三年前母を送ったが、私と母とはなかなか通じあえない間柄だった。母は大正十年生まれで、男三、女四の七人兄弟姉妹の長女だった。だから子育ては、下の六人の弟妹の面倒を見るような鷹揚さがあった。
ところが私と言えば甘えん坊で、下校時の雨降りに、一度たりとも傘を持って来たことが無い母を、懲りずに一人待ち続ける子だった。(※この当時、教室に置き傘を置く配慮がなく、雨降りには保護者が持って来ることになっていた)
結局物心ついてからは、母から自分のストレスをぶつけられたり世間体優先の仕打ちはあっても、その愛を感じられることがなく育った。だから中学生になって広島の私学の寄宿舎の寮に入ることになっても、私は全然ホームシックにならなかった。大学生になってから、母が十二歳の別れで不憫がり、それで泣くことがあったと聞いて、非常に奇異に感じたものだ。
もうその頃には、(拙かったが)母は母なりの愛し方があったようだと理解した。けれどもたとえ親子と言えども、全く異なる人間で、とても通じあえる相手ではなかったこともひしひしと感じた。愛は通じあわなければ、それは悲しみである。愛なくば人としての土台を欠くに等しかった。
私が中一の時、寄宿舎の一室で読んだジッドの「狭き門」の三位一体の神に惹かれたのは、神が人格を持って人と交わる神であるという点だった。創世記において神はエデンの園を毎日訪れ、罪を犯す前のアダムやエバと交わられた。このアダムたちのために神は天地万物を創造されたのである。人への神の愛は尋常ではなく、先に造られた美の極みの大天使ルシファーは、おそらくは嫉妬のあまり神に背きサタンと化したと思える。
クリスチャンになって三十年以上も経って、大きな試練の中から私ははじめて、神の愛を知った。このお方は実に遠慮深いお方で、サタンのように、人をその意思に反して支配されようとはされない。実に粘り強くご自分を真に求めるまで待っておられた。それは神が愛の極みであるからだ。そしてなんと人の内に住んでくださる。これほどの交わりの極致はないのではなかろうか。
私は思う、神は人を愛せずにはおられない存在なのだ。愛は愛する対象を得て愛となる。対象がもしなかったなら、愛はない。しばしば神は人を「子」と呼ばれ、ご自分を「父」と呼ぶように言われる。血肉の世にあってはしもべとしての従いがあるが、それだって子が父に聞き従うのと同じで、当然だ。間違ってはいけない。神は私たちを、キリストをくださるほどに愛してくださっているのだ。神の子には一つの共通点がある。それは、神を愛していることだ。偽クリスチャンは「愛」でわかる。
愛とは何だろうか? 母は自分なりの愛し方で息子を愛した。しかしそれは全く通じあえないものだった。求めていた私には、それはつらく、悲しかった。愛は相手と交わりを求める。通じあえることを求めるものなのだ。
だから人間同士、例えば夫婦であれば寝室を別にしたり、一緒にいる時間を大切にできない夫婦に、本当の愛があるとは思えない(私はそれを経験している)。人は相手の内に住めないまでも、愛は互いの交わりを求めるものだから。
神は愛する子を世に送り、人の罪の身代わりとして十字架で購わさせられた。ここに神の愛がある。この神の愛と十字架で人は罪を赦され、アダムたちによって遮断された聖なる神と交わりが回復された。愛は愛する相手のために自分を捧げる。愛は忍耐して待ち、でしゃばらない。決して相手を支配しない。それどころか仕えようとする。互いが交わることを切望し、その心の中に住まおうとする。愛は相手と一つになりたいのだ。
この世、物質のこの見える世界は絶えず変化し、私たちの肉体は衰えやがて滅ぶ。しかし神への愛は永遠であり、決して失われたり奪われたりはしない。私は神の愛が分かって、交わって、知れば知るほど心からこのお方を愛するようになった。愛し愛されることがどれほど喜びであることか。この、永遠の神の愛を、私はあなたに伝えたい。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
ケパ
ところが私と言えば甘えん坊で、下校時の雨降りに、一度たりとも傘を持って来たことが無い母を、懲りずに一人待ち続ける子だった。(※この当時、教室に置き傘を置く配慮がなく、雨降りには保護者が持って来ることになっていた)
結局物心ついてからは、母から自分のストレスをぶつけられたり世間体優先の仕打ちはあっても、その愛を感じられることがなく育った。だから中学生になって広島の私学の寄宿舎の寮に入ることになっても、私は全然ホームシックにならなかった。大学生になってから、母が十二歳の別れで不憫がり、それで泣くことがあったと聞いて、非常に奇異に感じたものだ。
もうその頃には、(拙かったが)母は母なりの愛し方があったようだと理解した。けれどもたとえ親子と言えども、全く異なる人間で、とても通じあえる相手ではなかったこともひしひしと感じた。愛は通じあわなければ、それは悲しみである。愛なくば人としての土台を欠くに等しかった。
私が中一の時、寄宿舎の一室で読んだジッドの「狭き門」の三位一体の神に惹かれたのは、神が人格を持って人と交わる神であるという点だった。創世記において神はエデンの園を毎日訪れ、罪を犯す前のアダムやエバと交わられた。このアダムたちのために神は天地万物を創造されたのである。人への神の愛は尋常ではなく、先に造られた美の極みの大天使ルシファーは、おそらくは嫉妬のあまり神に背きサタンと化したと思える。
クリスチャンになって三十年以上も経って、大きな試練の中から私ははじめて、神の愛を知った。このお方は実に遠慮深いお方で、サタンのように、人をその意思に反して支配されようとはされない。実に粘り強くご自分を真に求めるまで待っておられた。それは神が愛の極みであるからだ。そしてなんと人の内に住んでくださる。これほどの交わりの極致はないのではなかろうか。
私は思う、神は人を愛せずにはおられない存在なのだ。愛は愛する対象を得て愛となる。対象がもしなかったなら、愛はない。しばしば神は人を「子」と呼ばれ、ご自分を「父」と呼ぶように言われる。血肉の世にあってはしもべとしての従いがあるが、それだって子が父に聞き従うのと同じで、当然だ。間違ってはいけない。神は私たちを、キリストをくださるほどに愛してくださっているのだ。神の子には一つの共通点がある。それは、神を愛していることだ。偽クリスチャンは「愛」でわかる。
愛とは何だろうか? 母は自分なりの愛し方で息子を愛した。しかしそれは全く通じあえないものだった。求めていた私には、それはつらく、悲しかった。愛は相手と交わりを求める。通じあえることを求めるものなのだ。
だから人間同士、例えば夫婦であれば寝室を別にしたり、一緒にいる時間を大切にできない夫婦に、本当の愛があるとは思えない(私はそれを経験している)。人は相手の内に住めないまでも、愛は互いの交わりを求めるものだから。
神は愛する子を世に送り、人の罪の身代わりとして十字架で購わさせられた。ここに神の愛がある。この神の愛と十字架で人は罪を赦され、アダムたちによって遮断された聖なる神と交わりが回復された。愛は愛する相手のために自分を捧げる。愛は忍耐して待ち、でしゃばらない。決して相手を支配しない。それどころか仕えようとする。互いが交わることを切望し、その心の中に住まおうとする。愛は相手と一つになりたいのだ。
この世、物質のこの見える世界は絶えず変化し、私たちの肉体は衰えやがて滅ぶ。しかし神への愛は永遠であり、決して失われたり奪われたりはしない。私は神の愛が分かって、交わって、知れば知るほど心からこのお方を愛するようになった。愛し愛されることがどれほど喜びであることか。この、永遠の神の愛を、私はあなたに伝えたい。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
ケパ