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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

9.11を思ってみると

2018-09-23 | エッセイ

 今年(2018)も、忘れられない日の一つ、9.11をアメリカのTVで見た。日本では、ほとんど特集は組んでいないようだった。

 2001年9月11日の夜、TVを点けると、すぐには理解できない映像が流れていた。ニューヨークのワールドセンタービル(WTC)二棟に旅客機がためらいもなく突っ込んでいた。しかも、連続して二機もだ。ペンタゴンにも、一機が突っ込んだというニュースも流れた。アメリカがテロ攻撃を受けているのだと理解するには、ちょっと時間がかかった。これはリアルなのかと、何度も画面を見直した。



 <攻撃直後のWTC>

 ハイジャックされたUnitedとAmericanの4機のうち2機がコースを変えて、WTCの北棟(#1)と南棟(#2)に順次ぶつかって、二棟とも焼け落ち、3000人以上の犠牲者を出した事件だった。



 <宇宙から見た燃えるWTC>

 ここで書きたいことは、この事件が最終的にアメリカ人にどういう影響を残したかを推測してみることにある。

 世界的規模での話をすれば、ご存知の通り、アメリカ人の持つ「America is No.1」という安心感から、政治的にも社会的にも「見えない不安」への転換のトリガーになった9.11だったようにみえる。

 犯人は、ビンラディン率いるアルカイダの仕業とアメリカ政府は決めつけた。そして、これがアメリカ本土への最初の武力攻撃だと、アメリカ国民の気持ちを不安から怒りに変えた。太平洋戦争の日本軍の真珠湾攻撃は、あれはあくまでハワイという孤島であり、アメリカ本土への攻撃はこの9.11が初めての事だったから、ショックは大きかった。同時に、アメリカ人の怒りはアラブに向けられ、イスラム原理主義、そしてアラブ社会、そののものに向けられた行った。

 結果、イラクに矛先は向けられ、フセインを倒せと戦争を始め、さらにはアフガニスタン攻撃にまでエスカレートして、世界をテロと戦争の世界へと向かわせることになったのはご存知の通り。イラク戦争でブッシュがフセインを倒したことで、それが「アラブの春」の引き金になり、アラブの世界の全体を不安定にし、今も続く混乱が多数の難民の流出をもたらした。 

 この間アメリカ国内では、「なんとなく大丈夫だ」という空気を、「見えない不安」へと、国民を導いていったようだ。

 そして、多民族・多宗教・文化の多様性を標榜していた民主主義の代表だったアメリカを、より偏狭な非民主的、恐怖心に満ちた世界、孤立の世界へと変えていった。復讐心は、暴力を生み、テロの連鎖につながって今日がある。

 ついには、トランプ大統領の就任で、教育と宗教により育っていた許容にあふれた礼節の心は、その歯止めを失い、セルフィッシュな思った通りのことを公に言っても、行動してもいいのだ、とアメリカ人の半分は考え始めた。僕が尊敬していた民主主義の代表であるアメリカは変質したと見える。

 価値観的に見れば、アメリカは多文明を否定し、多文化を容認せず、多極化やグローバル化を排し、モンロー主義的なような偏狭な孤立国家の方向へ入り込んでいるように見える。

 国際社会におけるアメリカの大国としての存在感など気にもしないで、CCPパリ協定(地球温暖化対策)から脱退した。これ以上、地球の温暖化が進めば、世界中がアメリカを含めて、被害を受けるかもしれないとは考えなくなっているようだ。



 <9月の熱帯低気圧 左から2っ目:台風22号、右から3っ目:フローレンス>

 個人レベルで見れば、アメリカ人には何でも許され、自分の幸せだけを追求していく権利があるのだと考えているようにも見える。



 <肥満のニューヨーカー>

 これには、9.11が大きく影響していると、僕は思う。

 1990頃まで、アメリカの社会では肥満の人を、自己コントロールができない人と普通に考えられていた。だから、肥満は自分で厳しく管理して行くのが当然だと、広く信じられていた。しかし、最近のニューヨーカーを見ると、結構な肥満体を見る。これは何だろうと考えた。

 僕には、こんな考えが浮かんだ。9.11以降、「明日のことはわからない」という気持ちが、従来コントロールされていた食欲の開放へとつながり、生きている今のうちに、自由に好きなだけ、楽しんで食べればいいや、と変化してきたのではないかと思う。データは、結果の肥満の増加を示している。



 <肥満度の推移>

 こう考えると、敬意をもって見ていたアメリカも変わったものだと思ってしまう。



<グランド ゼロ>

 3000人の鎮魂は、これで終わったのだろうか?そして、アメリカはどこに行くのだろうか?


奇妙なカウンセリング

2018-09-09 | エッセイ


 IBMでの経験の中で、一番奇妙だったカウンセリングのことを書いておこうと思う。

 その頃、僕はIBM製品開発製造部門のアプリケーション・システム担当部長だった。僕の責任は広く、大和研究所、藤沢工場、そして滋賀県にある野洲工場の組み立てラインも、アプリケーションに関しては、僕の守備範囲で200人近いSEが僕の下にいた。



 <元IBM大和研究所>

 問題が起きたのは大和研究所のY課長の下にいたHというSE.。IBMは、日本の会社にはないユニークな人事制度を持っていた。それは、A&C(appraisal:評価とcounseling:助言)と呼ばれ、年初に課長と部下とが差しで年度目標(業務目標と本人の成長目標)を立て、中間で進捗を見、年末には達成度合いを評価し、結果を共有するというプログラムだった。それが、その年の人事評価のベースだだった。これで、翌年度の目標が決まってくる。

 Hは、僕の下の次長さんのもとにいる課長さんの所属だった。A&Cの責任者は課長。次長経由で、HのA&Cがもめていると聞いた。課長は経験者だし、次長もついているからと、様子を見ていた。

 Hのバックグランドくらいは知ってこうと、人事ファイルを開いてみた。素晴らしいキャリアだった。北陸の公立高校からストレートで東大工学系へ、その後、大学院の修士を終了してIBMの研究所に入っていた。最近は理系学部卒の25%くらいが修士に進学しているようで、特別ではない。が、専攻がちょっとユニークだった。流体力学の研究となっていた。なぜ、この研究ジャンルをもって、研究所の情報開発部門のSEとなったのだろという疑問が沸いた。しかし、わからなかった。



 <流体力学>

 彼がA&Cで不服といっているのは、評価と昇進だという。同期に比べて、プロジェクトリーダーをやらしてもらえないし、結果として、係長への昇進も未だということらしい。SEの仕事は、一人ではできない職種だ。必ず、SEの仲間、ユーザーサイドのプロジェクトメンバー、ときにはユーザーのマネジャーともコミュニケーションが必要となる。彼は修士を終わって入社し、4年ほどは経過していた。少人数のプロジェクトを、入社以来5個ほどやってきていた。同期の、他の大学からの仲間には、昇進しているものもあった。



 <グループ>

 なかなか決着しないというので、僕が一度会ってみようかと、課長さんに伝えた。IBMには、スキップ・インタヴューという制度があって、直属の上司を飛ばして、さらに上司に話すことも可能なユニークな仕組みがあった。Hさんに会ってみた。

 彼が問題にしているのは、次のようなことだった。成績は高校で一番、東大もストレート、修士論文も評価されIBMへの就職も決まった。仕事でも、ほかの大学を出た人たちよりいい仕事ができていると思っている。しかし、評価がよくない。プロジェクトのリーダーにもなれないし、係長への昇進も仲間に比べて遅いと感じている。母も疑問に思っていると言うことだった。お袋さんが、この会話に出てくるとは驚いた。



 <SEに求められるスキル>

 基本の基本、SEに求められるスキルについて話してみたが、反応は鈍い。お袋さんに東大の院卒なのに、他の二流大学卒の同期の仲間より昇進が遅いのはおかしいとか、課長さんの評価がおかしいのでは…と言われたようだ。僕は、それを聞いて、唖然とした。強烈なマザコンの彼の性格を感じたのだ。もちろん、今まで挫折など経験したことがないという。これでは若手の課長さんでは、歯が立たないかもしれないなと感じて、一度、お袋さんも入れて話してみようかと課長に提案した。

 お袋さんと課長と3人で、会社の応接室で話した。お袋さんとの話は、まったく問題の解決にはならなかった。お袋さんは、この子はずっととてもいい子で、誰にでも好かれ、勉強もできて家族の期待だった。大学も東大にストレートで入ったし、難しい工学系の修士も留年なく終えて、IBMさんに入った。しかし、もう3~4年も経つのに、係長にも成れないでいる。これは、IBMさんの育て方が悪いのか、さらに課長の評価が間違っているのではないかと話された。



 <CPUはつながっていない>

 僕はグループリーダーの役割、期待されることを話した。一番大切なことは、プロジェクトのメンバーと、ちゃんとしたコミュニケーションが取れること、お互いに補完的であること、つまり人の気持ちがわかること、一緒に問題の解を探し出していくことだと話した。Hさんは一人で自分のことはできるが、残念ながらグループとして動くことができていないと話した。しかし彼女の怒りは収まらなかった。とにかく、その日はお引き取り願った。そして、僕の判断でHの親父さんと連絡を取り、二人で会うことにした。

 実社会で生きている親父さんは、僕の言っていることの社会的意味を理解してくれた。彼はHさんのことはお袋さんに任せっきりで、ここまで来たようだった。

 Hさんは、どうも答えがみえない問題には対応できないようで、完全主義とでも言える。彼のためには、うちを辞めて、高校の数学の先生にでもなったらどうかと、話した。理由は、高校の先生であれば、学生とのコミュニケーションにあまり悩まされなくても済むし、高校レベルの数学であれば、選べる解は一つしかないと考えたからだ。親父さんは、自分でも考えてみるといって帰っていった。

 Hさんは、ほどなく、会社に辞表を出した。

 気になっていたので、1年ほどたって、親父さんにH君はどうしてますかと電話を入れた。親父さんは明るい声で、金沢の私立高校で数学の教師をやっておりますと答えがきた。よかった。これなら、彼も彼なりに幸せだろうと思った。



 <数学の授業>

 今考えても、変なカウンセリングだったなあと思う。所属のSEの問題が、お袋さんと親父さんまで巻き込んでの、A&Cになったからだ。しかし、最近のカウンセリングは、家族をふくめて、解を求めていくのもあるようだ。意識はしてなかったが、そのジャンルのカウンセリングをやっていたことになるのだろう。


都美術館から浅草へ

2018-08-26 | エッセイ


 今年の春は、上野にも浅草にも出かけられなかった。本当に悔しい思いをした。
(参照リンク:悔しくて、悔しくて
 https://blog.goo.ne.jp/certot/e/42d450938e142cb40ddcef651a5c6b5a 



 <プーシキン展>

 このままでは自分が腐ると考えたから、外出のチャンスを狙っていた。そこに、朗報が入った。洋画家だったおやじが育てたお弟子さんから、上野で新構造の本展が開かれると聞いた。しかも、冠賞、徳山賞が今年から設けられて、初めての作品が決まるという。モダンアート展で、SIさんの作品を見逃して機会を失っていたから、ちょうど「プーシキン美術館展」が来ているというので、それを兼ねて久しぶりに都美術館を訪ねてみた。足のしびれも処方の漢方薬が頑張ってくれて、何とか歩けそうだったから出かけてみた。



 <モネ:草上の昼食>



 <マネ:草上の昼食>

 プーシキン展の売りは、印象派に通ずるマネの「草上の昼食」から刺激を受けたモネの「草上の昼食」だった。残念ながら、マネのそれは展示がなく、モネの作品のみだった。モネのオリジナルではないとはいえ、モネにしてはつまらない絵だった。これだったら、やはり元祖、マネの方のインパクトの大きさが明らかだ。



 <美術展のシルエット>

 いつものように、日本の美術館特有の作品ごとに解説のオーディオを聞きながら、絵の前に陣取り、後ろの人のことなんか気にかけない光景がそこにはあった。順番に絵を見て、順番に解説を聞いて、順番に紐状になって絵にへばりついている。こんなのに付き合っていたら、最低1時間半は人の列の中にいることになる。早々に後ろに下がって、背伸びして、一室の絵の全体を見る。そこで気に入ったものがあれば、近寄ってディテールを見る方法に切り替えた。これが僕の日本での展覧会の見方。

 風景画の展覧会だったが、ジベルニーのモネの絵も大したことはなかった。よかったのは、セザンヌのビクトワール山とブラマンクの小川だった。



 <セザンヌ:ビクトワール山>



 <ブラマンク:小川>

 新構造展は、いつもとおり人は少ない。だから、見る絵を邪魔するシルエットはない。



 <新構造>

 親父のお弟子さんの絵を三枚見て、あとは親父の冠賞、徳山賞の絵を探す。第11室にその絵はあった。後で聞いたら、絵、そののものと賞は関係なく、会員の中から長年の功績で選ばれるという。ちょっとがっかりだ。まあ、絵は悪くはなかったのは救いだ。



 <徳山賞:大形久典氏 「京都駅にて」>

 二つの展覧会を見たら、もう上野公園には用はない。ここで、いつも迷いが生じる。この後、生まれ故郷の谷中に足を向けるか、それとも浅草に出て一杯やるかという選択だ。でも今回は、どうしても気になっている浅草の居酒屋のおかみさんの顔を見ておきたかったから、美術館横からタクシーを止めて、言問い通りで浅草寺裏に向かった。



 <美術館の横>

 ここには、一年に二回は顔を見せることにしている。もう40年以上も前、大学時代から通った店で、もつ焼きと煮込みが安くてうまい。久しぶりに会ったおかみは、元気そう。口数は少なく、ぶっきらぼうで、どちらかというと、とっつきにくい。「久しぶり。気になっていたんだけど…」と声を掛けたら、「体でも壊したの」と、珍しく言葉が返ってきた。まあ、一安心。



<居酒屋>

 ここのもつ焼きは、女将が丁寧に、遠火で焼いてくれる。塩加減もばっちり。これにからしをつけて食べると「旨い…」となる。あとは、煮込み、お新香、ツブ貝を、レモンサワーで平らげる。食べる時間は、40分位。いつも短い滞在で終わりだ。おかみの顔が見れればそれでいい。じゃあまたねと、35℃を超える炎天下を伝法院通りに向かう。
 
 浅草に来て、浅草寺に参らなかったとはないので、仲見世で左に曲がって、参道にでる。ごったがえす人の群れ。レンタルの浴衣を着た外国人が、写真を撮ってはしゃいでる。35℃をこす暑さの中で、本堂までお参りに行くのは勘弁してもらって、仁王門で手を合わせた。まあこれでいいだろうと自分で納得。



 <並木 やぶ>

 恒例のそばを食べようと十和田を訪ねると、臨時休業の張り紙。薬研堀の七味のブレンドも休み。そうかといって満留賀でまずいそばを食べるのは気が進まないので、暑い中を雷門まで戻って、ちょっと離れた並木の藪に入ろうと行ってみる。と、二組が待っている。しかも、すぐ前の若い二人組は、並木につく10mぐらい手前で追い越された二人だ。ちょっと悔しい。結果として、15分くらい待たされて、ざるを注文。あっという間に平らげて、蕎麦湯。もうせんに比べて、少したれの味が薄くなったようだ。もうせんほど、しょっぱくなくて、これはこれでいいのかもしれない。

 駒形橋で電車にのって、熱い、熱いと言いながら、帰ってきた。

 居酒屋のおかみさんの顔を見ることができただけでも、今年になってからの不義理が消えた。足も頑張って、4㎞近くを歩いてくれた。ただ、30度越えの暑さと湿気には参った。

 でもやはり、時に懐かしいところに出かけると、僕の気持ちを柔らかくしてくれる。やはり、浅草はいい。


足で立ったことのあるアルプスの山

2018-08-12 | エッセイ

 自分の足で地べたを踏んづけたヨーロッパアルプスの山たちのことを書いておこうと思う。

 最初のアルプスとの出会いは1970年。以来、2016年までの間に、そこに自分の足で立った場所をリストアップしてみた。まだまだ、いろいろあるけれど、一応2300m以上の場所に限定してみる。すると、下記の7か所がリストアップされた。どこも懐かしく、思い出を語り始めたら、とてつもなく長いものになってしまうから、エッセンスに絞ってみた。

 時系列で書いてみるのも手だけれど、何度も行ったところもあるし、何時だったか定かでなくなっているので、分かりやすく高い順に並べてみた。


1.プラトーローザ(イタリア側から):3,480m

 ここが一番高いとは全く思っていなかった。ユンクフラウヨッホのほうが高いと思い込んでいた。思い込みって、怖いね。



 <「ふたりで山歩き」から借用:プラトーローザから見るチェルヴィーノ>*1

 ミラノ駐在中、ずっと行ってみたいと思っていた場所、ヴァッレ・ディ・アオスタの谷の一番奥にあるチェルヴィーニア村からのルートだ。

 日本ではマッターホルンとして知られるこのスイスの山は、イタリアでは、チェルヴィーノと呼ばれ、マッターホルンとは呼ばない。スイスとの国境に登れば、チェルヴィーノもモンテローザもばっちりだと考えて、急な谷を車で登って行った。チェルヴィーニア村についたのは夕暮れ時で、ホテルからチョットした高みに登れば、目の前にチェルヴィーノが夕日を背に姿を見せた。翌日、ロープウエイを二回乗り継いで、スイスのツェルマットからの客とプラトーローザでこんにちはとなった。チェルヴィーノを眺めながら、ワインとチーズとパンで優雅な昼食となる。山の上に、こんなリラックスできる場所があると驚いた。


2.ユンクフラウヨッホ:3,454m (ちなみにユンクフラウ山:4,158m)



 <ユンクフラウヨッホ>

 ここは、あまりにも有名だから、たいして書き足すことはない。ただ、今は潰れてしまったグリンデルバルトのホテル・レジーナの食堂から、目の前に広がるアイガーの北壁をザイルに身を託して登っている登山者たちを眺めながらの朝飯は、忘れられない.



 <アイガー北壁>

 クライネシャイデックで雪合戦をしたこととか、登山電車の終点、ユンクフラウヨッホ駅に降りると、「走らないでください」と注意書きがあったことなどが、妙に印象に残っている。グリンデルバルトの逆側のラウテンブルンネンや、ミューレンの背の高い滝は再度見てみたいが、もうちょっと無理だろう。


3.ピッツネール スイス・サンモリッツ:3,056m



 <ピッツネール>

 ここにはたくさんの思い出が残っている。

 冬に、日本からスキー靴を担いできたKさんに脅迫されて、スキーに乗ったことがある。そのころはまだ、ミラノからの高速が出来ていなくて、一般道を3時間もかけてサンモリッツまで登ったものだ。そしてスキー。まだ初心者の僕は、パラレルはできなくて、シュテムクリスチャニアで3時間くらいかけて、降りて登ってを繰り返した。問題は、登りのTバーリフト。日本では使ったことがなくて、Tの字のバーを両足ではさみ、スキーを斜面につけて登っていく。斜面には凸凹があるから、うまくバランスが取れないと放り出される。また、スタート地点まで下りて、やり直しだ。

 一昨年(2016)、20年ぶりに、ゴンドラでピッツネールまで登ってみた。僕の病の心臓君にとってはきつかったようだ。


4.ディアボレッツア スイス・ベルニーナ:2,973m



 <ディアボレッツア>

 一昨年、有名なベルニーナ急行に何年振りかで乗って、ティラーノから登ってきた。頂上では、もう本当に心臓君が文句を言いだして、苦虫を噛み潰したような顔を何枚か写真にとって、駅の非常口から逃げ帰ったことが鮮明だ。名前の通り、そこには僕にとっての悪魔が住んでいたようだ。


5.ツークシュピッツエ:2,962m(ドイツ最高峰) 



 <ツークシュピッツエ>*2

 山頂がドイツとオーストリアとの国境で、そこまで長い、長いロープウエイで、急峻な岩肌を縫って登っていく。僕たちは、チロルのエールバルトから、2,000mの標高差の岩肌を見ながら、揺れながら登って行った。その頃はまだEUはできていなかったから、山頂の尾根にちゃんと国境検問所があって、パスポートコントロールをやっていた。フェースブックにツークシュピッツエがアカウントを持っているから、時々、その姿を楽しむことができる。

6.グローシュグロックナー オーストリア:2,369m



 <グローシュグロックナー>

 正式には、フランツヨーゼフヘーエ展望台が正しいだろう。イタリアからオーストリアに入り、グニャグニャとグローシュグロックナー・アルプス山岳道路を走って、展望台からオーストリア最長9.4キロの、パステルツェ氷河を眺めることができる。夏でも、氷河から冷気が上がっていて涼しい。とにかく眺めは素晴らしい。 


7.スピナーレ ドロミティ ディ ブレンタ:2,304m



 <スピナーレ>

 日本ではあまり知られていないブレンタ山塊、ドロミティの西にあるドロミティ・ディ・ブレンタの中心地、マドンナ・ディ・カンピリオのすぐそばにある山だ。

 僕のミラノの友人がマドンナに別荘をもっていて、そこで何度か一緒に週末を過ごした。その時、友人と、友人の子供、そのころ5歳のチビも一緒に登ったのがこの山。もちろんロープウエイで直下まで近づいてからの山歩きだった。いまや、そのチビの子供が3人(友人の孫にあたる)。懐かしい山歩きだった。


残念無念のマルモラーダ イタリア・ドロミティ:3,343m



 <マルモラーダ>

 ドロミティは大好きなところだから、何度か訪れている。ここは、車でしか回ることはできないと言っていいだろう。ミラノ→ヴェネチア→コルティナダンペッツオからポルドイ峠、そして、大好きなオルティゼイへのコースが大体、決まっている。このコースの途中に、いろいろな訪れるべきスポットがあって、ゆっくり回れば、2週間は十分に楽しめる。

 ドロミティ山塊の最高峰、マルモラーダには、ふもとのマルガチアぺらまで行ったけれど、僕の下調べがまずかったので、山頂に登るロープウエイが動いていなかった。ちょうど、シーズン前のメインテナンスの時期と重なったのだ。マルガチアペラで悔し涙を流す僕を、ガランガランと大きなカウベルをつけた牛たちが慰めてくれた。



<マルガチアぺらから見た、マルモラーダのロープウエイの駅>


番外1.アメリカ・パイクスピーク コロラド:4,301m



 <パイクスピーク>

 最近は、山頂までのパイクスピーク・ヒルクライムが有名になって、レースを見るため、結構人が集まっているようだ。アメリカのロッキー山脈の高い山だ。僕は、アッスペンから、コロラドスプリングスまでを走るのに、ちょっと味をつけようと、登ってみた。降りてからは、ただただ砂漠と岩の柱だけの、まっ平の道が際限なく続いていた記憶がある。運転には面白くないところだ。


番外2.日本・白馬岳 長野:2,932m



 <白馬岳>

 番外中の番外。日本で僕の歩いた一番高い山は、後立山の白馬岳→唐松岳→五竜岳→鹿島槍の縦走。最高峰の白馬(しろうまを間違っても、はくばと呼ばないでほしい)が、大切な記録だ。


 くたばるまでに、もう一度行きたいところはどこかと聞かれれば、ドロミティかもしれない。


P.S.:写真のクレジット情報 *

*1.プラトーローザは「ふたりで山歩き」からオーナーの了解を得て借用
リンクは、「イタリア・アルプス展望ハイキング」から
http://www.our-hiking.com/abroad_alps-italy9.shtml 
  
*2.ツークシュピッツエは、Cristian Nawworthさんの写真
ライセンスは、Creative Commons 3.0 です

ミラノの緑 Bosco Verticale

2018-07-29 | エッセイ



 2016年のミラノ3週間の旅の後、ずっとミラノの夕刊紙、Corriere Della Seraを注意深く読んでいる。

 2016年、友達に連れて行ってもらった「縦の森:Bosco Verticale」のその後を知りたいのと、それを含む、ミラノの都市再開発のプロジェクトの進捗を知りたいからだ。

 「縦の森」については、このブログにも書いているから、お読みになった方はご存知だろう。2014年に完成した、女性建築家、ラウラ ガッティさんの世界一美しい“Best Tall Building Award”として表彰された作品だ。ミラノ市内にある平面の森たち、例えばパルコセンピオーネなどと違って、27階建てと19階建てのマンション、2棟を「森」にするという構想だ。友達にミラノでどこか行ってみたい所はあるかと聞かれたので、僕は即Bosco Verticaleと言っていた。車で連れて行ってもらって、実物を見た。素晴らしいアイデアだ。

 建築設計者はStefano Boeri Boeri Studio。ランドスケープアーキテクトはLaura Gattiで、ランドスケープをデザイン。8000本の樹木を植えたツイン・レジデンスで、一番安いので7000万円、高いので2億円と言われている。

 これからのメインテナンス、木が大きくなる、重くなる、剪定をどうするなどの問題があると思うが、四季の写真を見ると美しい。











 <Bosco Verticaleの絵たちx5>

 このほかにも、ポルタ・ヌオヴァ プロジェクトには、三つの地域が含まれている。さらに「縦の森」と同じ地区には、「ウニクレジトタワー」や「ソラリア住宅」がある。

 なぜミラノの都市開発を取り上げているかを、話しておきたい。ポルタ・ヌオヴァは、もともと、ガリバルディ駅のあいた広い場所、操車場跡で、その都市再開発から始まっている。

 これで思い出すのは、東京汐留のJRの汐留操車場跡の再開発だ。JRが地主で早く売れることを目標としたらしく、全体の基本構想がないまま、買主に任せきりにした都市開発が、今の汐留の乱雑さを生んでいると思う。最初に地域全体のトータルのイメージがないまま、買主が好きな建物を建てたから、シオサイトという名前こそあれ、町全体にはデザイン性の統一のかけらも見られない。残念なことだ。豊かな浜離宮との延長線上で、どんな地区にするかというイメージがはっきりしていたら、もう少しましな街になっていただろうと思う。

 東京湾からの涼しい海風の「風の道」をデザインしなかったから、海風が新橋駅の北側には吹かなくなったと聞く。さらに、埼玉県熊谷近辺の異常高温の原因にもなっているらしい。立ちはだからる高層ビル群が、風を通さず、さらに、土の地面や草や樹木を無くしたヒートアイランド現象も伴って上昇気流となって東京の上を吹き上がり、フェーン現象の状況を起こして熱い空気を熊谷あたりに着地させるという。



 <SIOSAITOのデザイン:汐留地区街づくり協議会のスケッチ>

 同じことが、品川駅南口開発でも起こっている。乱雑なビルたちの林になっているにすぎない。全体的なイメージが見えてこないないのだ。美しくはない。そういえば、東京駅を囲むビル群にも、デザインの統一性はない。

 Porta Nuovaは、2004年に基本構想が承認され、地域全体でのイメージを持ったプロジェクトとしてスタートしている。再開発の監督責任は、一私企業、ハインズが行っている。2005年に建築が始まり、2015年のミラノ・エクスポを最初のフェーズとして進められたらしい。



 <全体的基本構想モデル>*

 ちなみに、国立公園は100000㎡もあり、これがデザインの中心。
      オフイス:98,800㎡、商業スペース:17,850㎡、
      文化的空間:3,760㎡ 370のマンション:70,000㎡ 
      駐車スペース:3,770㎡ 展示施設:11,600㎡
ときくと、そのスケールのデカさがわかる。ヨーロッパ一の工事現場とされている。

 ウニクレジト(イタリア1の高層ビル)の構想は、エクスポ前に完成し、市民公園や、植物園、市民の地域などの付帯工事が今も続いている。



 <クレディト構想モデル>*



 <現物のウニクレディト>

 これだけでも美しいが、この近くにトレ・トッリ地区があり、三つのオフイスタワーが立てられている。ここには、日本人の設計家isozakiさんのタワーや、日本でも新国立競技場の設計で有名になった、ハディドさんのひねったビルがある。三つ目のタワー・リベンスキンドの垂直面がゆがんだユニークなビルも建設中で、最初のアイデアを見事に生かしている。



 <三つのタワー: 完成予想図>



 <ISOZAKIタワー>


 <ハディドタワー>



 <三本目は建設中:PwC タワー>


 他の地区では、ハディドさんの設計のマンションや、奇妙なダイヤモンドビル、マイクロソフトのピラミッドなどもあり、ミラノの建物の変わりようは、十分楽しめるものになっている。

 街はこんな風に作らなくちゃねという見本だと思う。

 今後も、ポルタ・ヌオヴァの変わりようは、追っかけていくつもりだ。楽しいから…。


P.S.
・Wikipedia イタリア語版、ポルタ・ヌオヴァ プロジェクトを参考にしました。
 https://it.wikipedia.org/wiki/Progetto_Porta_Nuova

・東京での反省(シオサイト、品川田町、東京駅)については、「日経電子版」が指摘している。
https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/tokyo-urban-heat-island/?n_cid=DSPRM3815

・クレジット*:
 ポルタ・ヌオヴァ基本構想: by Luca Chp  Creative Commons BY-SA 3.0
 ウニクレディト:By Luca Nebuloni  Creative Commons BY 2.0
 あとの写真は、Corriere della Seraの記事よりお借りしました。