今朝のことである。少々寝ぼけ気味で、ぼーっとした起きだちの身をソファーに沈めると、そのとたんに、猫のコールがいつもの通り私の足めがけて噛み攻撃してくる。普段なら私にもその意味がわかるのに、今朝は寝ぼけていたのか噛み攻撃と受け取ってしまい、避けているとだんだんコールも本気になって噛んでくる。それで少しだけ反撃をしたり、足を毛布でくるんで防御に徹してしまった。
しばらくしてとドルカスが起きてきて、「餌が欲しいのよ!」とコールに餌を与えた。小躍りして餌にありつくコールを見て・・・・・「(∋_∈)シマッタァ、そうだったのかぁ」と後悔しきり。「どうして自分は、それがわからなかったのか」と。
自分の守りに入ってしまうと、主人たちが起きてくる朝まで、いっしょうけんめい空腹を耐えていたコールのメッセージ「朝ご飯をちょうだい」にいつまでも気づかない。コールもよけいに必死にいつも以上に「噛んで」行かざるを得ない。険悪な状態になってしまった。
これとよく似た人間の出来事を、わたしはこれまでいろいろと経験してきた。教師をしていて、子どもの暴力や意地悪、いじめなどの多くは、この種のできごと・・・・子どものサイン・・・・であった。はじめは子どもの声にならない声、その本心の訴えに気づかないで、さんざん空しいモグラ叩きをしてきた。その累々たる屍(しかばね)の上に、ようやく気づくようになった。問題行動を罰することは簡単であるが、ただそれだけに終われば、問題をさらに根深い大問題にしてしまうものである。罰ではなく、すべての土台に「愛」が前提でなければ、解決は難しい。
今朝もであるが、自分にはその愛が乏しいことが最大の課題である。唯一の救いは神を信じる者であることだ。自分には「愛」がなくとも、神には無尽蔵に尽きない愛がある。自分はその愛を流す「通りよき管(くだ)」であればよいのだ。キリスト教教育のミッションスクールの意義はここにあるはずだ。自分を守ってはいけない。自分はどのようにされようと、たとえ傷つけられようと、その行為の背後にあるメッセージを真摯に受け止める者でありたい。ただ神の力によって。 ケパ