キャロリン。の日記

いつも、熱く、楽しく、全速力で、生きること。

ぼくの「星の王子様」へ(勝村久司)~支援の輪

2013年12月22日 | 自治・法治国家
私の住む地では、なかなか被害者が声を上げて貰えないが、一般の市民の方が支援をして下さるようになって来ている。

ありがたいことです。

その中のある方が、一度読んでみて下さいと勧めてくださった本です。

今の、レセプト開示とカルテ開示が行われるようになった背景に、この方の努力があったのだと、こういう経過で実現したのだということが、初めてわかりました。

私の方が涙がでるくらい、辛く長く苦しい頑張りだと思ってしまいましたが、


本当にご夫婦してたんたんと、毅然とした態度で、市民活動を展開して行きます。理論としても、本当に素晴らしく冷静で、聡明で・・・・。

限りない夫婦愛や、命に真摯に向きあうということはこういうことなのだと、深く頭が垂れます。

こうして、素晴らしい人々の出会いの輪を頂いたことだけでも、私にとって、この理不尽な、不条理な出来事は、やはりとても人生においてラッキーなことであり、社会に貢献すべきなのだと命題を与えて貰ったのだと思える。


そして、娘もまかり間違えばこのような陣痛促進剤による医療過誤の状態で産まれてきた出生時を思い出した。

県知事相手に戦った妊娠期、妊婦健診途中での、病院側の医局の鞍替えの被害を被り、臨月での出産病院の変更、高位破水にドクターが気がつかず、続発性の微弱陣痛、このとき子宮口を軟らかくするからとマイリスが使用されていた。お産ラッシュの混乱の中で、別のドクターが高位破水に気がついてくれた時には羊水が感染症を起こしていた。陣痛は激しく襲ってきているのに、子宮口は開かず、間欠期がほとんどない状態なのに、夫と2人で置き去りの陣痛室。このとき既に、微弱陣痛で意識朦朧状態。促進剤は既に使われていた。臨月で移ったため、この病院での父親学級に出ていない夫の立会い出産は出来ないと言う。
なのに、結局、自力では分娩台に上がれないほどになってから車椅子で分娩室に移動。初めて分娩監視装置が付けられ、促進剤が入れられた。しかし、一度も医師は覗きに来ないし説明もない。そして、立会いは出来ないと言う夫に、
「ここのラインとここのラインから線が上か下に行ったら、このコールで呼んでください。」と言われた。
胎児の心拍数であろうが、その説明や言葉もなかった。第一、夫はナースになったのである。
そうして何時間かして、途中で、
助産師が来て、
「促進剤、強くしますね。」
と、点滴を取り替えた。
それで、再び、夫と2人分娩室に取り残された。
私の意識がさらに朦朧として眠ってしまうほどになった頃、大きな助産師さんがカンシと吸引器を持って入って来た。先生も入ってきてエインを切った。大きな助産師さんがお腹を押した。再びお腹を押した。
娘は産まれた。

そして、そこで、
「あーっ!ご主人は立ち会えない筈だった!出て行って!出て行って!」
と、退場させられた。

その後3日間ぐらい、起き上がれなかった。赤ちゃんを抱く力も、お乳も出なくて、子どもの体重が減りすぎて退院が延ばされた。子どもの入院の付き添いのための入院となったとき、マットレスのベッドから、普通の綿布団に変えられた。

1ヶ月健診の内診時に、ドクターが、「全く、何で陣痛の痛みが我慢出来ないかなあ?子宮そのものが裂けちゃっているよ。だから復古が悪いんだ!」
と、言われた。
そして、その後の面談の時に、医師はカルテを読んで、「ごめんね。前期破水だったんだね。この状態では無理もないね。」
と謝ってくれた。

出産した時に、夫は、「2度とこの病院には掛からない。もし何かの時に救急搬送されるのにここしかなくなっても、死んだ方がましだな。」と言った。
それから、2人目のお産のときには、エコーもあって、身長体重、羊水等もきちんと測られていて、「羊水が減ってきているから、危なくなって来ているなあ。」とドクターに言われて、第1子の時にはそう言うえば、エコーも一度もなかったと気づいた。
出産して以来、私達はこの病院に掛かっていない。

いままで、夫婦の心の中に封印してきたが、今回この本を読んで、改めて、娘への命題なのだと痛感した。

ますます、娘は、裁判官への道を歩きなさいという教示に違いないと確信した。
ぼくの「星の王子様」へ


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 全会一致の意見書~各地の動き | トップ | 子ども達の未来を救ってくだ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿