北野天満宮で秀吉が大茶会を開いたのは1587年。
この時、チーフディレクターを務めたのが利休さん。
千利休の名前は、この時から広く世に知られるようになりました。
死の、たった3年前のことです。
「利休」という名前の由来については、諸説あります。
堺の商家(屋号「魚屋)」)生まれの幼名、与四郎くん、
のちに宗易と名乗っていた利休さん。
町人の身分では参加できない茶会にまで、
なくてはならない人となってきた時(1985年)に、
正親町天皇から下賜された居士号が「利休」だったわけです。
でも、名づけ親が正親町天皇だったわけではなく、
考案者は、大林宗套とも古渓宗陳とも、
また別の説もありで、
つまり、なぜ「利休」なのかとなると、
正解はこれですというものは現在のところない、
ということになります。
通説としては、
「名利、既に休す」からとする場合が多いようですが、
「利心、休せよ」からであるとも。
私は、
「陸羽」から来たのではないかな説を
膨らませていきたいと思っています。
陸羽というのは8世紀の唐の人で、
『茶経』を著した人として知られています。
不幸な生い立ちに翻弄されることなく、
茶を点てる腕、
茶会での人との出会いを楽しむ知性、
生きることへの美意識や探究心、
そうした、本人が培ってきた徳から、
茶神、茶聖、茶王、茶仙、茶祖などと呼ばれるようになった人です。
16世紀の堺の人が、
どの程度、8世紀の陸羽の情報を持っていたのか、
大変興味のあることです。
RIKUUの人生に興味を持っていたRIKYUU。
ぼく、RIKUUがいいな、って希望を漏らしていたかもです。
発音は、ま、おんなじ感じ?
利休も茶聖と呼ばれるようになりました。
この時、チーフディレクターを務めたのが利休さん。
千利休の名前は、この時から広く世に知られるようになりました。
死の、たった3年前のことです。
「利休」という名前の由来については、諸説あります。
堺の商家(屋号「魚屋)」)生まれの幼名、与四郎くん、
のちに宗易と名乗っていた利休さん。
町人の身分では参加できない茶会にまで、
なくてはならない人となってきた時(1985年)に、
正親町天皇から下賜された居士号が「利休」だったわけです。
でも、名づけ親が正親町天皇だったわけではなく、
考案者は、大林宗套とも古渓宗陳とも、
また別の説もありで、
つまり、なぜ「利休」なのかとなると、
正解はこれですというものは現在のところない、
ということになります。
通説としては、
「名利、既に休す」からとする場合が多いようですが、
「利心、休せよ」からであるとも。
私は、
「陸羽」から来たのではないかな説を
膨らませていきたいと思っています。
陸羽というのは8世紀の唐の人で、
『茶経』を著した人として知られています。
不幸な生い立ちに翻弄されることなく、
茶を点てる腕、
茶会での人との出会いを楽しむ知性、
生きることへの美意識や探究心、
そうした、本人が培ってきた徳から、
茶神、茶聖、茶王、茶仙、茶祖などと呼ばれるようになった人です。
16世紀の堺の人が、
どの程度、8世紀の陸羽の情報を持っていたのか、
大変興味のあることです。
RIKUUの人生に興味を持っていたRIKYUU。
ぼく、RIKUUがいいな、って希望を漏らしていたかもです。
発音は、ま、おんなじ感じ?
利休も茶聖と呼ばれるようになりました。