阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

亥の子

2019-12-23 13:13:56 | 栗本軒貞国
今日は久しぶりに貞国の狂歌を広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」 (明治41年)から一首、


  ついた所つかぬ所も見ゆるなり亥の子の餅もあらかねのつち


亥の子とは旧暦十月(亥の月)の最初の亥の日に、主に西日本で亥の子餅を作り子供たちが紐のついた亥の子石を地面に叩きつけながら町内を歩く行事だ。子供の頃に旧広島市内の観音や白島に住んだ時はそこの子供会では亥の子の行事は無かったけれども、テレビのニュースなどで亥の子祭りが紹介されていて、また友達の手足を4人で持って歌いながら亥の子石を叩きつけるように体を上下させるちょっと危険な遊びもあって、亥の子の歌はみんな知っていた。しかし、亥の子餅というのはニュースでもやってなくて食べたことも見たことも無い。広島では歌はいたってシンプルで、

  〽いーのこ、いのこ、いーのこ餅ついて、繁盛せー、繁盛せー

貞国の歌をみてみよう。「あらがねの」は土や槌にかかる枕詞、ここでは亥の子石が地面を叩くことを言っているのだから槌だろうか。ウイキペディアをみると亥の子石で窪んだ跡が大きい方が吉とあるから、「ついた所つかぬ所」と興味を持って地面を眺めたのだろう。しかし「つかぬ所」とは、何らかの理由でスルーされた家があったのか。このあたりの秋祭りでも、おみこしが来た時に御祝儀を渡すともう一度わっしょいわっしょい言ってもらえるぐらいの事しか私には思いつかない。貞国が活躍した寛政から化政期の人ならば、「つかぬ所」と言われたらピンと来るものがあったのだろう。

亥の子の類歌は貞柳の歌を紹介しておこう。絵本御伽品鏡から、


       豕子糯(いのこもち)

  孫や子と皆息災にいのこもち辨才天の恵たるとや


貞国の歌も亥の子餅が槌であると言い、この歌も亥の子餅と言いながら挿絵は亥の子石をつく場面である。亥の子石も、あるいは石で地面をつくのも亥の子餅と呼んでいたと思われる。また弁財天のお祭りに亥の子餅を作るのも西日本各地で見られる風習で、弁天様は十月に出雲に行かなくて居残りが亥の子になったという俗伝もあるようだ。


もう一度広島城下の亥の子に戻って、小鷹狩元凱 「自慢白島年中行事 」から亥の子祭りの章の冒頭部分を引用してみよう。

「十月の第一亥の日に亥の神を祭る、通俗之を亥の子といひて、廣島市街の大抵は、一町毎に祭場を設け、神酒供物を擎くるの外、種々なる假面を懸け聯ね、専ら兒童の祭りといひたりき、祭りの當日暁天より、縄もて縛りし大丸石へ、五色の紙の采配を、其中央に括り附け、又幾十條の手縄を結び、幾十人の壮者幼者、此縄握り此石引摺り、家々の戸前に富貴せー。繁昌せー」の掛け聲をもて、地面を擣くこと十數回・・・」

と続いている。注目すべきは町ごとに亥の子石を祀っていて、これが後述する隣町との対抗意識を生んだようだ。上記大阪の貞柳は家族で石つきをやっているような挿絵でそこが少し違っている。そして文中に食べる餅は登場しない。また歌は「富貴せー。繁盛せー」と今に近いものだが、このあとの記述の中で、

「前に述べたる丸石をもて、地上を擣くとき一種異様の童謡あり、今尚記憶に存すれども、語中の終りに鄙野あれば、是は略して載せざりき」

載せられないような下品な歌もあったということだろう。このあと、牛田地区の亥の子は盛大であったこと、この亥の子の日から儀式の食事が膾から煮膾に変更になったこと、又たとえ暖かくても必ずこの日から炬燵を出すことになっていて、「コタツノアケゾメ」という言葉があったことが記されている。ネットで検索すると炬燵を出すのは二度目の亥の日との記述もある。そういえば、茶道の炉開きも中の亥の日だったようだ。

今回やや季節が外れてしまったのにも関わらず亥の子を取り上げたのは、今図書館から借りている新修広島市史の資料編に亥の子に関する觸書が載っていて、貞国の歌の「つかぬ所」のヒントになる部分があった。引用してみよう。


       亥ノ子祭に關する觸書

毎年町方子供相集り、亥ノ子祭りいたし候處、其内ニハ近年大人も相交り町内軒別石つきいたし、銘々心ニ不叶家々ニテ祝言ハ不相唱、都テ聞苦敷雑言等相唱、町境ニテハ争論いたし、并獅子舞なそらへ猥ニ座上へ舞上り、不敬不埒之次第モ有之趣相聞候ニ付、此已後ハ右躰之不行儀も於有之ハ、忍之役方兼テ相廻し直ニ召捕セ候間、子供を持親ニハ別テ厚ク申聞せ、已来ハ全十五才以下之子供斗り相集り、獅子舞等ハ戸口之外ニテ取扱ひ、決テ家之内江這入候事不仕、往来斗舞歩行可申候、石つき等家々繁昌ヲ祝い可申、心懸り之雑言少シニテモ相唱申間敷、若不埒之子供於有之ハ無用捨可申出候叓 「御觸帳」(堀川町)文化十年(1813)


とあって、隣町と喧嘩したり座敷に乱入したりも書いてあるが、注目すべきは「心に叶はざる家々にて祝言は相唱へず、すべて聞き苦しき雑言等相唱へ」のくだり、「心に叶はざる家」では聞き苦しい雑言を唱えたという。最初の貞国の歌は作風からこの觸書の文化十年より前の比較的若い時の作ではないかと推測するのだけれど、石つきをしないだけでなく、雑言をもって囃し立てたということもあったようだ。それで觸書を出して、家々の繁昌の祝いは言っても雑言の類は申すまじく、という事になった。広島デルタを一歩離れた海田や矢賀に伝わっている「祝わんものは鬼産め蛇産め角のはえた子産め」のような歌詞が伝わらず「繁昌せー」だけになったのはこのおふれ書きの影響もあったのかもしれない。

自慢白島年中行事にあったように仮面をつけて、おふれ書きのような不行儀を働いたというと、近年盛んになっている外国由来の行事を思い出す。時期もほとんど同じだ。しかし、広島人なら亥の子じゃろー、と最後に言っておこう。


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2 コメント

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Unknown (yutaka901)
2019-12-24 11:04:09
こんにちは、cachillatさん。

牛田地区のことを取り上げておられましたので、
牛田東に亥の子大明神が祀られています。
頁を編集していますので、ご存じなかったとしたら覗いてみてください。
http://yutaka901.fc2web.com/page5cjx03.html
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Unknown (cachillat)
2019-12-24 11:39:20
@yutaka901 yutaka901さん、コメントありがとうございます。
リンク拝見しました。つき石は新しそうで、今でも現役なのでしょうね。関西方面では亥の子は弁天様との関りが大きいようですが、ここでは亥の子大明神と独立して亥の子を祀っていて、広島では町ごとに祀ったということのようですね。
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