栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、今日は春の部から二首、
花
きかゝりもなくて山々うれしとは花見にかきる言葉なるらん
杣はさそひとり心てかこつらん枝をおろした花のまさかり
桜が開花になったところで、花の歌二首、一首目はさしたる技巧などもなく、このまま受け取って良い歌、いやいつものように何か見落としているのかもしれない。「山々うれし」の用例として、落語「文違い」(「落語を歩く 鑑賞三十一話」より)を引いておこう。
「あらいやだ、女の手紙だよ、まァいやだねえ、こんな手紙(もの)を持ってるんだよ・・・締麗な筆跡(て)だねえ、まァ・・・ェェひと筆しめしまいらせ候、先夜はゆるゆるおん目もじいたし、やまやまうれしく存じまいらせ・・・あらいやだ、こんな女と逢ってるんだねエ。だから男ってものは油断ができないよ」
続きは落語を鑑賞していただくとして、二首目に移ろう。杣(そま)は「我が立つ杣」のように本来山林を指す言葉だが、近世以降は木こりなど伐採や製材に従事する人をいう場合が多い。その杣人が出てきて「花のまさかり」とあるのだから、満開の桜の枝を金太郎が持ってるような鉞に見立てているのだろうと想像がつく。「尚古」の「栗本軒貞国の狂歌」には同じ歌を、
杣はさぞ獨心をかこつらん枝をおろした花のま盛
と書いていて、「まさかり」は真っ盛りとわかる。用例を探すとむしろこちらが本流で杣とは無関係に「花まさかり」と満開の花を表現する例が出てくる。それなら貞国の歌の杣人は何を「かこつ」(嘆く)のか。「狂歌玉雲集」には、
山中花 房丸
ふりあけてもをしやと下におく山の杣も見とるゝ花のまさかり
この頃はよし野初瀬に浮れ来る人の盛を花や見るらん
浮れ出で内には山の神もなく明屋計ぞ見吉野の里
七草にかゞめた腰を今日は又月に伸ばする見よしのゝ花
三五夜
七草にかゝめた腰をけふは又月にのはするむさしのゝ原
どちらが先か、ゆく年を書いた時は尚古の方は月と花とピンポケな感じだから武蔵野の月見に改作したのではないかと思った。しかし今考えると吉野の方が盛りだくさんで貞国の好みと言えなくもない。
今回は「花のまさかり」がテーマ、しかし尚古の二首目は花見で浮かれている「人の盛を花や見るらん」と逆の視点になっている。幾万と和歌に詠まれた桜を狂歌にするための苦心の跡だろうか。