阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

狂歌家の風(38) すみに目を持つ

2020-12-07 13:31:16 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は冬の部より一首、


        碁打冬籠

  かこむ碁をみな打やめて寒き日はすみに目を持冬籠かな



この歌のポイントはタイトルにもした「隅に目を持つ」だろう。囲碁では地(陣地)を囲う時、碁盤の端は石を置かなくて良いから中央に四角い地を作ろうと思ったら四辺全部かかるのに隅だと二辺で良い、したがって隅に地を作るのが効率的で、対局が始まったらまず隅から打ち始めるのが普通の進行だ。「四隅取られて碁を打つな」という格言もある。また「目を持つ」という表現は、最小限度の生きを確保している、こじんまりと生きているという意味になる。もっともこの歌では碁を打ちやめてと言っているのだから、囲碁を離れてもう一つの意味があるはずで、そこが難航して放置していた。やっと見つけたのは意外にも本棚の岩波古語辞典の「隅」の項に、「隅に目を持つ」がのっていた。何十年も前のこと、辞書の用例をあげたら国文学の先生に自分で探せと怒られた記憶があるのだけど、他に見つからないのでここは引用ご容赦願いたい。

《囲碁から出た語》一隅にちゃんと存在している。一定の地盤を確保している。「白黒のすみに目を持つ五徳かな」<俳・沙金袋六> 「酒に及んで、くすみたるをば、隅に目を持つと言ふべきを、[遊里語デ]すまめんと言ひ」<評判・吉原失墜>

とある。しかし、貞国の歌は、ちゃんと存在している、地盤を確保しているというニュアンスでは無いように思われる。むしろ二つの用例にヒントがあるようだ。最初の俳句の「五徳」は炭火に鍋を据えるための台のことで、冬ごもりに必要なアイテムといえる。貞国の歌も部屋の隅で火にあたっている「炭」の意識があるのだろうか。二つ目の用例では「くすみたる」が大きなヒントだろう。部屋の隅っこで陰気に黙ってじっとしている、貞国の歌もそういうニュアンスだとしっくりくるのではないか。用例がこれだけではあるが、一応そう解しておこう。

冬ごもりというと、万葉の昔は、冬こもり今を春辺と、冬こもり春さりくれば、など冬自体が隠れる、そして春にかかる枕詞だった。現代においては、雪国を除いては冬ごもりというと熊などの動物に使うことが多いのではないだろうか。「狂歌桃の流れ」の貞国の歌に出てくる冬ごもりの用例を見ておこう。


        社頭冬籠

  水鳥の名にあふ加茂の宮居とておしの集る冬籠かな


水鳥の名に通じる加茂の宮に鴛が集まって冬籠という趣向だろうか。俳諧では、冬籠の句は多数あるようだ。目についたものを挙げておくと、

  ひとりごとの端聞きとられ冬ごもり  加藤楸邨 
  
  難波津や田螺の蓋も冬ごもり 芭蕉 

  冬籠こもり兼たる日ぞ多き  加舎白雄 

  無駄な日と思ふ日もあり冬籠  虚子

冬ごもりでじっとしている様子は同じでも、さすがに俳句は表現が多彩である。

以下は余談である。隅に目を持つのもう一つの意味がわからず放置していたこの歌であったが、今回記事に書けたのは、いつも日本棋院からプロ棋士の対局の様子を発信して下さっている黒衣子さんの四日前のツイートがきっかけだった。

 「今日はみんな三々に入る日だなあ 寒いからかな? 」

これを見て、貞国の隅に目を持つ歌を思い出した。「三々(さんさん)に入る」とは、上述の如く最初に隅に打ってある相手の石が星の位置(四の四)だった場合に、三の三に打って隅で生きてしまう手のことだ。寒いから三々に入るとは、黒衣子さんに聞いてみないとわからないが、相手に包囲されながらも隅で生きていることから布団にもぐりこむようなイメージだろうか。とにかくこれは、貞国の歌の「寒き日は隅に目を持つ冬籠」に非常に近いイメージであって、もう一度調べてみようという気になって、幸いにも辞書の用例を見つけることができた。ありがたいことだった。狂歌だけを読んでいてはいけないということなんだろう。


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4 コメント

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Unknown (sin_chiseinooca2)
2020-12-07 21:06:26
かこむ碁をみな打やめて寒き日はすみに目を持冬籠かな
この狂歌を自分流に解釈しました。
寒い日は皆碁を打つのを止めたけれども、さすがに碁打ちだけあって、ちゃんと隅に目を確保して冬籠りをしていることよ
と思いましたが、どうなのでしょうか。
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Unknown (cachillat)
2020-12-07 21:47:20
@sin_chiseinooca2 sin_chiseinooca2さま、コメントありがとうございます。
なるほど、そういう解釈もできますか。狂歌として「隅に目を持つ」が囲碁とは別の意味がないと面白くないかなと思ったのですが、あるいは考え過ぎだったかもしれません。それにしても、冬籠りという言葉は奥が深いですね。私はまだその部分の理解が足りないような気もします。
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Unknown (sin_chiseinooca2)
2020-12-08 09:32:26
冬籠り、
気になって手持ちの『江戸俳諧歳時記 下』(平凡社、加藤郁乎著)で調べてみました。
342ページ「冬籠」の項。

『改正月令博物〇(〇は竹冠に全の字ですが、漢字がでてきません)』と『年々随筆』から説明してあります。

後者によって考えますに、万葉集などの和歌と、雅の和歌に対して俗を持ち込んだ俳諧での用い方が違うように書いてあると理解しました。
「俳諧者流」は、「冬のころ、寒さをいとひて宿にのみゐて、外にさし出ぬを」言い、「万葉集にみえたるとは、事の意たがひたれば、歌人はをさ/\よまぬ事なり。」とあり、後鳥羽院の御歌が引いてあります。

こういう機会をくださいまして
とても勉強になりました。
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Unknown (cachillat)
2020-12-08 11:10:55
@sin_chiseinooca2 sin_chiseinooca2さま、冬籠りについての解説ありがとうございます。
狂歌では、俳諧の冬籠りを拝借した感じでしょうか。
こちらこそ、一人でやっていると視野が狭くなりがちなのでコメントありがたいです。これからもよろしくお願いします。
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