阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

狂歌家の風(35) ものもいはさる

2020-02-24 17:36:41 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は恋の部から一首、 

          
        過不逢恋

  庚申の夜を寝た罪かふつゝりと見さる聞かさるものもいはさる


当時の庚申信仰を恋の歌に仕立てている。人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫 がいて、庚申の夜の寝ている間に天にのぼって天帝(あるいは閻魔さま)に日頃の行いを報告して、行いが悪ければ寿命が縮んだり地獄等におちるといわれている。それで庚申の夜に人々が集まって眠らないように過ごしたのが庚申待で、庚申の日は六十日に一度であるから、年に六度の行事であった。また、この庚申信仰では、申の日ということから、三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)が描かれたり彫られたりしたものが数多く残っている。先日参拝した可部の庚申神社にも、青面金剛像の横に三猿像が置かれていた。



(可部庚申神社の三猿像)

貞国の歌を見てみよう。「庚申の夜を寝た罪」について、前に昆布を焼いて食べるタブーを書いた時に読んだ「迷信の知恵」には庚申のタブーがいくつか載っていた。その中に、庚申の夜にできた子は盗人になるといって、この夜の男女同床を禁忌とするものもあった。貞国の歌がこのことを指しているのか、単に自分が寝てしまっただけなのか、この歌だけでは判断しにくい。とにかくその日を境に女性との縁が切れてしまったと嘆いている歌のようだ。「ふつゝり」は、「ぷっつり」か「ふっつり」か。辞書で引くとこの二つに意味の差は無いようだ。用例をみると、ぷっつりの方が時代が新しいようには思える。一応「ふっつり」としたいが、「ぷっつり」ではないという確証は得られなかった。

三猿を詠み込んだ歌は、狂歌では結構出てくる。いくつか紹介してみよう。一休蜷川狂歌問答には三猿の掛け軸を見ている家族の挿絵とともに、


  何事もみざるきかざるいはざるはたゞ仏よりまさるなりけり


その前の歌も庚申(かのえさる)に関わるもので、


  何事もおやのこゝろにかのへさるこれかうしんの人といふなり


かうしんは庚申と孝心だろうか。前に一休さんの正月の歌の回でも書いたが、この本の歌は江戸時代に入ってから作られたと思われる。次は貞柳翁狂歌全集類題から一首、


          無題

  何ことも見さる聞かさる言わさるかよこさるとさる人も申き


上の句は一休さんと同じだが、下の句でもさるを二度畳みかけている。次に狂歌江都名所図会の高輪の庚申堂の歌を三首、


  見すきかすいわすと誓ふ庚申の堂には聲をたつる鰐口 友成

  品川を見すきかすしてふた親へ子はかうしんの月参りしつ 筑波嶺村咲

  目も口も耳もふさきて鳴神を庚申堂てしのく夕立 春交


ここにも庚申と孝心をかけた歌がある。こうしてみると、貞国の歌は三猿を下の句に持って来て物も言わざると語調を整えたところにひと工夫ありと言えるのかもしれない。

これで貞国の歌については理解できたことになるが、可部の庚申神社で見た青面金剛像は、私にはあまりなじみのないものであった。


(可部庚申神社の六手青面金剛像)

狂歌江都名所図会にはこの青面金剛を詠んだ歌もある。


  申の日を祭る青面金剛の御堂にさけふ鰐口の声 有信亭友成

  雷にきもをぬかれて逃こみし人の顔いろ青面金剛 若枝

  海原のみとりのいろにいく代へん名も高輪の青面金剛 草加 四豊園稲丸


庚申様、庚申さんといえばこの青面金剛を指すぐらい、江戸時代には流行した青面金剛は元は夜叉神で疫病を流行らせる悪い神様だったはずが、いつのまにか三尸を抑える庚申の本尊様となった。手は六本が一般的で、庚申さんのようだといえば、仕事が手早い、草取りが早い、口八丁手八丁、という意味になり、また、庚申さんじゃあるまいし、そんなに手はまわらない、そんなにたくさん仕事はできない、という言い方もあったようだ。普通は仏教のお堂に青面金剛、神社の庚申信仰は猿田彦ということになっているが、可部の庚申神社には青面金剛が祀られている。青面金剛は寛文年間から流行したことが知られていて、可部の庚申神社にもそれ以降に持ち込まれたと考えられる。その前、戦国時代に申宮と呼ばれていた頃はどのような信仰だったのか気になるところだ。

最後にひとつ未解決問題。貞柳翁狂歌全集類題にある歌、


         庚申待

  さる若衆庚申まゐりにちらとみて代待なから状を付ぬる





(ブログ主蔵「貞柳翁狂歌全集類題」41丁ウ・42丁オ)


代待ちというのは庚申の夜に代わりに起きていてくれる、あるいは代わりにお参りしてくれる代行業で、それだけ庚申は流行っていたようだ。しかしこの歌、若衆がその代待ちで庚申参りの時にちらっと見たら「状を付ぬる」とは、どういう状況だったのか。調べたところでは、代待をするのは物乞いや願人坊主とあって、この歌の状況とは違う。手がかりが見つからず、これが解明できてからこの記事を書くのではいつになるかわからないので、今ここに書いておきたい。

こうしてみると、今は廃れてしまったけれど、庚申信仰というのは結構奥が深いものだ。また、折を見て調べてみたい。また、昆布を焼いて食べるタブーも未解決で、「昆布を焼くと庚申さんが泣く」を調べに一度四天王寺の庚申堂にも行ってみたいものだ。