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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

飛行機を列車に替えて、鳥取へ

2019-02-17 | エッセイ

 二つ目は、鳥取の鳥取Sanyoへのお客様のコールの時だった。鳥取の営業所が、製造業のアプリケーションを実際に動かしている責任者の僕を、同業のお客様のトップ訪問として企画したのだ。二つ返事で引き受けたのは、鳥取は僕のうちの祖先のご本家がある岡山の隣の県だから、余計に気持ちが動いたのかもしれない。

 鳥取行きのフライトがANAの都合で、飛ばなくなった。またかよと、気落ちしたが、広島行きのトラブルを思い出して、近隣の空港へのフライトを探した。幸い、羽田~米子のフライトが取れた。だが、米子から鳥取まで北上する手立ては考えていなかった。残念ながら新幹線は走っていない。米子駅で決めるしかないと、水木しげるの漫画にあやかった名前の「米子・鬼太郎空港」を後に、米子駅へとタクシーを拾った。



 <米子・鬼太郎空港>*1

 駅で調べて見ると、山陰本線には特急や急行は少なく、一番早そうなのが東京行の寝台特急、ブルートレーン「出雲」だった。仕方がない。特急料金を上乗せして、米子から鳥取までの列車の旅をすることになった。寝台特急はディーゼル機関車にひかれて、ゴットン・ゴーゴー、ゴットン・ゴーゴーと日本海をなめて走る。誰も相客のいないコンパートメントに一人ぽつねんと座って、車窓から見える人気のない町や村は、日本海を背にして寂しげに見えた。せっかちな僕には、やけにゆっくりだと感じた1時間だった。でもしょうがない。



 <ブルートレーン「出雲」>

 翌日、創業者の井植副社長にご挨拶をした。営業的な話はできないので、IBM社内の研究開発・製造支援のシステムの概況を話した。特に、ストラテジックに、全体のシステム構想をマネジメントを巻き込んで描いて、それに基づいたシステム開発の実績を話した。現実に大和研究所、藤沢工場、野洲の組み立て部門で動いているシステムを話したから、説得力があったのかもしれない。



 <井植さんのカード>

 僕の話を聞き終えた井植さんは、突然、明日から始まるサンヨー社内の「技術発表会」で同じ話をしてくれと依頼された。驚いたのはうちの営業のほうだった。聞くとサンヨーでは、地域の活性化の目的で、鳥取大学の理工学部系の卒業生は、サンヨーを希望すれば、基本的に全員採用していると聞かされて驚いた。こんな地方進出の企業理念もあるのだと、恐れ入った。翌日は休日で予定がなかったから、即、お受けした。



 <鳥取Sanyo>*2

 IBMの営業所に戻って、僕の持つ資料をフォイルに焼き、翌日の技術発表会(200人以上のエンジニアがいたと思う)で、同様な話をさせていただいた。質疑応答の時間もあり、僕も汗をかきながら、一生懸命、対応した。他社で技術者を相手に、こんなレクチャーはしたことがなくて、新しい経験をさせてもらった。

 最初の日の夜、鳥取営業所のおごりで、初めて岩ガキの大きいのに出会った。うまかった。事前のメールのやりとりの折、「夏にカキを食わせるって、俺を殺す気か」と話したことは撤回して、ご馳走になった。本当に大振りで、クリーミーで、うまかった。その後、岩ガキを探してはいるが、なかなか、あんな立派な岩カキに出会ったことはない。



 <岩ガキ>

 講演会の後、少し時間があったので、鳥取の街を歩いてみたが、決して活気のある町ではなかった。営業も大変だなあと思いながら、鳥取空港から羽田に飛んだ。



 <鳥取空港>*3

 後日、鳥取営業所から、大型の商談に成功しましたよと報告があった。よかったと僕自身でうれしかった。

他社のマネジメントと話すと、いつも大きな発見に僕が出会う。これも外に出てみる魅力の一つだった。


 あと営業支援で付き合いができたのは、東芝の府中工場長の小島さん、青梅工場長の岡田さん。お二人とは長い付き合いになった。Sonyさんやパナソニックの担当部長などともお話ができた。特記すると、韓国のサムスン電子の会長ともお知り合いになれたことだろう。今のサムスンの、繁栄の将来を見通すことは、僕にはできなかった。

 これらが、アプリケーション担当の役得であり、営業支援の面白さだった。


P.S.
クレジット情報
*1:米子・鬼太郎空港 及び *3:鳥取空港は、国土交通省の版権
*2:鳥取サンヨーは、日経新聞の版権


飛行機を列車に替えて、広島

2019-02-03 | エッセイ

 実際に開発製造部門のアプリケーションに責任を持っていた僕は、IBMの営業からの営業支援依頼で、いくつかの客先の企業を訪問する機会に恵まれた。そこには、楽しいことにも、困ったことにも当然あった。その中の二つほどを書いてみたい。

 内部のお客様とのコンタクトの多い僕にとっては、社外に出ることは基本的には楽しいことだった。だから、よほどのことがない限り、営業からの要請を受けて、お客様のサイトに出かけるようにしていた。でも予期できない状況に置かれて、必死になったことがいくつかある。最悪の問題は、お客様との約束を守るのが難しい状況に追い込まれた時だった。

 一つ目は、広島のお客様、マツダとの上級役員とIBMとの合同技術検討会議への出席だった。



 <マツダ本社>

 お客様との合同会議は、翌朝、8:30からと決まっていた。製造業の会議は、だいたいスタートが早い。だから、前日に広島入りが必要だった。羽田から広島空港(正確には、元)へのフライトの予約は取れていた。ホテルも広島空港の側に、広島の営業が予約して呉れていた。あとは飛べばいいだけだった。



 <元広島空港上空>*1

 しかし、羽田についたら、広島行のフライトがANAの理由でキャンセルとなっていた。ANAに掛け合ったが、自分で処理してくれというばかり。新幹線も彼らの頭の中にはあったのだろう。しかし、僕は翌朝が早い。できるだけ早く着いておくことが大切だった。怒りが込み上げてきたが仕方がない。考えた。そうだ、福岡に飛んで、そこから新幹線で逆に戻ってくればいいと考えた。ANAに再度掛け合って、福岡空港までのフライトを確保した。



 <福岡空港>*2

 僕にとっては、福岡は初めて。だから土地勘もない。そのころは、まだ空港までのメトロもなく、タクシーを博多駅まで飛ばした。そして、上りの新幹線に飛び乗った。広島についたのは、もうとっくに夜10時を回っていた。そこからまたタクシーで、飛行場の近くのホテルにたどり着いたのは、11時を回っていた。しかし、そこはビジネスホテルだから食事はとれない。近くにコンビニもない。

 仕方なく、一番近い食べ物にありつける所を訊いて、そこで目に飛び込んできた広島風お好み焼きの店を見つけて、やっと夕食を終わったのは11時半を過ぎていた。



 <広島風お好み焼き>

 翌朝、営業が僕を8時前に迎えに来て、なんとか、8:30amの会議に間に合った。とにかくよかったと自分を慰めた。マツダの上下関係のない自由さの、議論の闊達な会議に出席できたのは、僕にも収穫だった。ここでは、部長も、課長も、平のエンジニアも、出入り業者(IBMもその一つ)も、本音で率直な対話が成り立っていた。いい会社だなあと、感心したのを覚えている。何しろ、社外(IBM)の人間も、まったく自由に、社内会議で発言できたのだから。

 帰りは翌日、予定通り、今は無くなった広島空港から、羽田に帰ってきた。



 <元・広島空港>

 その後の営業からの報告によると、IBMの提案が採用されたと聞いた。あの焦りが、いい思い出になった。さらには、マツダという会社が素晴らしい会社だと分かったことは、その後、何度かお会いしたマツダの幹部との会話に大きくプラスした。風通しのいい会社だと、自信をもって会話できるからだ。



 <マツダ情報開発担当部長>

 その何年か後、IBM大和研究所でマツダの長谷川さんにお会いした時には、お土産に、初代ロードスターのキャストモデルをいただいた。赤いそのミニカーは、僕の書斎のデスクの上に今もある。



 <初代ロードスター(ウインドシールを落として壊してしまいました)>

 今、マツダさんとの関係はどうなっているか分からないが、あの闊達な会議に、IBMの誰かが出席できていればいいとは思う。

 僕はマツダ車は買わないが、最近のマツダの車は、他に例を見ない個性を持ったデザインになっていると思う。その裏には、あの風通しのいい社風が、今も息づいていると思うのだ。


P.S. クレジット情報:Copy Right
*1 西広島空港 by国土交通省
*2 福岡空港 by 西日本新聞
*3 元広島空港 by Taisho さん ライセンス:Creative Commons 3.0


親父との旅・国東

2019-01-20 | エッセイ

 親父と旅に出たことは、本当に数少ない。記憶が確かなのは、親父が年を取って、一人では出かけられなくなってからのものだ。それ以前は親父と旅することを、僕が心の中で拒絶していたからかもしれない。



 <国東半島>*1

 親父との精神的な別れを幼稚園の5歳のころに決断し、中学2年生の時、親父から高校から先は、もう面倒は見られないなと言われた頃から、物理的にも別れていたからだろう。その後、何十年も経って、僕に子供が出来てから、元旦に子供たちと4人で、谷中から丘を降りた親父の鶯谷の家を訪ねるという決まりはあったが、一緒に旅に出るということは無かった。

 大分県の国東を旅したのは、僕の姪が、大分市出身の阪大卒のG君との結婚式を、大分市でやるからと招待を受けたからだ。姉と親父と、僕の3人での旅となった。誰が言い出したのか分からないが、寝台列車「富士」で、東京から大分まで行くことになった。ブルートレインに乗って行こうと言い出したのは、僕だったかもしれない。その頃は、国内線の飛行機は、とてつもなく高かったのだ。

 東京から親父が乗ったブルトレを横浜駅で姉と僕とで待っていたら、ちょっと心配そうな顔をした親父が窓越しに手を挙げていた。コンパートメントに入って、3人で座ったら、やっと安心したようだった。



 <ブルトレ「富士」>*2

 ブルトレの選択が間違いだったのに気付いたのは、大阪を出て広島へ向かう深夜だった。寝台に横になっていると、想像もしなかったショックがあるのだ。ブレーキをかけて列車が止まると、ガッターン、ガッターンと音を立てて車両が揺れる。長い編成の一両、一両の間にある連結器の隙間が、合計すると何十倍にも広がって、そのショックを作り出していたのだ。もちろん走り出しでも、同じような揺れと音が響き渡る。深い眠りにつくことはできず、大失敗だった。

 結婚式の披露宴は、大分市内のホテルで行われた。その頃は、ホテルでの披露宴は、とても例外的で、有名人か富裕層のものだった。新郎の父親が、地元の名士だったようでホテルとなった。僕なんかは、市ヶ谷の私学会館で、立食パーティーをやったくらいで、質素なものだった。



 <熊野摩崖仏:岩のレリーフ>*3

 僕は国東へ行くことを、始めから予定していた。僕自身が、国東の摩崖仏を見たかったからだ。姉も賛成してくれ、親父も彫刻としての摩崖仏を見てみたいと同意してくれた。



 <親父と姉>

 レンタカーを借りて、大分市から先ず南に向かい、臼杵・古薗の大日如来に会ってきた。昔は首が取れて、胴体の前に置かれていたようだが、あるべきところに置かれたお顔は本当に柔和で、一目で好きになってしまった。まるで、平安時代の奈良の仏像を見る時のようなおおらかさを感じることができる。国宝に指定されても、まったくそん色はない素晴らしい仏だった。忘れられない出会いとなった。



 <臼杵 大日如来像>*5

 僕の思った摩崖仏という概念には納められない、彫刻としての高い作品性、さらに仏としての存在感がある。親父も、ここを姉と僕と一緒にみられて、楽しんだようだ。親父は洋画家だから、僕の視点とは違う見方をしたに違いない。北の国東半島に比べて、ここの石は柔らかいので、彫像を掘り出せたのだろう。

 次はとんぼ返りで、大分市や別府を素通りして、国東半島へ走った。今のようにスマフォやiPadはなかったから、紙の地図で確認して道を走った。



 <熊野大仏参道>*6

 どうしても見ておきたかった熊野大仏へと走った。着いてみると、駐車場から摩崖仏までは、かなり荒れた登りだった。一緒に連れて行きたかったが、肺が弱くなっていた親父は、とても登れるものではなかった。残念だけど車で待ってもらって、姉と登った。



 <熊野摩崖仏:岩のレリーフ>*3



 <熊野摩崖仏 不動明王 高さ8m>*7

 山の崖に穿たれた摩崖仏に圧倒されて、登ってきた息切れと一緒になって、言葉は出ず、二体の摩崖仏を見ていた。でかい。左の不動明王は彫りが素朴で、なんだか気持ちが安らぐ。包容力のある大仏だ。削り出した人のおおらかな人柄が現れている。



 <熊野摩崖仏 大日如来 7m>*8

 対の、右の大日如来は、ち密な彫りが、その彫師の律義さを表しているようだ。僕自身としては、左側のほうが好きだけれど、この二体の対になったバランスが、全体を素晴らしいものにしてくれているようだ。さらに、緑に囲まれた岩肌に掘られたレリーフには、周りの木々が彩を与え、柔らかさを演出しているようだ。来たかいがあった。

 その日、午後三時過ぎまでのドライブでは、150㎞を超えていた。特に国東は、交通の便利が悪くて、車がないと自由な旅はできないという所だ。でも、訪れてみる価値は十分にあった。

 臼杵と熊野と、摩崖仏を身近に見ることができて、義理で始まったこの旅を、本当に豊かなものにしてくれた。感謝だ。そして、この旅が唯一の、親父と姉との遠出になった。



 <大分空港>*9

 帰りは大分空港から羽田まで飛んだ。とてもブルトレには乗る気になれなかったからだ。



 P.S. 写真のクレジット情報
  *1. 国東半島:Google Street View
  *2 寝台列車「富士」:DD51612さんの作品を借用 Creative Commons 3.0 継承
  *3 熊野摩崖仏 大分県提供 おおいたデジタルアーカイブから了解を得て借用
     URL: http://www.pref.oita.jp/site/archive/201109.html
  *5 臼杵大仏:国宝臼杵石仏 https://sekibutu.com の了解を得て借用
  *6 熊野摩崖仏への参道:「じゃらん」より借用
  *7 熊野摩崖仏不動明王:大分県提供 おおいたデジタルアーカイブから借用
  *8 熊野摩崖仏大日如来:大分県提供 おおいたデジタルアーカイブから借用
  *9 大分空港:コピーライト 国土交通省


ドロミティの残照

2019-01-06 | エッセイ

 イタリアの山の思い出はいろいろあるが、一番心に残っているのはドロミティ山塊。ドロミティとの初めての関わりは、僕がミラノに最初に赴任した頃だから、もう40年以上の昔になる。



 <サッソルンゴ>

 あまり知られていないが、ドロミティは二つの山塊から成っている。イタリアで二番目に長い川、つまりアルプスから、ヴェネチアの近くのアドリア海に流れ込む北から南に流れるアディジェ川の西側が、ドロミティ・ディ・ブレンタ。東側がよく知られるいわゆるドロミティだ。ここは3,000m以上の山が18峰もある山塊だ。



<TABACCOの東部ドロミティの地図>

 東側の、いわゆるドロミティを中心とした体験を書いてみる。

 ドロミティには、合計3回くらい旅している。

 最初は、ドロミティ→オーストリア・ザルツカンマーグート→ドイツ・バイエルンへの10日間の旅の最初の目的地とした時だ。日本にいるころからドロマイトと呼ばれる苦灰石(くかいせき)が雨に削られた、尖塔のようになった山塊は知っていたから、見たことのないその山容は魅力的だった。

 ミラノから3時間でヴェネチア。さらにヴェネチアから谷を登っていく。そしてついた町が、東ドロミティの中心地、コルティナ・ダンペッツォだ。そのころは高速がなかったから、ヴェネチアから3時間はかかったと思う。コルティナは美しい町で、四方をドロマイトの高い峰に取り囲まれている。北には大きな石の塊、クリスタッロ、東にはソラピス、西にはトファーナなどの岩山が背伸びをしている。

 最初の時は、コルティナに一泊だけして、ドビアッコ、ブルンネル峠からオーストリアのインスブルックに向かったから、ドロミティは、ほとんど通り抜けたという印象だけだ。

 コルティナの印象が残っているのは、二回目の時。それでも20年も前の7月だった。やはり車でミラノからヴェネチア、そしてコルティナへの道を走った。

 コルティナは、いわゆるドロミティ街道と呼ばれるドロミティ横断路の東の出発点で、僕の目的地だったオルティゼイを経て、ドロミティへのアクセスの西の町、ボルツアーノまでは120㎞もあるドロミティ東西に走る街道だ。ドロミティは、この道から分岐した沢山のアルペンロードを持っていて、それらがみんな、訪問者を楽しませてくれる。

 コルティナからは、眼前に大きなマスのクリスタッロがそびえ、美しい町を見下ろしている。僕たちは、ポステ(郵便局)広場に面したコルティナの中心のホテル、アラスカに3泊した。



 <ホテル アラスカ>

 ここからのアクセスで一番便利なのは、ソラビスへのロープウエイだが、僕たちは、車を転がして、ミズリーナ湖まで行ってみた。そこからは、有名なトレチメへ(三つの峰)へのアクセス路になるが、山歩きの準備はしていなかったので、ミズリーナ湖で車を止めて林の中のトレッキングでドロマイトの山々をゆっくりと楽しんだ。西ドロミティに比べて、塊が大きな山が東側のドロミティの特徴だというが、巨大なマスを感じることができる。

 ミズリーナ湖の側の売店で土地のものを探してイタリア語で話しかけたら、店の人がびっくりして、イタリア語をしゃべるジャポネーゼ!と驚かれた。そのころは、まだ日本人の観光客は少なく、珍しい感じも残っていたからだろう。僕はミラノに住んでいたことがあるのだと話したら、あっそうという感じで優しく接してくれた。旅人にとっては、土地の人の優しさはとてもうれしいものだ。



 <ミズリーナ湖>

 ポコルまで登って、振り返ると、コルティナの町とクリスタッロが目に飛び込んできた。ミラノから400㎞、やっとコルティナに来たのだと自分に話しかけていた。



 <コルティーナとクリスタッロなど>

 しかし、旅では思わぬことも起こる。最初の夜、食事のためにアラスカのレストランに入っていくと、カメリエーレ(給仕)が入口のすぐ側のテーブルに座らせようとした。店内を見渡すと、窓際のいい席が空に空いていた。あそこに移ると言ったら、ムッとされた。言葉に出なくても、ボディランゲッジが、その感情を表していた。おそらく、生意気な日本人!と思っていたに違いない。どこかで、東洋人に対する蔑視の気持ちがあったのだろう。昔は時々、そんな経験をした。一番嫌なのは、チニーゼ(中国人)と囁かれることだった。一般的に、中国人は素行に問題があるかのように受け取られていたのだ。

 美しい高級別荘地のコルティナを出発して、ポルドイ峠に向かう。この道は、狭いカーブだらけの激しい上りの山道だった。オペルの1300㏄のワゴンは、悲鳴を上げながら、限りない坂道をエンジンを唸らせながら登っていく。高度は上がって行くにつれて、眺めは素晴らしい。



 <ポ<ポルドイ峠への上り>

 パッソ・ポルドイは、ドロミティ街道の最高点、2,239mの峠だ。360度見渡すと、限りなく高い峰が続いて見える。言われているように、西側にはギザギザ山や尖塔が多く、登ってきた東側には、巨大な岩の塊の山が多い。同じドロマイトでも、成分が違うらしい。

 パッソ・ポルドイで一泊して、翌朝、これが見たくてこの旅を計画したマルモローダ山に向かう。途中、カナゼイで、南チロール特有な不思議な木造建築を見て歩く。白壁が、まるで日本の古民家のようでもある小さな町だ。南チロールという呼び名は、イタリアとオーストリアの古い大戦の生み出した産物でもある。手放したこの地を、オーストリアはチロル地方と呼んでいたからだ。会話はドイツ語のほうが、得意なようだ。



 <フェダイア湖>

 カナゼイから、マルガチアぺラに向かう。途中で、美しい小さなフェダイア湖を発見。あまり知られていないうれしい存在だった。そして、マルガチアぺラ。ここから、ゴンドラでドロミティの最高峰、3,342mマルモラーダに登るつもりだったのだが、僕の下調べが不完全で、ゴンドラが休止中だった。シーズンの直前で、整備中だった。がっかり。恨めしそうに頂上駅を見上げるぼくを、カウベルを付けた大きな牛が寄ってきて、ガランガランと慰めてくれた。



 <上空からのマルモラーダ:Google Street Viewより>*1

 仕方がない、パッソセッラを超えて、ヴァルガルデーナの懐かしいオルティゼイに向かう。

 オルティセイは、僕のお気に入りの村。ガルディーナ谷の中心地だ。ゴンドラで登れる有名なシウージ高原の麓にあるチロール特有の文化のある町だ。泊ったシャレーはワルター。経営者のドイツ系の血が多いと思われるご夫婦に温かく迎えられうれしかった。



 <オルティゼイ>

 ワルターの隣のシャレーに住むご夫婦とも村の通りで知り合いになり、一緒に村を案内してもらった記憶もある。



 <オルティセイの村>*2

 オルティゼイからは、ギザギザ山が見えるセチューダまでのゴンドラも出ているから、シウージを含めて3日間、山を見て、歩いて、遊ぶには最高のロケーションだった。

 こうして、記憶に残っているドロミテ街道の旅は終わった。

 実は、この旅のもっと前に、僕はオルティゼイを訪れていた。いつのことだったか、誰と一緒だったのかは、全く覚えていない。しかし、オルテイゼイにひかれて、今回、目的地に選んだのだから知っていたのは確かだ。また、帰りのボルツアーノで、前と同じところで道を間違え、グルグル回ったのを明確に覚えているから、オルティゼイ~ボルツアーノは確かに二回は走っているのだ。

 この前のオルティゼイの滞在の時も含めて、残念ながら有名なアーヴェント・グリューエン(赤い山肌)は見えずじまいだった。これが、残念な残照ともいえる。日本では見られない、いや、ヨーロッパアルプスの他の地域でも見られない、ドロマイトの山々は、ユニークだ。



 P.S.
 クレジット情報
  *1:マルモラーダ Google Street View をお借りしました。
  *2:オルティゼイの街 Pug Girlさんのの作品をお借りしました。
     ライセンスは、Creative Commons 2.0


フェルメールから鬼子母神

2018-12-16 | エッセイ


 10年ぶりに、フェルメールを「上野の森の美術館」で見てきた。



 <フェルメール展の大看板>

 前回は、2008年月の東京都美術館で「光の天才画家とデルフトの巨匠たち」で、フェルメールを見ている。今回とダブった作品もあった。「リュートを調弦する女」とか、「手紙を書く夫人と召使」などだ。全世界で確認されている作品は35点しかないから、フェルメールの絵を見られるのは、本当に稀有なことなのだ。

 僕のフェルメールとの最初の出会いは、1984年の東京西洋美術館での「真珠の耳飾り」(ターバン)を見たのが始まりだ。印象深く、決して忘れない。。フェルメールの名を聞くと、彼女の顔が頭に浮かんで出てくる。2012年にも来たらしいが、大混雑と聞いて、見に行かなかった。



 <真珠の首飾りの少女:P.D>

 今回のフェルメール展は、日本では画期的な運営がされていた。日時ごとに、切符が売られ、館内に入る人をコントロールしていたことだ。こうした経験があるのは、ミラノのカナーコロの「最後の晩餐」くらいだ。ここでは、ワングループ、最大15分で追い出しだから、もっとシビア。今回は、入場者の数のコントロールだけだったから、館内の入場者数は管理できていない。やはり、ごった返していた。

 日本の展覧会のまずいことは、音声ガイドを耳にした見る人の質だ。そんなに近くにへばり付いて見ることもないと思われる大作でも、へばりついてガイドが終わるまでその絵の前に陣取る。後ろの人など、全く気にもかけていない。欧米の美術館では、近くで見る人は、後ろの人の邪魔しないように、気配りしながら見ている。少し斜めから見るとか、どうぞと、自分のところを開けてくれたりする。日本の要改善点だと思う。



 <赤い帽子の娘>

 今回の目玉は、日本で初めての「赤い帽子の娘」だろう。ちょっと見ると、男の子だと思わせるが、少女だった。透明なヴィヴィッドな色彩が美しい。もう一つの目玉は、修復で昔の汚れが消えた本来の姿の「牛乳を注ぐ女」だろう。窓からの光と、黄色の上着とブルーのスカートのコントラストが、この絵を美しくしていた。フェルメールの作品が持つ、思わせぶりのない作品には好感が持てた。確かに名作だろう。9点を揃って見られるのも、これが最後かもしれないと思わせるくらい、ヨーロッパと、アメリカの美術館から、作品を集めてきたのには敬服する。



 <牛乳を注ぐ女>

 フェルメールの窓からの光を見ると、どうしても同時期、17世紀のオランダの画家、レンブラント光線を思い出してしまう。40年以上前にアムステルダムで、レンブラントの「夜警」を見た時のショックが頭に残っているからだ。対比して、「光の画家フェルメール」と、「闇の画家、レンブラント」とも言われている。お互いに、相手を意識しながら、制作したのは間違いではないだろう。そのほかのオランダの絵は、あまり好きなものはない。



 <レンブラントの夜警 P.D.>

 展覧会を見るのは疲れることだ。しかし、久しぶりに上野まで出てきて、このまま横浜に帰るのはもったいないと、大塚に行ってみようと思った。この時期、紅葉の、鬼子母神を訪れて、昔からの駄菓子屋や、親父のくたばった病院を、チンチン電車で尋ねてみようと思ったわけだ。

 大塚は久しぶり。JRの駅は新しくなって、近くには複合施設やホテルも建って、がらりと雰囲気が変わっていた。しかし、都電は相変わらずで、懐かしく、路面をゴットンゴウゴウ、チンチンと風景を眺めながら、雑司が谷に向かう。



 <ケヤキの巨木>

 雑司が谷の鬼子母神通は、相変わらず。今は本当に関東全体で珍しくなったケヤキの巨木が、参道を覆っている。でも、古い木が少なくなったような気がする。300年以上のケヤキが先のほうを切られて、何とか生きているという感じだ。



 <600年のイチョウ>

 鬼子母神のイチョウは、ちょっと紅葉には早く、600年の歳月を生き抜いて立派。立派に生き残っているものはもう一つある。境内にある、懐かしい駄菓子屋、上川口屋。80歳を過ぎたと思われる白髪のおばあちゃんが、今も店番をしながら、子供たちと接している。結構、店に客も来ている。



<上川口屋>

僕にとって、何故、鬼子母神が懐かしい場所かというと、親父が息を引き取った元鬼子母神病院があるからだ。親父の病室からも、鬼子母神が見えていた。今は、音大の寮になっているようだ。



 <元鬼子母神病院>

 帰りに疲れたから、ケヤキの参道にあるドリップコーヒー屋に入って休んでいると、なんだか、外の景色が歪んで見える。
 おかしいなと思って見てみると、昔の手作りのガラスが懐かしい引き戸にはまっていて、見える景色を部分的にゆがめて見せていた。歪んで見えるのはケヤキの巨木だけではなくて、その後ろのブロック塀は人工的な直線のために、歪んで見えるのがよりハッキリしてる。
 


 <歪んだケヤキの巨木とブロック塀>

 もう、ここに来ることはないだろうと思いながら、三ノ輪橋行きの電車に乗った。チンチン。