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明石城 巽櫓 一般公開 見学記 on 2016-4-30

2016年05月08日 04時31分32秒 | 神戸市以外の兵庫県
2016年4月30日(土)、明石城 巽櫓 一般公開があり見学しました。
その時の様子を写真紹介します。


上の写真は船上城から移築された巽櫓。




上の写真は明石城巽櫓(右手)と坤櫓(左手)の遠景

まず明石城の概要説明を明石城パンフレット(一部加筆)より引用紹介します。

「元和三年(1617)、小笠原忠真(おがさわら ただざね)が信州松本より
明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上
(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。
現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する
備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。
徳川秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるように命じ、3ヶ所の
築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目
(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。
この頃、姫路藩本多忠政に仕官していた宮本武蔵が町割り図を作った。

石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ、
工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、
三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり、幕府より
派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。
幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は
幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。

普請を終え、同年九月から藩主忠真により櫓、御殿、城門、塀などの作事
(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城と
なった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。
創建当初の坤櫓については次の資料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け
移築されたことを示している。
「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」
                          『小笠原忠真年譜』
「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」
                           『笠系大成附録』
各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。

築城当初の明石城は、本丸に三層の御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、
天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。」



上の写真は明石城巽櫓の前の説明板です。


上の写真は明石城の築城に深く関与した本多家と初代明石城藩主「小笠原家」の
家系図の説明パネルです(巽櫓内に展示)


上の写真は明石城の歴代藩主の説明パネル(巽櫓内に展示)


上の写真は初代藩主小笠原忠真(藩主期間1617-1633の16年)の肖像画です。
石高は10万石。 
1632年11月-1633年4月は幕府直轄地となり本多忠義、政勝が明石城の藩主

2代目城主は松平庸直(1633-1634) 7万石
参考Blog(二代目明石城主松平庸直の五輪塔 in 明石天文台 on 2010-7-15)

上の写真は松平庸直の五輪塔

3代目城主は松平光重(1634-1639)
4代目城主は大久保 忠職(1639-1649)美濃加納から転封
5代目城主は松平山城守忠国(1649-1659)丹波篠山から転封
6代目城主は松平日向守信之(1659-1679) 6.5万石
17世紀中頃1659年より約20年間明石藩主であった松平日向守信之は、
積極的に新田開発を行った。大蔵谷、鳥羽新田、東野新田(現大久保森田)、
浜西村(魚住町浜西)、伊川谷の脇新田(吹上)、明石林崎村小久保、玉津村
水谷、永井(旧長井)、漆山、生田(旧田代)、垂水新田などを開発した。
また街道に松並木を植え防風林としたことや西区岩岡町で煙草栽培(赤坂煙草)
も奨励しました。
その威徳から村人から「日向さん」と慕われ、隣接する神出町同様「日向さん」
に関する伝承が多く残っています。
松平日向守信之は寛永8年(1631)父:松平山城守忠国と母:戸田氏鉄の娘との
間に次男として生まれました。長男の松平信久が早死したため嫡子となった。
父の松平山城守忠国は慶安2年(1649)に播磨明石城7万石転封され藤井松平家
初代の明石城主となりました。
以下2代藩主松平日向守信之について年譜を記載します。
慶安2年(1649)信之(19歳):将軍家初見
承応2(1653) 従五位下日向守に任ぜられる。信之(23歳)
万治2年(1659)父松平忠国が死去し信之が明石城主を継承する。信之(29歳)
延宝7(1679)大和郡山城8万石に転封。
貞享2年(1685)6月老中職となる
貞享3年(1686)旧暦7月22日(現在の暦で9月9日)老中在職中(9万石)に
古河城(下総)で死去。

地元の人達は垂水新田の開発に対する恩徳を謝し播州のゆかりの地に
松平日向守信之公の供養碑が建てられました。
(昭和の初めまでは西垂水新田と呼ばれていました)

上の写真は神戸市垂水区霞ヶ丘の供養碑です。
 書かれている文字は以下のとおりです。
  貞享三丙寅天
    長昌院殿従四位江月圓覺大居士
          仲秋□廿二日

 
 【解説】
貞享三年=1686年 丙寅(ひのえとら)の7月22日に松平信之は卒しています。
仲秋□廿二日にしているのは7月22日に死去していますが江戸で火葬して下総古河
の板間村に葬ったのが8月22日であるので古河藩の正式発表がこの日(8月22日)で
あったためそのような表現となったと推定されます。
 長昌院殿従四位江月圓覺大居士は松平信之の戒名

7代目城主は本多政利(1679-1682) 6万石
8代目城主は松平直明(1682-1701)
 明石藩主8代目松平直明公から15代松平斎宣公までの歴代の
 城主とその夫人、子供など約60基の御廟所となっている松厳山長寿院を
 紹介した小生のBlog(明石長寿院)へのリンク

9代目城主は松平直常(1701-1743)
10代目城主は松平直純(1743-1764)
11代目城主は松平直秦(1764-1784)
12代目城主は松平直之(1784-1786)
13代目城主は松平直周(1786-1816)
14代目城主は松平斉昭(1816-1840)
15代目城主は松平斉宣(1840-1844)8万石
 松平斉宣(なりこと)は徳川将軍家斉の25男で養子に来て明石城主となった
 養子に迎える見返りに2万石加増された。

16代目城主は松平慶憲(1844-1869)
 松平慶憲(よしのり)の時代、鳥羽伏見の戦い(1868)で山陽鎮撫使
(さんようちんぶし)が通過する際、それまで佐幕の方針を貫いてきた
 明石藩であったが藩の存続のため恭順した。
 江戸の明石藩邸にいた大目付の津田柳雪は脱藩し松石隊を結成彰義隊に加勢
 明治4年(1871)5月10日の上野戦争に加わった。
 上野戦争で松石隊は津田柳雪の子芳之助ら7人が戦死し壊滅。

17代目城主は松平直致(1869-1869)
   
松平 直致(まつだいら なおむね、嘉永2年8月4日(1849年9月20日) -
明治17年(1884年)6月28日)は明治2年(1869年)慶憲の隠居に伴い家督を
相続する。同年6月版籍奉還で知藩事となる。この年、鎮姫と婚姻する。

明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県により明石県が置かれ、知藩事職を
免官となる。東京へ移住する。その後、11月2日(12月13日)に明石県は姫路県
に併合され、1週間後に姫路県は飾磨県と改称された。
明治6年(1873)廃城令により門や櫓
明治17年(1884年)に病没し、弟の直徳が家督を継いだ。



上の写真は明石城の巽櫓で配布されている歴代城主一覧表と家紋です


上の写真は巽櫓から撮った坤(ひつじさる)櫓方面を撮ったものです。


上の写真は石垣に関する説明パネル(巽櫓内部で展示)


上の写真は坤櫓の近景。


上の写真は明石城巽櫓の内部。


上の写真は明石城巽櫓や坤櫓が阪神淡路大震災で被害を受け修理された時の
様子を表したもので建物が持ち上げられ別の場所で修復作業をした。


上の写真は明石城巽櫓より明石駅方面を眺望。
当日はロハス・ミーツというイベントが行われておりフリーマーケットの出店が
多く人出も多い。


上の写真は明石城の昔の姿w描いたものです(巽櫓内の展示)







上の3枚の写真は明石城巽櫓でボランティアガイドが説明のために使用する
説明パネルです。







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