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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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平林寺を歩く

2018-12-02 | エッセイ
 
 やっとこさ、カスケットリスト(棺桶リスト:くたばるまでにやっておきたいこと、行きたい場所などの一覧表)の7つの未達項目の一つが消えた。2012年に作ったリストに一つ、丸が付いたわけで、自分ではうれしく思っている。



 <平林寺>

 独断的に言うと、僕はこの臨済宗妙心寺派の金鳳山 平林寺が、関東で一番の寺らしい寺だと思っている。鎌倉の寺も、谷中の寺たちも、この寺にはかなわない。ここには、ほかの寺たちが忘れてしまった静けさと、武蔵野の自然、雑木林がある。さらに昔、玉川上水から派生した野火を止めるための役割のほかに、人の生活の基礎となる飲料水を確保するという野火止の用水を開削した歴史もある。

 平林寺は、43ヘクタール(およそ13万坪)の広大な敷地の中に、2800坪の山林に武蔵野の面影を残し、栗、コナラ、クヌギ、槇、アカマツ、竹林などの雑木林が残してある。手入れの必要なこんな雑木林を保全しているところは、他にない。しかも、都心、池袋から30分もあれば着けるアクセスだ。



 <林>

 この寺を教えてれたのは、僕の初恋の人、女子美に通っていたNさんだ。50年以上前のこと。そのころ、彼女は江古田に住んでいた。三軒茶屋の近くの三宿の叔父さんの家を、深い事情でどうしても出なくてはならなくなって、僕も一緒になって探した江古田にある一軒家の二階を借りていた。

 初めて、平林寺を訪れたのは、8月20日だった。何故、そんなに明確かというと、僕の使っていたスケッチブックに残っている平林寺の絵のサインに、日付が書いてあるからだ。今見てみると、その時の自分の感覚がよみがえってくる。今回訪れてみると、総門の前の竹やぶにほれ込んで描いた絵が、そんな思いを蘇えらさせてくれる。同じ日の赤松の絵も数枚、残っている。



 <僕の描いた竹藪>

 僕がこの平林寺にほれ込んだのは、大好きな奈良のいくつかの寺たちと同じ感覚が残っているからだろう。例えば、唐招提寺であり、興福寺でもあるかもしれない。もちろん、僕と並んで座って真剣にスケッチしているNさんの存在があったのは、言うまでもない。鎌倉の寺も、Nさんと歩いた記憶は鮮明だ。しかし、僕のつまらない横道のせいで、中野の三味線橋のアパートでの同棲は、突然断ち切られた。しかし、今もNさんの展覧会は、毎年上野まで見に出かけている。



 <竹林:写真>

 その次に平林寺を訪れたのは、大学の4年生のころ。僕の指導教授の桂田利吉先生を囲んで、クラブの連中と山奥深くまで歩いた記憶が明確だ。今は閉ざされている、クヌギやホウ葉が厚く敷き詰められた寺の奥の林を、パリパリ、カサコソという音を立てながら、葉の無くなった木立を見上げていた僕たちがいる。おそらく、クラブの部長をしていた僕の発案で、無理を言って桂田先生を引っ張り出したのだろう。残っている白黒の写真を見ると、先生は杖を突いていらっしゃるようだ。



 <故桂田利吉先生、故K君と一緒に>

 東上線の沿線に住んでいらした先生の通夜には、仕事を抜け出して先生の顔を見に、藤沢から成増の寺を訪れたのを覚えている。もし、先生の引きに応じて大学院に進んでいたら、僕の人生は全く違ったものになっていたかもしれない。ちなみにK君も、昨年亡くなって寂しくなっている。

 そんな思いを背負って、今回、40年以上も行っていない平林寺を改めて歩いてみたわけだ。写真に見るとおり、紅葉のピークには少し早すぎたようだ。まあ、赤と、黄色と、緑色が入り混じって、美しいタイミングであったかもしれない。比較的、人が少なくて、テレビでよく見る紅葉狩りの大混雑とは出くわすことなく、静かに歩けたともいえるだろう。



 <色>

 昔の山の中には入れなくなって、ちょっと残念でもあったが、寺の質は落ちてはいなかった。ゆっくりと歩いて、カメラを向けながら、伽藍の姿と、芝と、苔と、紅葉の色を楽しめて、来た甲斐があるなと思った。もちろん、名前が売れて、観光地化したことは否めない。順路は傷んでいるし、大木の根っこは踏んづけられて、悲鳴を上げていた。禅宗の道場でもある寺の草むらで、弁当を広げている馬鹿な連中も散見した。



 <寺>

 残念ながら、一人の僧侶にも会わなかった。修行僧とは会えないとはわかっていても、読経の声、焚く香の香りに乗って、僧侶の姿があってもよかったと思っている。でも、作務衣を着て、落ち葉を掻き集めている若い人がいた。もしかすると、彼は修行僧の一人だったかもしれない。

 40年前と比較して残念だったことは、寺の魅力だった茅葺の屋根を覆っていた苔が、かなり傷んでいたことだ。乾燥して、みずみずしさしさは、感じられなくなっていた。しかも針金のネットで縛ってあった。茅葺の屋根、そのものが傷んでいたようだった。年月と観光化の負の部分を見つけたのかもしれない。



 <苔と屋根>

 今回、発見があった。野火止用水を作ったのは、松平伊豆の守信綱だということだ。彼の先見性と、民を思う心があったからだろうと思う。立派な墓があるなと、写真を撮っておいた。



 <松平信綱の墓>

 もう一度来られるかどうかは、心臓君次第だ。


美しくなくなった車の顔

2018-11-18 | エッセイ


 最近、運転していてバックミラーを見ると、ギョッとすることが多くなった。



 <トヨタ・ミニバン>

 後ろから、金歯ならぬ「銀歯」をむき出しにした車が迫ってくるからだ。気をつけて見ていると、ミニバンが多いようだが、それだけでもないらしい。流行りのSUVでも、セダンでも、軽までも、同じ傾向がみられる。

 僕の借りている駐車場を見渡してみると、そのことが分かってきた。なぜこんな顔になったのだろうと疑問なものもある。美しくない顔のデザインの車が、結構多いのだ。実車を写真に撮るのもなんだからと、メーカーのHPで検索してみると、なんと、美しい車が少ないことか…。もちろん、持ち主の好みだから、僕がとやかく言うことではないが、とにかく美しくないということは明らかだ。車のフロントは人間でいえば、顔だと思っている。大切な顔だ。



 <トヨタの4モデル>

 銀歯をむき出しにした車が多いいことと同時に、ガンダム顔の車が多いことだが目立つ。ガンダム顔の車には、ガンダム世代と言われる40代から50代前半までの世代が大きく貢献しているのではないかと考える。

 メーカーのHPを探してみると、トヨタが一番多いが、日産にも、ホンダにも、同じ傾向がみられる。サンプルをいくつか見てみればそれがわかる。



 <トヨタX2と日産X2モデル>

 別の観点としては、ドイツ・アウディで活躍した日本人デザイナー、和田さんがデザインしたオリジナルの「シングルフレームグリル」の影響を強く受けているようにも見える。



 <アウディのシングルフレームグリル>

 これと、日本独自の歯むき出しの威圧的な押し出しとが融合して、ガンダム車が、日本の車の主流になっているように見える。そして、残念ながら、それらは美しくはない。

 ガンダム世代は車のメーカーの中心的実力者だろうし、購入する車を決定することのできる買い手の年代と相まって、こんな現象が生まれているのではと、そんな推測が僕の頭の中で出てくる。

 ただこの現象は、日本車だけではないようで、ガンダム車はヨーロッパにも結構いるようだ。ドイツでは、BMWもその部類に入るし、最近のメルセデスも、なんだ、お前もかの傾向にあるようだ。和田さんがどこかで言っていたように、他社にも影響を与え、フロントマスクのデザインのひとつの定番になったようでもある。幸いフランス車とイタリア車には、この傾向は少ないように見える。



 <BMWのガンダム>

 日本車の中には、こんなのによく乗ってられるなあとさえ思えるデザインのものもある。どこかで、日本の車のデザイナーが自己弁護して言っていた言葉を思い出す。空力デザインを極めると、ボディ・シェルはだいたい同じものになっていくと言うのだ。他社と同じ車を作ってどうする。全く、だらしないとしか言いようがない。なんとしても、デザイナーこそは、個性的でなくてはならないと思う。

 車は、単に車として存在しているのではなく、都会の風景、山の風景、海の風景、里の風景、そして、春夏秋冬の天候とまで溶け合って存在しているものだ。ぽつんと異質なものを存在させても、まったく意味のないことだと思う。例えば、パリの街角には、パリの石畳の道に溶け合った車がある。イタリアの田舎には、イタリアの田舎らしい小型の個性あふれる車がいる。

 このまま、独善的にガンダム車を作り続けていくと、どこかで、ヨーロッパ以外の国のデザイナーの後塵をも拝することにもなるのではないか、と余計な心配をしている。

 口直しに、僕が好きな、美しい車の顔を紹介しよう。1970年代のくるまの顔たちだ。



 <BMWの3シリーズ>





 <アルファの1970年代X2>

 人間味があふれて、かわいいではないか!

 ちなみに、イタリア人デザイナー、ジウジアーロの1970年代のBMW M1を紹介しよう。どう見えるかは、お任せします。



 <BMW M1>*



 P.S.
 クレジット情報*
 これは、Softeisさんの「BMW M1」をお借りしました。
 ライセンスは、Creative Commons 3.0

来年のカレンダー

2018-11-04 | エッセイ



 僕にとっては、今年はオマケの時間。39歳の時に心理学の演習で、僕の人生は昨年(2017)で終わると自己予言をしていたからだ。やはり、オマケだったようで、1月から調子が悪く、4月には突然、足がしびれ、足の指の冷え、そして痛みが出るようになった。数えてみたら今年の1月から9月末までに、49回も病院やクリニックに通っていた。

 やっと10月になってすこし体が許してくれたので、今年初めての銀座へ。今年、4回目の外出ということになる。体調は完全ではないから、ゆっくり歩くという条件付きだ。




 <銀座4丁目>

 今年、楽しみにしていた予定でキャンセルになったのは、1月のI社コンサルグループの創立メンバーの同窓会、同じく、関東学院大の「講師を囲む会」を提案し、開かれることになったが、残念ながら風邪で言い出しっぺの僕が欠席。4月の初恋の女性画家が出品しているモダンアート展、その帰りの決め事になっている浅草の飲み屋のおかみさんにも会えずじまい。さらには、毎年必ず見に行っていた5月のマリオンの「イタリア映画祭」もチケットまで買ってたのに体調が許してくれなかった。そんなこんなの悔しい思いの前半だった。

 銀座に出た目的は、伊東屋で来年のカレンダーを買うためだ。伊東屋・本店では毎年、10月になると翌年のカレンダー展を始める。月めくりのカレンダーは横浜でも良いものも見つけられるのだが、二か月めくりのカレンダーはそうはいかない。有隣堂を探してみても、見つからない。それで、銀座まで出かけることになる。



 <伊東屋>

 電話などでスケジュールを決めるとき、翌月までのスケジュールをパッと一覧して、間違いない日を約束できるので、毎年、二か月めくりを捜し歩くのだ。一昨年、伊東屋で見つけているので、今年も売り出しを確認して、久しぶりに出かけた。伊東屋でも、二か月めくりは点数が少なくて、なかなか、これというのは少ない。なんとか、妥協できるものを見つけて購入した。

 久しぶりの銀座だから、いろいろ発見もある。

 昔からの店は減っていく一方で、有名なブランド店が、中央通りを埋め尽くしている。もう、個性豊かな店を、冷かしながら歩く銀座とはいかなくなった。三越の隣の元木は、細々と店を続けているが、客の入りも少なく、よく頑張ってるなあと思いながら入ってみた。店の中を一通り見ていくが、僕の予算内ではピンと来るものがない。心の中で、がんばってくださいとつぶやいて店を出た。

 今回、残念なことがあった。



 <煉瓦亭のある通り>

 昼飯を食おうと、和光から一本入った道で、蕎麦屋のきだを探したが見つからない。煉瓦亭の隣のはずだと、行ったり来たりして探してみたが見当たらない。店があったと思われる場所が工事中となっていたので、もしかすると無くなったかなとも考えた。



 <きだ>

 銀座に残った数少ない蕎麦屋のなかで、蕎麦のうまい店だった。狭い店で、テーブルが5つ位しかなく、だいたい10人くらいでいっぱいの感じの店だった。細長い作りで、のれんの陰の大将の顔は見たことがない。接客は年寄りの女の人が一人でやっていて、愛想など全くなく、少し陰気な感じの店だった。蕎麦が旨かったから、なんとか銀座で店を持ちこたえていたのだと思う。

 帰って調べてみたら、きだは、昨年(2017年)4月に閉店したとあった。残念な発見だった。客が残した口コミでは、結構高い評価を得ていたのに…。昨年のイタリア映画祭で、よしだ屋に行ったのが間違いだった。永久に、きだの蕎麦は食べられなくなった。残念。

 大倉商事のビルを眺めていたら、ふっと新しいビルに気が付いた。これは発見だった。



 <遠景のデビアス>

 デビアス(De Beers)が建てたガラスの面がしなやかな曲線をえがく、よじれた形のビルだった。店のHPによると、「女性のシルエットを表現したものだ」とある。高級ジュエリーの店のようだ。類を見ない形のこのビルは、銀座には似つかわしいかもしれない。しかし、入ってみる勇気はない。



 <デビアスのビル>

 いつものように、為永画廊によって見た。画家は香港の画家で激しい色使いが売りのようだが、僕のテイストには合わない。常設のシャガールと、ルオーの小品で、なんとか「口なおし」をして、店を出てきた。



 <Tamenaga画廊>

 ギャラリー「車6735」は、今回はパスした。ここは、超高級外車(数千万以上)の中古販売をしている店で、展示しながら委託販売をやっているという珍しい店だ。もちろん僕には手が出ないが、ウインドウ越しに見たアストンマーチンのうずくまった美しいフォルムは存在感があった。

 仕方なく、よし田で鴨せいろを頼む。蕎麦の味は変わってはいなかった。よかったと、息を吐く。

 レモンサワーと焼き鳥で…と寄ってみた有楽町のガード下のもつ焼き屋は、ちょっと早すぎた。まだ準備中だった。残念。



 <ミッドタウン日比谷>

 久しぶりに、日比谷に向かっていたら、日比谷ミッドタウンに出くわした。この一帯も、映画館だらけの東宝の一角だったが、まるで変っていた。疲れたので広場のベンチに座っていたら、映画の宣伝用の巨大なスクリーンに動く絵が見えた。カメラが動いているんだと分かったから、自分の映像を見るために、スクリーンの真ん前でカメラを構えて自分の姿を撮った。



 <自分の映像>

 面白いもので、僕が行動すると、そこに座っていた人たちが、急に僕と同じことをし始めた。そんなものなんだと、日本人の習性を読んだつもりでいたら、さっきまで隣に座っていた白人のカップルも自撮りならぬ、自分たちの映像をカメラに納めていた。なんだか、ほっこりして、駅に向かって歩き出した。

おかげで、久しぶりの外出は楽しいものになった。足は何とか、がんばってくれた。後遺症はない。


ペルージアの丘から

2018-10-21 | エッセイ


 人がある場所を好きになるには、どんなことが影響するのだろうか。

 ペルージアが好きになったのには、いくつかの要素が絡まって、そうなったんだと思う。

 トスカーナを離れて、車がウンブリアに入ると、とたんに自然が目覚めてくる。しかも、みずみずしい自然だ。それは何かとても懐かしい日本の田舎の風景に似ている。豊かな自然と穏やかな顔をした森、林、それに溶け込んだ小さな集落、緑がその丘を囲んでいた。ああ、ここには自然があるのだと感じた。

 僕が4~5泊したホテルは、ペルージアの旧市街から下った丘の裾野に立つアメリカ的なホテル・プラザだった。



<プラザ・ホテル>

 そして、そこでペルージア好きにしてくれたレセプショニストに出迎えられた。若いイタリア人の美しい女性だった。礼儀正しく、しかし温かく接してくれた。

 イタリアのホテルでは、立派なホテルでも観光客ズレしていて、シャキンとしないフロントマンが結構いる。人懐っこいけれど、どこか真面目さを欠いていて、憎めないが、しかしキチンとした所を欠いたフロントには何度も出遭った。



<プラザ・ホテルのレセプション>

 でも、このプラザのレセプションは、それらのバランスが良く取れた、よく訓練された人たちだった。だから、このホテルに泊まるのが楽しいものになると確信させてくれたのだ。

 ホテルから丘の上のペルージアの旧市街へ行くには、かなりの距離がある。かといって、自分の車で行っても、駐車場があるかどうかわからない。またそんなことに煩わされたくないので、とにかくイタリアの古い町は歩くのが一番だと思ってバスで丘の上の旧市街に毎日、通った。



<ペルージアの「11月4日広場」>

 ペルージアは、一時期、中田がセリエAの初めての日本人選手として話題となったから、その知名度は上がったと思う。ペルージアを僕が訪れた頃は、ジャポネーゼ、即、中田だった。だから、子供たちにNAKATAと声をかけられた。

 紀元前6~7世紀頃に、その地に住んでいたエトルリア人の文明がこの町の基礎を築いたようだ。今から25~26世紀も前に、この町は存在したのだから驚きだ。エジプト文明の歴史にも負けないくらい昔なのだ。

 丘の上だから、坂また坂の町だ。しかも、都市国家として防御も大切だったから、高い石で組み上げた城壁と門がやたら多い。頂上の旧市街地の平らな中心地は長さ800m、巾200mくらいの狭い場所だ。だから気楽に歩ける。

 ここで、僕をさらにペルージア好きにする事が起きた。

 その一つは、ウンブリアの雄大な平野を望むペルージアの旧市街地の町並みと、その屋根の連なりの美しさだった。エトルリア門を出て直ぐ右へ登っていく細い急な石段を登りきったところに、その景色はあった。遠く、アッシジの丘も見える。ここでは長い間、ボーっとしていた。日本では観られない景色だった。



<エトルリア門>

 もう一つは人。

 丘の上の生活で一番心配なものは、水。他の山岳都市でも同じだが、高い所で水を確保しなければならないわけで、深い井戸を掘って水を汲み上げなくてはならない。その薄暗い井戸を見学して、まぶしい9月の空を見上げたとき、細いかなり急な石段を見つけた。登りたくなった。けれど、上に何があるか分からずに、疲れた足を震わせて登る勇気が出なかった。



<エトルリア時代からの井戸>

 その石段を見上げていると、町の清掃をしているおじいさんが、声をかけてくれた。そして、信じられないことを僕に言った。カラバッジョの絵を見たくないかって言う。エッと思った。あのカラバッジョの絵がこの近くにあるのか、半信半疑だった。

 彼は、この階段を上って、右手に細道を行くと小さな教会があるから、そこにいくつかのカラバッジョの絵があるから、見に行くといいと勧めてくれた。ガイドブックには、この絵のことは全く、書いてなかった。



<路地から見た階段>

 もうこうなったら、言葉を信じてカラバッジョを見に行くしかない。フウフウいいながら、疲れた足を一歩一歩運んで、やっと頂上。右手にまわっていくと、崖の上に小さな教会があった。恐る恐る扉を押して入ったら、あった、カラバッジョの絵が3点ほどあった。教えてくれたおじいさんの気遣いに感激した。

 そんなふうに、バッチ(キッス)チョコレートで知られる町で、何日かの、まるで中世のような世界に身を置いて、ペルージアが好きになった。

 旅の後、ペルージア外国人大学で日本語を学ぶイタリア人の女学生が、そのころ僕が住んでいた仙台で、短期留学をやっているのに偶然出くわした。僕は、彼女のホームステイを受け入れたり、学生達の為に小さなパーティを開いたりした。これもペルージアの取り持つ縁だった。



<ペルージア国際大学に近い高みからの、ペルージアの屋根>

 なんだか、人間の繋がりって、本当に不思議なものだと思う。今でもペルージアと聞くたびに、あのゆったりとしたウンブリアの自然を思い出す。


 あとウンブリアというと、僕の好きな町は丘の上のオルヴィエート。ミラノからローマ行きの列車の車窓から見て憧れていた町で、願いがかなって一度訪れたことがある。



<オルヴィエート、遠景>*1

 オルヴィエートとくれば、チビタ・ディ・バンヨレージョも忘れてはならない魅力的な場所だ。チヴィタとは「死にゆく町」という意味があると、そこで出会ったイタリア人の老婆が教えてくれた。確かに過疎化が進み、この崖の上の家並みも人の住まない、単なる観光地になるのかもしれない。



<チヴィタ・ディ・バンニョレージョ>



P.S.
この文章は、8年前に書いた「ペルージアの丘からの眺め」を全面的に再校し、写真を入れたものです。
二度目の方がいらしたら、ゴメンナサイです。


クレジット情報*1
オルヴィエート遠景は、Adrianoさんのオルヴィエートをお借りしました。
ライセンスは、Creative Commonns 3.0


ウンブリアのアッシジ

2018-10-07 | エッセイ


 僕がウンブリアに心惹かれたのは、隣の州、トスカーナのオルチャの美しい丘や、糸杉の風景といった人工的な景色に飽き始めていたからかもしれない。

 トスカーナのシエナから南へ、モンテプルチャーノ、モンタルチーノなどの葡萄畑の続く大地は自然の丘ではない。石灰質の土地を、人間が苦労して削り耕して牧草地や畑にしたのだ。春になると、その灰色がかった独特の粘土質のクレタを、大きなグレーダーを使って掘り返し、土地改良をしながら数年かけて、美しいなだらかな緑の丘にしていく。そこに計算された美しい糸杉を植えれば、トスカーナ的な美しさだ。



<ウンブリア州 Google>

 乾燥したトスカーナを離れて車がウンブリアに入ると、とたんに自然が立ち上がってくる。目に映るのはみずみずしい自然だ。穏やかな森、それに溶け込んだ小さな集落、緑がその丘を囲んでいる。ああ、ここには水があり、そのままの自然があると感じるのだ。イタリアの「緑の心臓」と呼ばれるわけが解る気がする。



<ウンブリアの眺め>*1

 ウンブリアは、イタリア唯一の海のない内陸国。州都はペルージア。ウンブリア州は乱暴に言うと一部を除いて公共交通の便がとても悪い。仕方なく、車での旅となる。

 ウンブリアに来たからには、ペルージアとアッシジは見逃せない。このふたつの町は、実は20㎞位しか離れていない隣りあわせの町だ。つまり、ペルージアの朝焼けは、アッシジの丘から始まり、アッシジの日没は、ペルージアの丘に沈む。この二の町は、お互いに見通せる町なのだ。

 アッシジは、死後、聖人に列せられたフランチェスコ(1181?~1226)の生まれた町で、その功績を称える大聖堂が13世紀に完成したことで、世界中のカソリック信徒の憧れの巡礼地として町となっている。彼は豊かな家に生まれたが、清貧を守ったことで知られ、「もう一人のキリスト」とさえ言われるほどキリストの教えに忠実に従ったと言われている。



<アッシジの全景>*2

 ホテルは、フランチェスコ大聖堂に近いウインザー・サボイヤに取った。行ってみて分かったことだが、アッシジへの巡礼者用のバスの大型駐車場が目の下にあり、眺めはいいが、人通りの絶えない場所にあった。しかし、窓からは、右手にはフランチェスコの大聖堂が見え、遠くにはペルージアのある丘が見える素晴らしい眺めではあった。



<バスの駐車場>

 ランチェスコ大聖堂は二階造りで、下段はロマネスク、上はゴシック様式で、どちらの壁面にも数多くのフレスコ画が描かれている。残念ながら、1997年に襲った大地震で、ここのフレスコ画も大変な損害を受け、今も修復が続いているようだった。



<サンフランチェスコ大聖堂>



<バラの窓が美しい>

 フランチェスコ大聖堂は、僕の想像以上に人工的に整ったものだったので、内心がっかりした。計算しつくされた大聖堂には、自然が感じられないのだ。しかし、アッシジの町そのものは、古くからの情緒を保っていて、楽しく、懐かしい雰囲気だった。サンフランチェスコ通りの店を見て歩いていたら、路地の角に小さなお土産屋を見つけた。もともと、あまり記念の土産という考えはないので、ぶらりと店を見たに過ぎない。が、僕の目をに赤いグラスが目に入った。まるで、日本酒の盃ぐらいの大きさで、美しい焼き物だった。かさ張るものでもなかったから、それを買った。店の人に聞いたら、エッグスタンドだといわれた。用途はどうでもいいやと、そのまま買ってきた。



<赤い猪口>

 アッシジで気に入ったのは、大聖堂ではなくて、:聖フランチェスコの弟子、サンタキアーラのためのピンクと白の大理石のサンタキアーラ教会だった。女性的なやしさの感じられる姿が美しい。さらに、そのテラスからのウンブリアの伸びやかな盆地の眺めが僕をやさしく解きほぐしてくれる。



<サンタキアーラ教会>*3

 馬鹿となんだかで、さらに高いところに上ってみた。それがロッカと呼ばれる、昔の城壁のある山の上だった。ここからの眺めは、間違いなく見る人の心を構える。



<ロッカから見下ろすアッシジ>

 帰りはアッシジからトラメジーノ湖の側を走り、ベットレからアウトストラーダA1(太陽の道路)でミラノまで帰ってきた。いい旅だった。




P.S. クレジット情報(借用した写真)
*1:ウンブリア By Oleg Creative Commons 2.0
*2:アッシジ By Roberto Ferrari Creative Commons 2.0
*3:サンタキアーラ By Luca Alese Creative Commons 4.0