が選定されたと報道した。しかし、実際に宮内省が
同日午前11時頃に発表した新元号は「昭和」であったために誤報となり、社長の本山彦一が
辞意を表明する事態になったが、編輯局主幹だった城戸元亮が辞任することで事態が収拾された。
なお、改元に関する正確な報道は時事新報が成功を収めており、東京日日新聞以外に報知新聞、
都新聞も号外で「光文」を掲げ、讀賣新聞と萬朝報も朝刊で追随したが、時事は同朝10時の
市内速報版で「昭和に決した」旨の号外を発行し、報知もこれに次いで同様の号外を発行した。
また、大阪毎日新聞も東京日日新聞から「光文」と改元の通信を送られていたが、
不確かな点があるとして直ちにこれを発表せず、他新聞と同じく「昭和」と報じたため、
重大な失態を免れている。
当時の宮内省が情報が漏洩したことに腹を立て、内定した「光文」から「昭和」に急遽変更
したという説がある。このことは猪瀬直樹著の『天皇の影法師』で触れられている。

当時の改元案は次のとおりであった。
宮内省勘申第三案:「昭和」「神化」「元化」の3種
内閣勘進案:「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」の5種


63年後の改元(平成に決定)
下記もWikipediaよりの引用です。

なお、昭和から平成へと元号が変わる際には、東京日日新聞の後身である毎日新聞は
新元号を他社に先んじて掲載することに躍起になっており、事実1989年(昭和64年)
1月7日の夕刊3版では全国紙で唯一「平成」の文字が掲載された。
このことは毎日新聞社130周年記念で出版された社史『「毎日」の3世紀』において、
「見事スクープ、63年ぶり雪辱果たす」として「光文」誤報事件のリベンジが行えたとした。
なお朝日新聞等の他社は、同日14時36分の小渕恵三内閣官房長官(当時)の「平成改元」
記者会見後に発行した号外及び夕刊(最終版=4版)で掲載した。

昭和の次の元号は「旭日(あさひ)」「和光」であるという流言蜚語も登場した。



代替わりに関するブログ

 即位礼正殿の儀における松の間前庭の参列者と旛

 皇位継承に関わる51の儀礼・行事について


 即位礼正殿の儀  NHK「京都御所~秘められた千年の美~」を視聴して
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