茶の葉の声に耳を澄まして    Tea-literacy

数千年にわたる茶と人とのかかわりに思いを馳せ、今、目の前にある茶の声に耳を傾ける
お茶にできること、お茶の可能性とは

利休の瞳

2008年09月26日 | Weblog
熊倉功夫氏のご講演「利休の茶の湯」を聞いてきました。
大阪の正木美術館、開館四十周年記念イベントです。
東京美術倶楽部で行われました。
日本社会に価値の大転換を図った二人のつわもの、
アーティスト利休とパトロン秀吉の心の葛藤に想いを馳せる2時間。
長谷川等伯筆の千利休図を前に、
400年昔にタイムワープです。
62歳のこの利休さんの瞳は、
400年も時が経って、
手製の茶杓がガラスの中に飾られて、
書簡をいろいろに読み解かれ、
心の内をいろいろに推測されている今日のこのひとときを、
どんなふうに観ているのでしょう。

ほー、千家は3通りに分かれたんだあ。
宗旦、なかなかよのお。
しかし、どうして、世の人は、
「茶道は堅苦しいもの」と思っているのじゃ。
堅苦しかった茶の設えを草にしたっていうのに。
なぜ、茶会が品のない祭りのように騒々しいのじゃ。
なぜ、庭の井戸から清き水が汲めないのじゃ。
なぜ、畳や箒まで、唐物になったのじゃ。
和物でいくばいと頑張ってきたのに。
ええっ、茶筅や茶杓まで唐物?
しかも、茶を知らぬ人々が工場で作っているとな。
何故、茶人は自分で作らぬのじゃ。
野菜かごを炭斗に、
魚の魚籠を花入れに、
見立ての心とはそういうことぞ。
なに?竹林が消えそう?
茶農家の後継者がいない?
いったい、今はどういう時代なのじゃ。
講義を聞いておしまいか?

なんて声が聴こえてきたような・・・。
この利休さんの顔、
爆笑問題の太田に似てるなあなんて思っていた私に
降りてこないかあ。