阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

原野商法

2020-02-17 17:41:57 | 日記
 もう一つ母方の祖父の話。やはり私が小学生の時、祖父は訪ねてきた業者から別荘用の土地をすすめられて、百万円で購入した。これも五十年近く前の話だ。しかしその後業者と連絡が取れなくなってしまった。土地は当地から遠く離れた離島にあって、祖父はその島と同県在住の友人に調べてもらうべく、契約書等を郵送したようだ。ところが程なく祖父は癌をわずらって亡くなり、その数年後に祖父の友人のじーさんが訪ねてきてうちに一泊したのを覚えているけど、島の土地については調べてもよくわからなかったと言っていた。その時書類を返してもらったかどうかは、私はまだ中学生ぐらいであったし関わっていない。もちろん業者からは音沙汰もなく、百万円持ち逃げされたものと思っていた。

 ところが、9年前のこと、ある空港の管理事務所から母宛に突然封書が届いた。開けてみると、所有の土地の立木が空港の高さ制限に引っかかるから入って木を切る同意書にサインして送り返してほしいと書いてあった。母名義の土地がその島に確かに存在していることがわかった。そして、番地が書いてある。グーグルアースで調べたら、空港の近くの小山だろうか、トンネルの上の林に赤い矢印がついた。なるほど地下はトンネル、上は立木が空港の高さ制限となれば、全く利用価値の無い土地で、税金も来ないはずだ。持ち逃げではなく、祖父は原野商法に引っかかったものだと、やっとわかった。

 この出来事は、祖父から五十年ぶりに手紙が来たような感じもして懐かしくもあり、すでに笑い話みたいなものだった。母も先方に電話をかけて、言っても仕方がないいきさつをくどくど話していた。管理事務所の方にはさぞかし迷惑な話を聞かされたのではないかと思う。そして、五十年前に祖父がだまされて購入した土地を写真で眺められたことも感慨深かった。今の時代はこういう原野商法に引っかかる人はまずいないのではないか、その分新手の詐欺が増えているのだろうけど。

 残る問題は、この土地を将来私が相続するかどうか。なにせ権利書も何もないのだから、現地に行って手続きするような事なら、ほっといた方が良いかなとも思う。森林税みたいな税金がかかるようになったら、物納したいかもしれない。その前に一度訪れて、いや、グーグルアースで見れば十分だ。もしその島に行くことがあったとしても、その時は他の名所を見てまわりたいものだ。


【追記】相続について調べてみたところ、税金かからないならほっとけと書いてあるものもあり、また、所有者不明の土地が増えていることから所有権放棄できる制度を政府が検討中との話もあった。早くそうなってほしいものだ。また、原野商法の詐欺は過去のものではなく、売ってやるなどと言ってさらにお金を要求する二次被害は今も続いていることがわかった。笑い話ではなかった。ここにそういうコメントが来たりするのだろうか。

従大叔母

2020-02-15 11:35:16 | 日記
 今回書いてみたいのは母方の祖父のいとこの女性(故人)についてであるが、今調べたら祖父より年下の場合は従祖叔母または従大叔母で読みは「いとこおおおば」、聞いたことがない言葉だ。祖父とこの従大叔母の子供同士が結婚していて、私からみると叔母の義母でもある。このルートで何かスッキリした呼び名がないか調べたがよくわからない。したがって、従大叔母で通すことにしよう。

 この従大叔母のことを思い出したのは、いつも読ませていただいているブログに山岳保険のことが出てきて、捜索ヘリの費用のことが書いてあったからだ。

 私が小学生の時だからもう五十年近く前のこと、この従大叔母の息子さん(当時大学生)が槍ヶ岳で遭難して、祖父のところにも電話がかかってきた。捜索のヘリを出すのに相当なお金がかかるらしく、ところがちょうど盆休みで銀行の窓口が開いていない、もちろんATMなるものはその頃は存在しない。それで手持ちのお金を貸してくれという電話だった。それで親戚中の手持ちの聖徳太子(当時)を集めて、何とかヘリを飛ばせることになった。翌日から両親と県北に一泊旅行に行くことになっていたが、母はこの件の対応のため家に残って、父と弟の3人で出かけた。しかし、祖父の命でお金をぎりぎりまで渡してしまっていたから、ひもじい旅だったと父はあとで話していた。私は比婆山の近くでカブトムシと当時話題沸騰だったヒバゴンを探し回ったことしか覚えていない。結局息子さんは遺体で発見された。従大叔母は時々クッキーを焼いて持って来てくれる明るい主婦だったけれど、60歳ぐらいで癌を患い他界されたと記憶している。

従大叔母は短歌の会に通っていて、没後に旦那さんが歌集を出版された。うちにも一冊あるが、私が良く行く県立、市立の図書館の書庫にもあり、検索すると国会図書館にも献本してある。読むと、息子さんを亡くされた時の歌も多数入っているけれども、従大叔母の性格通りの明るい歌も目につく。短歌の技量は、私よりは上手、と言っておこう。それはともかく、図書館に一冊本を残されているというのは、私にとってはとてもうらやましいことだ。良い服や良い車を持っていても私は何とも思わないが、図書館に自分の本が一冊というのは素敵な事だと思う。遅速の差こそあれお迎えの順番は誰でも必ずやってくる。お墓に骨が残るよりは、図書館に本が残った方が断然良いと思う。私も何とかならないか、しかし死後に出版してくれる人はいない。自分で何とかするしかないが、費用を含めて見当がつかない。図書館に納める部数だけという訳にはいかないような気もする。それに自作の短歌はアレだから、何かもうちょっとマシな物を書いてから考えるしか、いや、アレでも短歌の方が本にしやすいのかもしれない。ぼちぼち情報収集してみたい。



 

浄るりのほとけ

2020-02-14 22:06:09 | 栗本軒貞国
三日前の縁日に参拝した保井田薬師を詠んだ栗本軒貞国の狂歌を、「芸陽佐伯郡保井田邑薬師堂略縁起並八景狂歌」から引用してみよう。


          追加       貞国

  里人のかたるを聞けば浄るりのほとけも古き時代ものなり



(保井田薬師堂 本尊薬師瑠璃光如来)


「五日市町誌」によると、この「芸陽佐伯郡保井田邑薬師堂略縁起並八景狂歌」は貞国の弟子の佐伯久兵衛(涼風亭貞格)による一枚摺物で、文化十二年(1815)冬とある。最初に保井田薬師の略縁起を記してあり、この略縁起をもう少し詳しくしたものがお堂の近くの石板と縁日に置いてあった説明文でも読むことができた。



「芸陽佐伯郡保井田邑薬師堂略縁起並八景狂歌」ではこの略縁起のあと、保井田邑の門人による八景狂歌、そして追加で師匠の貞風と貞国の狂歌が続いている。貞国の歌を追って行こう。

「浄瑠璃の仏」は薬師如来のことで、薬師如来本願功徳経に、

  有世界名浄瑠璃仏號薬師瑠璃光如来

阿弥陀如来は西方極楽浄土、薬師瑠璃光如来がいらっしゃるのは東方浄瑠璃世界であって、最初はお経の表現として浄瑠璃という言葉が日本に入って来た訳だ。貞国の歌は、これが分かれば何も難しいことは無い。ただ、その前の門人の八景の歌と違う所は、貞国得意の縁語がちりばめてあるところだ。浄瑠璃に関係する縁語を見てみよう。

浄瑠璃といえばまず思い浮かぶのが人形浄瑠璃、そのルーツは中世末に大ヒットとなった「浄瑠璃姫十二段草紙 」で、これ以降浄瑠璃という言葉が語り物の芸能の呼び方になったというのが通説のようだ。義経と浄瑠璃姫のお話の冒頭、三河のみねの薬師に願をかけて生まれた浄瑠璃姫の名前の由来の部分を引用してみよう。

「かれを取あけ見給へはまことにたまをのべたるごとくなれば。御名をばじやうるりとこそなつけたり。」

だらだら続く仮名が読みにくい。義経との逢瀬の部分

「じやうるり御ぜんは。いはきをむすばぬ御身なれば。はくのおびの一むすび・・・」

と書いていたら話が大きくそれてしまうので、続きは読んでいただきたい。

貞国の歌の末句の「時代もの」も浄瑠璃に関する縁語で、世話物に対する言葉だ。江戸時代に時代物といえば、関ヶ原以前の武家や公家の事件などに取材した脚本で、それに対して町人社会のお話が世話物ということになる。忠臣蔵は脚本上は太平記や曽我物語の頃のお話ということになっているから時代物で差し支えない。

貞国の歌でもう一つの縁語は「かたる」で、能は謡うというが浄瑠璃は語る。前に夜鷹そばうりの歌を読んだ人倫狂歌集に「浄瑠璃かたり」と題した歌がある、二首引用しておこう。


        浄瑠璃かたり

  うまいそとほめてくれよと手を出してほゝをおさふる浄るりかたり  門成

  鶯より田舎生まれの竹本はふしになまりの抜けぬ浄るり  季澄


義太夫節は江戸っ子にはなまりと聞こえたのだろうか、五首のっているが好意的な歌は一首ぐらいだった。

以上、貞国の歌は保井田薬師が古い仏さんと言ってるだけの歌だが、かたる、浄瑠璃、時代物と縁語が効いている。残念なのは、里人の語るを聞けば、であって貞国の感想ではなかったことだ。追加のもう一首、柳門正統第四世を名乗った梅縁斎貞風の歌を紹介しておくと、

  
  匙先の加減よりなほ三毒の病をすくふ妙薬師さま


縁日で薬師さまの個性的なお顔を拝見した後でこの師匠格二人の歌を見ると、貞国と貞風は実際に保井田薬師にお参りしたのかどうか疑わしくなってくる。二首とも臨場感のある歌ではない。あるいは八景の摺物に歌を頼まれて歌だけ送ってきたのかもしれない。広島城下から保井田村は徒歩でも十分日帰り圏内であったはず、もっともこの時貞国は七十歳にはなっていないけれども、どれぐらい元気だったかはわからない。

さて、ここからは、前の毘沙門天の歌の時と同様に、狂歌江都名所図会の類歌を少し紹介してみよう。この狂歌集で薬師の見出しがあるのは、古川薬師茅場町薬師堂蛸薬師の三か所で、保井田薬師の縁起でもあったように、眼病は薬師如来へのお願い事ランキング第1位だったようだ。 


  精進をして古川へ願う目の目さし鰯やたち物にせん スンフ 望月楼
 
  茅場町薬師如来の地内にて子等を目あきにねかふ天神 鶏田舎秋吉

  しよほしよほの雨の薬師の縁日もかゝさす参る目のかすむ人 楽々亭琴樽

  蛸薬師守れる僧は寺入の子供の目をもあかす手習 俵舎


願をかける時の「断ちもの」という言葉が出てくる。このほか古川薬師では乳が足りるようにという歌多数、蛸薬師では頭痛というのもあった。しかし歌の数の割に病の種類は少なかった。何にでも効くというものでもなかったのだろうか。


  もらひ乳もなさてそたちし御礼とて母か連来る子も銀杏髷 神楽堂外道

  薬師堂鉢巻したる蛸の絵馬頭痛の願の礼におさめつ 勇々館道草


江戸時代から蛸は鉢巻していたようだ。このほか、蛸薬師ではイボが出てくる歌もあった。そして、絵馬は願かけとお礼参り両方で見られて、賽銭、お礼参りの額や絵馬の奉納は金に糸目をつけないのが江戸っ子のようだ。


  價にはいとめもつけすたこの額御礼にあけて来る薬師堂 肥述

  春の日の蛸薬師には子等迄もいとめをつけすあくるさいせん 実利


保井田薬師はもうちょっと地味ではなかったかと思うが、医学が発達している今よりも、熱心にお参りする人が多かったのは想像できる。前回の毘沙門、今回の薬師とも結構な数の歌があって当時の信仰に少し近づけたような気がする。行き詰っている阿武山の観音信仰についても、この方法でまず江戸や上方の観音信仰から探ってみたいと思う。しかし今回は貞国の歌よりも、漫画の脇役のような保井田薬師さんのお顔が強く印象に残った。今このお薬師さんにお願いしたいのは、やはり流行りの新型肺炎だろうか。最近話題になった薬師如来本願功徳経の歯磨き、うがい手洗い等々すれば菩提に至らんという一節を最後に引用しておこう。

若有浄信男子女人。得聞薬師瑠璃光如来。応正等覚。所有名号。聞已誦持。晨嚼歯木。澡漱清浄。 

若し浄信の男子女人有りて。薬師瑠璃光如来。応正等覚。所有の名号を聞くことを得。聞き已て誦持し。晨に歯木を嚼み澡漱清浄にして


南無薬師瑠璃光如来 おんころころ せんだりまとうぎそわか

大行院正楽寺 保井田薬師堂 縁日

2020-02-12 13:56:15 | 寺社参拝
2月11日は保井田薬師堂の縁日、貞国が文化十二年(1815)に狂歌に詠んだ薬師如来をお参りすることにした。なお、山号の「岩くろ山」の「くろ」は石偏に単という字でPCで見つからずタイトルでは省略した。そして、狂歌については次の記事で書くことにして、今回はお参りの始終を書いてみたい。

いつものように昼飯片付けてから12時41分の芸備線で出発。広島駅で13時15分の山陽本線岩国行に乗り換えて13時半過ぎに五日市着、北口のバス乗り場を確認してから、ここは20分以上あるので福屋の地下で乾物等の買い物をして、バス停に戻って13時57分彩が丘団地行きのバスに乗った。多分初めて通る道で、細い川に沿ってバスは北へ、十分ちょっとで保井田についた。保井田を我々が読むと「保」にアクセントがいってしまうが、バスのアナウンスは最後の「田」にアクセントがあった。しかし地元の発音は確認していない。



バス停を降りるとすぐに右手の丘の上にお堂が見えて、しかも西側は壁になっていて登るのは南側からとすぐにわかった。いつも道に迷っている人間にとってはありがたかった。



そのお堂の南側には何軒か露店が出ていて、石段は上が見えているからそれほど苦にはならない。もっとも、足が悪くて薬師如来にお願いという方には大変かもしれない。



登り切ったら右手に薬師堂、そして地元の方が甘酒のテントを出していらっしゃった。



まずはお参り。肉眼では暗くて薬師如来のお顔は見えにくかったが、デジカメにはかろうじて写っていた。ぱっと見さえん顔・・・いや、中世風で個性的な顔立ちの御仏だろうか。






  南無薬師瑠璃光如来 おんころころせんだりまとうぎそわか


  里人のかたるを聞けは浄るりのほとけも古き時代ものなり 貞国


貞国の歌については次回書くことにして、ここは引用だけに留めよう。もう一度よく見ると、慈悲心にあふれる表情で衆生を救い給う御仏に違いない。二度目は心を込めて、病気平癒を色々とお祈りした。甘酒をいただいた地元の方によると昔は参道にぎっしり露店が出ていたそうだ。今は賑わいとまではいかないけれど、それでも決して広いとは言えない境内に参拝の方が途切れることなく石段を登っていらっしゃった。



この薬師堂は昔は今薬師が丘団地になっている所にあり、明治になってからこの場所に遷されたという。しかし、お薬師さんは何百年も変わることなくあの表情で参拝者の願を聞き続けていらっしゃったのだろう。貞国が狂歌に詠んだこのお薬師さんが名残惜しくもあり、またこのコンパクト感が私には居心地が良く、結構長く境内に留まっていたと思う。御仏を見た時の第一印象からすると少し不思議な感じもするけれど、又の二月十一日にお参りしたい気持ちが強くなった。

保井田を14時59分のバスで五日市駅に戻り、少し時間があるから海老山公園に寄ってみようと思った。晩メシ当番のため五日市16時16分がリミットというのを確認してから南口に回り宮島街道を少し西に歩いたところが公園の入り口、しかしここにある、めん長州という麺類のお店にふらふら入ってしまった。常々、大手のチェーン店は避けて地元の小さなお店と思っているせいで、道の途中にこういうお店があるとつい入ってしまう。保井田にも気になるカレー屋さんがあったのだけど、休日はやってなくて残念だった。ここのラーメンは、広島ではスタンダードなとんこつ醤油、帰って調べたらおでんも美味しいそうで、次回食べてみたい。



これで時間をロスしたため、時計を見ながら海老山を登った。海抜60メートル足らずの小山で南北に長く、私は北側から登って南の展望台を目指したせいか、勾配はそれほどきつくなく、わりと簡単に展望台にたどりついた。しかしラーメン食ってしまったのが響いて展望台まで早足で往復しただけになり、途中の石碑などをスルーしてしまったのが残念だった。途中に宍戸氏城址の立札があってもどこが城あとなのかじっくり確認できなかった。せめて帰りにラーメンにすればよかった。いや、ここはもう一度ゆっくり訪れたいものだ。





展望台は草が茂っていて展望はもう一つだったが、もう一段高いところに登ると海が良く見えた。



思えば、最近は山と川ばかりで海を眺めることは無かった。これは貞国に海の歌が無いことも影響していると思う。もっとも師匠の貞佐は江田島で歌と絵を残しているし、貞国も水主町に住んでいたのだから、海に出なかったはずはない。今回保井田のお薬師さんにお参りしたことで、あと貞国が歌を詠んだ所というと加計とか豊平とか山間部の自力で行きにくい場所ばかり残った。できれば海沿いも、どこかないものか、調べてみたい。



行尊舎貞国

2020-02-10 09:57:47 | 栗本軒貞国
「狂歌家の風」で書籍検索すると、「享保以後大阪出版書籍目録」という本が出てきて、書名索引で「狂歌家之風 一七四」とあり、その174ページを見ると、

  狂歌家之風 一冊

  作者 貞國 (藝州 廣島)

  板元 譽田屋伊右衛門 (博勞町)

  出願 享和元年九月

  許可 享和元年十二月七日 

とあって、これは別に新しい情報ではなかった。これだけだと思っていた。ところが、昨日この本を見直していたら、これとは別に著者名別索引があり、そこには、

   行尊舎貞國 廣島人
     狂歌家之風 一七四

とあって、「行尊舎貞國」の記述があった。これは狂歌秋の花に出てくる竹尊舎貞国の誤読誤写の可能性もあるのだろうか。

この本には上方の狂歌師はちゃんと五文字で書いてあるのに、狂歌桃のなかれの項の星流舎貞石も貞石だけになっていて、貞国もこの行尊舎がついてる以外の二か所は貞國だけで、ちょっと差別意識じゃないかと嫌な感じになる。いや、それはもうちょっと調べてみないとわからない。今回はこういう記述があったとメモするに留めよう。

すでに来ているのか

2020-02-10 08:57:29 | 日記
父が週一度お世話になってる訪問看護の看護師さんは先週、コロナウイルスは既に広島に来ていると言われていた。じたばた洗髪の準備をしながらだったから、それ以上突っ込んで聞かなかった。何か知ってるというより、そういう心構えで行動されているのだろうと思っていた。

しかし今民放でやってるの聞いたら、コロナウイルスの検査は湖北省しばりがある、すなわち湖北省帰りや湖北省の人と接触した場合しかやっていない、保健所に頼んでも湖北省と関係なければ検査してもらえないと言っていた。先日、「国内で散発的流行が起きていてもおかしくない」という感染症学会の見解も出されていて、あちこち感染者がいる可能性もあるとは思っていたが、本当にそうなりつつあるのだろうか。

もっとも、もしそうだとしても大騒ぎする必要はない。日本では重症者の例を聞かない。子供もかかりにくい。前にも書いたが、我々ができることは同じで手洗いうがい等が重要であることに変わりはない。うちの場合、高齢で持病もある両親が感染したら危ないとは思うけれど、それはインフルエンザでも同じ事だ。私がより一層の注意をしておかないといけないのだろう。

2月8日 安佐北区図書館 「可部町史」など

2020-02-08 20:55:22 | 図書館
先日、広島市立中央図書館で借りた2冊の返却のため、安佐北区図書館へ。昼飯を片づけて、深川三丁目12時59分のバスは5分遅れて、しかも根の谷川の川土手の工事のせいで深川通りの出口のところが込んでいて、可部上市バス停に着いたのが13時25分過ぎだった。そこから小雨模様の中歩いて安佐北区図書館へ、可部バイパスを越えて少し坂道を登った所、区民文化センターと同じビルに入っている。公共の交通機関では行きにくく、当地の文化レベルの表れとも言えるだろう。安佐市民病院の跡地に移転という話も、いつの間にか立ち消えになったようだ。

返却の棚に二冊ならべて、今日の用事はこれでおしまい、広島城のチラシを眺めた後外へ出たら、さっきより雨が激しくなっている。しかし青空ものぞいていて通り雨のようだ。しばらく何か読んで晴れ間を待つことにした。

まず手に取ったのは可部町史、前にこれを読んだのは阿武山関連を調べていた時で、狂歌の項を読んでいない。可部で狂歌が盛んだったのは幕末、とありながら、天保七年、梅縁斎貞風の可部の地名を詠み込んだ歌で始まる文書の記載があった。貞国の弟子で柳門4世を名乗ったのは広島の貞風と周防玖珂の栗陰軒貞六の二人がいる。貞風が夭折したために貞六に4世を継がせたのかと思ったがそうではなく、貞国の死後も貞風は活動していたとわかった。今のところ破門になったという話も出てこない。師匠の貞国はどのような心づもりだったのか、手掛かりはないものだろうか。

次に「白木町史」、ここにも幕末、弘化年間に狂歌連が活動していて、貞の字を許された人が二人いることから、柳門の指導を受けていたと思われる由記述があった。しかし、師匠の名前の記載はなかった。ここで外を見たら晴れていて、また徒歩で上市に戻った。買い物をして、可部上市15時27分のバスで、帰りは渋滞もなく50分には居間で両親にラムーで買ったタコヤキを食べさせていた。

これだけのことではあるけれど、今日はメモ帳も持っていなくて、書いておかないと明日にはすっかり忘れてしまうだろう。ここに記しておいて、次はまた県立図書館であちこち調べてみたい。






狂歌家の風(34) 寄毘沙門祝

2020-02-08 12:36:40 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は祝賀の部から一首、 


         寄毘沙門祝

  銭かねのおさまる御代や毘沙門のよろいかふとはとかめ人もなし


詠まれた状況がいま一つよくわからない。簡単そうに見えて、かゆいところに手が届かない、そんな感じのする歌だ。

「おさまる御代」はこの時代の狂歌、特に賀の歌によく出てくる言葉で、戦乱のない平和な世の中、この六文字だけでめでたいということになる。ひとつ例をみておこう。狂言鶯蛙集から、


        寄鳥祝   朱楽漢江

  治れる御代は諫めの皷にもこけかうとなく鳥ぞかしこき 


諌鼓鶏の故事(善政が行われていれば諫めの太鼓は鳴らず太鼓の上の鳥も驚くことはない)を詠んだ和漢朗詠集の「諫鼓苔深鳥不驚 (諫鼓苔深うして鳥驚かず)」をふまえて、鶏の鳴き声「こけかう」を「苔深う」と聞いている。

貞国の歌に戻ると、「銭かねのおさまる御代」となっていて、質素倹約の風潮を言っているのだろうか。この狂歌家の風が出版された享和元年の前の年号が寛政であって、寛政の改革の倹約令は有名である。もっとも、広島藩ではそれ以前から倹約のお触書は度々出ていて、このフレーズが寛政の改革を指しているかどうかはわからない。

「毘沙門の鎧兜」も具体的に何を指しているのか。広島のあたりで毘沙門天といえば、初寅祭にお参りしたばかりの緑井の毘沙門さんぐらいしか思いつかない。しかし、三日前に見てきた毘沙門天立像は、兜はつけているが鎧はどうだろうかといういで立ちだった。



(2月5日権現山毘沙門堂初寅祭で開帳になった毘沙門天立像)

今ちょうど奈良国立博物館で毘沙門天の特別展をやっていて、このページの写真で見るとどの像も確かに鎧兜をつけている。しかし、どちらかといえば実用的な甲冑であって贅沢を咎められるような華美な鎧兜には見えない。

もう一つの可能性としては、「五月人形 毘沙門」で検索すると上杉謙信の兜が出てくる。端午の節句に飾る鎧兜と考えられないだろうか。上杉謙信公家訓に「心に迷いなき時は人を咎めず 」とあるが、上の「こけこう」のようにピッタリとははまらない。それに、印地の回でみたように、広島藩は端午の節句の贅沢無用の触書を早々に出している。もう一度引用すると、


     町諸事覚書
五月朔日
一印地打御法度、のほりかふと母衣其外結構成もの立候儀無用之由、町幷新開中へ觸之 「顕妙公済美録」巻十三上、貞享元年(1684)


これは貞国の時代からすると百年以上前だけれども、寛政期でも「咎め人もなし」とはいかなかっただろう。どうもこの線も薄いようだ。

この詞書と歌だけなら、この質素倹約のご時世しかも太平の御代に毘沙門天は立派な鎧兜をつけていても咎める人がいないことだ、ぐらいに浅く解釈するしかなさそうだ。どうして祝賀の歌なのか、それは「おさまる御代」が入ってるから、あるいは人々に福徳を与えるという毘沙門天を讃えている、ぐらいしか言えない。どうも、しっくりこない。この歌が詠まれた状況がわからなくなっているのではないかと思う。

ここまで見てきた狂歌家の風の詞書は、尚古などの同じ歌と比べると短く端折ってあるケースがあった。舌先の歌や、風鈴の歌がそうだった。風鈴の歌では、風鈴につるしてある短冊に近江八景が描いてあるという重要な情報が狂歌家の風の詞書に無かったために解釈に苦労した。何らかの事情で、詞書を短くしなければならなかったのだろう。うなつき女夫の回で、貞国が「祝してよ」あるいは「祝してたべ」と乞われて歌を詠んだという長い詞書の例を見た。この毘沙門の歌も、何かそういう事情があったのではないか。絵があったのか、誰かが持っていた小さな毘沙門天像があったのか、今のところはそのように想像しておこう。

残念ながら、三日前に参拝した緑井の毘沙門さんと貞国の歌との関連は見つけられなかった。しかし、広島で毘沙門堂は他には聞いたことがなく、絶対違うとも言い切れない。貞国の歌についてはこれぐらいであるが、今回初寅祭を参拝するにあたって、狂歌江都名所図会にある正伝寺毘沙門堂の狂歌(挿絵の歌はこちら)を予習した。毘沙門を詠んだ三十二首の中から少し紹介してみよう。


  首ふりてかはねはきかぬうなゐ子にこまる張子のとらの縁日 柳園光糸

  縁日の寅の威をかる狐つきいかておとすや毘沙門の所化 松代 桃樹園仙齢


「買わねば聞かぬうなゐ子に」は今でもありそうな光景だ。毘沙門天のお使いは虎と百足(むかで)、緑井の毘沙門堂でも鐘にムカデが入っていて、御朱印にもムカデの印があった。




狂歌を読んでみると芝金杉にある正伝寺の毘沙門堂では百足小判というお守りを売っていたこともあり、虎よりもムカデの歌の方が目立つ。


  油とるむかで小判の御初穂で常燈明もあくる毘沙門 異龍軒愛成

  毘沙門でうける小判も名にしおう百足に似たる金杉のはし 富梁軒幸成  

  大名も毘沙門前を行列に百足のあしを見する金杉 長鶴亭白喜

  つかはぬか宝なりとて毘沙門の縁日に賣る百足小判か 柏の舎


お金のことをお足と言ったことから、足がたくさんあるムカデは縁起物だったのだろう。狂歌ならありそうな人を刺す歌は一つもない。この百足小判を財布の中に入れておくと金運アップの御利益があったそうだ。ネットで毘沙門天を検索すると、人々に福徳を与えることから、また江戸時代以降は勝負事の神様として人気があったと出てくる。たしかに上杉謙信のお話などでは、毘沙門天イコール戦いの神様だけれど、この三十二首の中に戦い、勝負事の歌は一首もなく、福徳が出てくる歌がわずかに一首だ。緑井の毘沙門さんも商売人に人気で明治の時代には終夜可部線の臨時列車が出ていたということをみても、やはりムカデのお足から連想される金運の面が大きかったようだ。この江戸の正伝寺は金杉という地名もポイントアップというところだろうか。福徳の一首ものせておこう。


  毘沙門へ下したまへと福徳をねかふも乞喰松屋横丁 外道


また、京都鞍馬の毘沙門天は火打石を売っていたということで、その関連の歌もある。


  火打石出る鞍馬に引かへて附木をそ賣る金杉毘沙門 尚丸

  初寅に毘沙門天のそなへものきよむ火打のいしと金杉 仙齢


こうしてみると、初寅の縁日の歌には、張り子の虎、百足小判、火打石、そして虎の威を借る狐の面など、様々なアイテムが詠まれていて、その中でも百足の歌が目を引いた。縁語が得意の貞国の歌に何も出てこないということは、やはり絵か何かを見て詠んだのだろうか。




権現山毘沙門堂 初寅祭

2020-02-06 11:13:10 | 寺社参拝
今年の初寅は二月五日、緑井の毘沙門さんでは四日五日と初寅祭であった。私も掛け軸の件で調べている七福神参りを兼ねて出かけることにした。好物の出雲そば屋が四日は天満屋緑井店の棚卸で早じまいということで、五日に決めた。昼飯を片づけていつもの12時41分の芸備線でスタート、しかし今日はひと駅だけの乗車で、玖村駅前12時54分毘沙門台行きのバスに乗り換える。高瀬大橋の手前で阿武山の写真を一枚。



 正面一番高い頂が阿武山(あぶさん)、2014年の土砂災害後に完成した砂防ダムが見える。そして峰続きの左の小山がこれから行く毘沙門堂がある権現山(ごんげんやま)だ。タイトルの権現山毘沙門堂は山号であるから、もちろん音読みになる。バスは太田川を渡って旧道に入り、中緑井(JR緑井駅前)では10人ぐらい乗って来た。しかし3年前初寅祭初日に来た時の半分ぐらいで、二日目の午後だからだろうか。

 バスは安佐中の横から坂を上ってアストラムライン毘沙門台駅のそばを通って安古市高校を過ぎた次のバス停、毘沙門台三丁目で下車した。時計をみたら13時半だった。本尊毘沙門天像の開帳は2時間おき、次は14時のはずで、前回来た時は並んで待つ時間が長かった。まず毘沙門堂を目指して、毘沙門天像を参拝したあとにゆっくり七福神を回ろうと思って鐘楼から一気に坂を登ったらラストでばててしまった。ゆっくり七福神をお参りしながら登るべきであった。それに、毘沙門堂の前に着いたら、去年はあった列ができていない。今年は期間中は常時開帳と書いてあって、それなら落ち着いて登ってくれば良かった。それでも中に入ると、14時からの護摩行を待っている人が結構いた。本尊の毘沙門さんは私のデジカメではいつもピンボケである。




この像は伝行基作とのことだが、文化財的な調査は行われているのかどうか、佐東町史にもネットにも出てこないようだ。佐東町史には、安芸武田氏が佐東銀山城築城の際、その北方の鬼門除けに、権現山元成寺跡に建てられたものであるという。ネットには正安元年(1299) と出てくる。するとその頃の作だろうか。

右の厨子にいらっしゃったのは、吉祥天女様だろうか。本堂の中はぎっしり人がいて、自由に歩き回って見る訳にはいかなかった。


左の厨子の聖徳太子みたいな髪の長い童子像は、写真が失敗だった。3年前の写真に左の厨子も遠く写っている写真があった。手前に置かれている像も毘沙門天のようだが、これはレプリカなのか別の像なのか、よくわからない。


(これだけは3年前の写真です)


きょろきょろしているうちに、御朱印の番号を呼ばれた。3人待ちぐらいだっただろうか。頂いた御朱印は、虎とともに毘沙門天の使いといわれるムカデの印が中央に押されている。江戸狂歌で正伝寺毘沙門堂の初寅の歌をみると、百足は驚くほど多数出てくる。これは次の記事で書いてみたい。


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色々と流行っていることでもあり、本堂の中で大勢の人と一緒に護摩行を待つのは息がつまる感じがして一度外へ出た。そしたら中がつかえていることから、前来た時と同じように列ができ始めていた。



ここはまず本堂の近くの弁天様にお参り、あとで参りした七福神の石像にも、なぜか私が愛飲している可部の旭鳳酒造の日本酒がお供えしてあった。七福神の石像は昭和四十年代と縁起を記した石板にあり、それとは別の弁天様、それより古そうに見えたが詳しいことはわからない。





お参りを終えてふり返ると、列がぐんと長くなっている。先に七福神をお参りしてもう一度戻って来ることにして石段に向かった時、護摩行が始まるアナウンスがあり、その前のお話がマイクであるようなので、聞くことにした。それによると、周辺への迷惑駐車が絶えないため、今年は人がたまらないように二時間おきではなく常時開帳とした。とにかく駐車場の確保が難しい。それで、来年からは初寅の直前の土日に初寅祭を行うことにする、とのことだった。時代の流れだろうか、本来の初寅の日の開帳は今年で最後かもしれない。七福神をお参りした後にもう一度お参りしたいと思った。

一度坂を下りて、七福神、といっても毘沙門天以外の六つの石像にお参りした。まずは爺様の掛け軸でどちらか悩んでいる福禄寿と寿老人


(↑福禄寿)



(寿老人)

確かに似ていて持ち物でしか区別できないけれど、頭が強調してあるのは福禄寿だろうか。そして残りの四つの神様、いや、本来この四神の方が人気で福禄寿と寿老人はかなりマイナーなのだけど、今私が悩んでいるのはこの二神なので先に書かせていただいた。


(えびす)


(布袋)


(弁天)


(大黒天)

二葉の里の時と違って、今回は全部お参りできた。締めくくりに、もう一度坂を登って本堂の毘沙門天にお参りした。火を焚く護摩行は一段落していたが、太鼓を叩くお坊さんは残っていて真言が聞こえていた。列ははけていて、落ち着いてお参りすることができた。毘沙門天といえば本来戦いの神様であるが、そのお使いが百足(ムカデ)であることから、お足=お金がたくさんということで、商売人に根強い人気があるとのことだった。私の場合、金運は期待できないとは思いつつ、とにかくお祈りしておいた。移動する時別角度から撮った写真は比較的ピントが合っているけれど、厨子の中は手前の金色のものに隠されて写ってなかった。手前のレプリカかどうかわからない毘沙門天らしき像は左端に写っているが、本堂の中は何がどこにあるのか、祈祷の場でもあり、じろじろ見てまわる訳にもいかない。お祭りでない時に一度来てみたいものだ。




お参りを終えて、帰りは徒歩で緑井駅を目指した。こちらが本来の参道である。長い石段の手前で南の眺望が開けている場所があった。広島デルタから阿武山が見える理由もよくわかる。





徒歩35分ぐらいで緑井駅に着いた。フジ、天満屋方向への歩道橋に上がれば、いつも阿武山を眺めるポイントがある。左の権現山にぽつんと赤い建物がかくれているのが多宝塔ではないかと思うのだけど、定かではない。




最初の高瀬大橋の写真とは角度が違って右の阿武山はとんがって見える。そして、天満屋の一福で好物の出雲そば。ここは舞茸天そばをよく頼むのだけど、帰ったらまたすぐにメシ当番なので、シンプルに割子にした。



3年前は天満屋緑井店が棚卸の半休でお参りを終えて来たら一福は既にオーダーストップとなっていてショックだった。今回はちゃんと調べて、そしたらやはり初寅祭初日が棚卸となっていた。緑井に人が集まる日に百貨店が半休にするのはどうかと思ったけれど、毘沙門堂で聞いた迷惑駐車の話と関係あるのかもしれない。

天満屋一階で食料品の買い物を終えて、帰りは緑井駅からだと可部線で中島経由という手もあるけれど、時刻は16時前、ちょうどフォーブルのコミュニティバスがある。これで安芸矢口駅から芸備線で返ることにした。安佐南区のフォーブルは昔は第一タクシーといって、私が応援しているサンフレッチェのユース、ジュニアユースのスポンサー様でもあり、遠征には運転手が帯同している。3年前と同じように、安佐大橋を渡りたいがどこで降りたらいいか運転手さんに聞いたら、3年前と同じように安佐大橋の近くで降ろすと返答があった。思えばこのコミュニティバスは土日運休で、初寅の帰りに利用できるのは今日が最後ということになる。阿武山を眺めながらバスは緑井から川内地区を進んで、十分ちょっとで安佐大橋に着いた。川内の広島菜はすでに収穫済みで、何も植わっていない畑も多かった。安佐大橋からも阿武山権現山を眺めて、



安芸矢口駅の陸橋も阿武山を眺めるポイント




そして安芸矢口16時41分の芸備線で17時過ぎに帰宅した。鐘楼と本堂を二往復して疲れたけれど、お参りして、阿武山を眺めて、好物の出雲そばも食って、素敵な半日だった。しかし、鐘楼の鐘にムカデが刻まれているのを撮り忘れた。もう一度、お参りしなさいということなのだろう。

メタボ予備軍

2020-02-01 09:51:04 | 日記
広島市では、40歳から74歳の人に対して「元気じゃ検診」という無料の特定検診が行われていて、私も父が退院して一段落した昨年10月に受診した。無料で検査してもらえる、ぐらいの感覚だった。通知を持ってかかりつけの医者で、血液検査、尿検査、血圧、身長体重胸囲ぐらいの検診だった。その結果をかかりつけの漢方医は、糖尿病等の生活習慣病は心配しなくて良いが、成人男子にしては血が薄い、偏食しないように言われた。たしかに血を取られた時に薄そうだと思った。しかし見た目で分かるもんでもなさそうだし、管が透明じゃないのかもしれないと気にしなかった。余談であるが、今住んでいる所は私が子供の頃はもっと田舎で、その田舎の小学校の保健室で血を取られて保健の先生がプレパラートの上の血を見て「こりゃA型じゃね」と私の血液型はA型になった。私はずっと不審に思っていて、もし輸血とかになったらもう一度調べてもらわんといけんと思っていたけど、十年前手術した時調べたら間違ってなかった・・・話を戻して、特定検診の数値はおおむね基準値内におさまっており、ひと安心というところだった。

ところが一週間前、広島市から封書が届いて、特定検診の結果、あなたはメタボ予備軍ですと書いてある。それで、動機付け支援(無料)の対象となっていて、まず面接があるという。医者からは心配ないと言われたのに、突然メタボと言われたら当然面白くない。それにこっちは父の介護もあってアレなのに予備軍ぐらいで面接とは余計なお世話よと思って、支援を希望されない方はこちらへという番号へすぐに電話をかけて断った。送って来たチラシも捨ててしまった。チラッと見て一日一回犬の散歩と書いてあったのは覚えている。

これでこの話は終わりのはずだった。しかし数日前、友人からがんの告知を受けたと知らされて、生存率の高い場所ではあるけれど、進行していたようだった。当然ショックだった。それで色々話を聞いているうちに、がんの告知ならともかく、メタボ予備軍ぐらいで動揺してすぐ断って書類も捨ててしまったのは子供じみた反応だったと反省せざるを得ず、ネットで広島市の特定検診を調べてみた。

そしたら、結果によって、積極的指導と動機付け支援があり、私が該当した動機付け支援の場合は、面接で食事や運動習慣の目標を立てて3ヶ月後に電話で成果を聞くとあった。面接でアドバイスを受ければ良いだけだったのに、メタボですと言われて拒否してしまったのは短気だったかな。今更やっぱりお願いしますというのもアレだから、来年度も引っかかったら今度はおとなしく面接を受けようと思った。この件は私が短慮だったとは思うのだけど、できることならば、手紙を開けた時にすんなり受け入れられる表現にしてほしい、とも思った。