「坊っちゃん」も 通ったという、道後温泉
ここに来る前、久しぶりに小説『坊っちゃん』をよんでいた
うちのチットが、
「解説に、すごくいい文章が載ってた。」
と言うので、
ちょっと、紹介しておきたい、と 思います
それは、
伊豆利彦という、そうせき(漱石)研究家が、
昔、『ジュニア版・日本の文学』に
あとがきしたもので、
『坊っちゃん』だけでなく、他の作品の話もまじえながら、
そうせき(夏目漱石)の生い立ち~作家になるまでの へんせん(変遷)、
彼の人生かん(観)の形成を、
当時の社会はいけい(背景)や、時代の空気もふくめて
子どもにもわかりやすいように、
しんせつ(親切)に
記しているものだそうです
ちょっと、
分りょう(量)多めに、ばっすい(抜粋)してみますので、
道後温泉ハイカラ通りや、坊っちゃん時計などの シャシン(写真)とともに
よろしければ
ごらんください
「夏目漱石は、本名を金之助といいます。
1867年に、江戸の牛込馬場下に、ふるい家柄の名主の子として生まれました。
五男三女の末っ子でした。
ちょうど江戸幕府が倒れ、明治の新時代がはじまろうとする時代でした。
その翌年に年号は明治とかわり、
江戸は東京と呼ばれるようになったのです。
新しい時代の波は次々にふるいものをうちこわして、驚くほどの速さで
世の中を変えていきました。
ふるい家柄の夏目の家も、
こうした激しい時代の波の中で 没落していったのでした。
漱石の生まれ育った時代は、一面では西洋の文化や社会制度をとりいれた、
進歩と発展の時代だったのですが、
一面では不安定な、
落ち着きのない時代でもありました。
金之助が小学校に入学したのは明治七年ですが、
小学校というものが出来たのが 明治五年ですから、
まだ制度も設備も ととのっていませんでした。
卒業するまでに何度も制度が変わり、
そのたびに学校のよび方もかわる
という有様でした。
金之助は大学に進むまでに、
いくつか学校を変わり、いろいろ迷っていますが、
そこには、たえず変化する時代に生きる少年の、心の動揺を見ることができます。
おさない金之助は、
自分がどんな時代に生きているかを
自覚してはいなかったけれど、
維新の動乱の最中に生まれ、
激動の時代を、そのうずの中心である東京で育ったということは、
漱石の文学に 大きな意味をもっています。
(中略)
・・・・
生まれるとすぐから、他人の手から手へ渡されて、
本当に安心してすがりつく
母の胸を持たなかった
孤独と不安は、
漱石の文学に、おおうことの出来ないかげを おとしています。
漱石の文学には、虚偽を憎み、真実の愛を求める、愛と真実にうえた心が
強く感じられます。
『坊っちゃん』の清(きよ)は、
そんな心が生んだ人物でした。
清は、身よりもなく、金も地位もない女です。もちろん新時代の教育を受けたわけでもなく、
松山は箱根の向こうか、こちらか、と
きくような女です。
坊っちゃんに対する愛も、おろかで盲目的な愛だったと
いえばいえるでしょう。
けれども清は なんの打算もなく、ひたすら坊っちゃんを愛したのです。
この愛を漱石は、
なににもまして美しいものに 描きました。
清が坊っちゃんに、そんないちずな愛を注いだのは、
坊っちゃんが親からも愛されぬ
不幸な子だったからでしょう。
はやく母親に死なれ、親から可愛がられた記憶がないという
『坊っちゃん』の主人公に、
私たちは 漱石自身の不幸な生いたちが
刻み込まれているのを 感じます。
『坊っちゃん』は痛快なユーモア小説だけれど、
その笑いのかげに、
やはり孤独な漱石の、
真実の愛を求めてやまぬ寂しい心が
しみじみ感じられるのです。
そういえば、漱石の最初の作品である『吾輩は猫である』の主人公も、
生まれるとすぐ捨てられて、
親の愛も知らず、厄介者あつかいされる
不幸な猫でした。
人間たちから無視され、名前さえもつけられないこの猫は、
わずかに 苦沙弥(くしゃみ)先生のお情けで、
台所の片すみに辛うじて命をつなぐ、
あわれな猫でした。
しかしこの猫は、
万物の霊長などといって いばっている人間たちの、
いつわりやおろかさを
笑っているのです。
元来この猫の主人である苦沙弥先生が、世間から無視され、
生徒からも馬鹿にされる、
中学の 無名の英語教師なのでした。
当時の社会で、力をもち、はばをきかせていたのは、
金持ちであり、華族であり、
軍人や政治家たちでした。
かれらは金力や権力をもって、善良な人々を圧迫し、
自分のおもうままに 支配しようとします。
世間の人たちも、この金力や権力に頭を下げ、
その手先になって、
金力や権力に従わないものを 圧迫しました。
漱石はこれらの人々に対して、お金も地位もなく、世の中から馬鹿にされている、
無名の猫と主人を、その仲間たちを、
社会的には無力であっても、
人間(?)としては、
はるかに高いものとして 描きました。
そして、
お金さえあればなんでも出来ると考えている実業家と、
その家族の、
人間としての下劣さ、卑しさを、
思う存分に描きました。
漱石は、四民平等の新しい社会をつくろうとする、はげしい時代の精神に
はぐくまれて 成長しました。
漱石には、
平民の子としての 自覚と誇りがありました。
しかし
いつのまにか明治の日本は、
金持ちや華族や軍人たちが、
金力や権力で善良な人たちを苦しめる社会に なってしまったのです。
日清・日露の戦争は、数え切れないほど多数の国民を戦場で殺しましたが、
その結果
肥えふとったのは、
成り上がりの実業家たちでした。
政府と結びついたかれらは、
国民を思うままに支配するようになりました。
人間が人間として尊重されず、人間の真実の愛など、無視され、
ふみにじられました。
お金がすべてという世の中になってしまったのです。
漱石はこのような社会に対して、
はげしい怒りをおぼえました。
漱石ははっきりと、こんな社会とたたかうために、自分は文学をやるのだ
といっています。
お金は大切なものだ。漱石はよくそれを知っていました。
けれどもお金がすべてではない。
お金以上に大切なものがある。
漱石はそのことを、世の人に知らせたいとおもいました。
お金よりも大切なもの、
それは人間でした。
真実の愛でした。
人間らしいやさしい心であり、
親切な心でした。
そしてまた 人間ひとりひとりの自由と独立でした。
人間は各人がそれぞれに自分自身を大切にし、
自分の力で 生きていかなければならない。
しかし自分を大切にするものは、
他人をも大切にしなければならない。
自分のために
他人を犠牲にしてはならない。
漱石は対等平等な人間どうしでつくる自由な社会を夢見ました。
この考えから、自分たちだけの利益のために、
民衆を苦しめる金力と権力を
はげしく憎み、
強く抗議したのです。
『坊っちゃん』や『二百十日』には、
漱石のこんな考えが
はっきりと表現されています。
・・・・・
」
このあと、伊豆さんのお話は
『虞美人草』や、『三四郎』や、『こころ』『明暗』にまで
つづいていき、
そうせき文学の全ぼう(貌)を
伝えています・・。
そうせきろん(漱石論)をてんかい(展開)する、
さまざまにすぐれた人がいるのは
知っているけど、
「この先生の『あとがき』には
心につきささる、
漱石の文章のような、力を感じた。」
と
うちのチットは まいっていました
(その19、「一六本舗の坊っちゃん団子」に、つづく)