今日はのっけからびろうな話で申し訳ない。
私が大学を卒業する頃、実家の母屋を建て替えることになった。
結局、私の間取り案が採用されたのだが、一つだけ父が注文つけたことがあった。それは男子用トイレを付けることであった。当時私には、それほど必要とも思えない男子用トイレにどうして父がこだわるのか、わからなかった。
今私は、ちょうど父の逝った年齢である。そして父の男子用トイレが欲しかった訳がよくわかるようになった。わがままでなく、やわらかさを失った体では、共用のトイレ使用はキツイのである。無論、人にもよるだろうが。
今はわかるが、若い時にはわからなかった。年にならないとわからないことって、結構ある。しかしそれは、体のことだけではない。親にならなければわからないこと、親を失ってみなければわからないこと、家庭を失ってみなければわからないこと・・・・。
しかし一番のことは、死んでみなければわからないことではないだろうか。もしこの衰えていく体から、最終決着である死に対し、「なってみなけれぼわからないから」と備えないことほど、せっかくの老いの摂理(警告であるかも)を無駄にすることはない。
体が滅んでも、魂、霊は永遠である。生きている、その真の意味は、魂と霊の行き先を決める猶予期間と言うことに他ならない。真の宗教はこれに確信を解決を与える。
言うまでもなくキリスト教は、世界最大にして、イスラムや仏教より四、五百年古い(ということは影響を与えた)最古の宗教である。しかも教祖が極悪人だけが処刑される十字架にかかってまで人を愛したという、極めて異例な神である。
キリスト教は、死と魂と霊について、実に明確な答えがある。クリスチャンだけが天国に行けると思っていると、批判はたやすい。が、食べ物の味と同じで、食べてみなければわからないし、だれも食べたことがないものなら二の足を踏むが、なにしろキリスト教は世界最大の食べた人がいるわけで、それだけでも安心して食べてみる価値のある教えである。 ケパ