buriのフリーランスな日々 

東京武蔵野、赤松や桜、ドングリの木々に囲まれて育ち、原宿で青春をすごした後、中国と深く関わったburiのメモブログ

東西の架け橋

2010年12月28日 | 歴史の中の1ページ
16世紀、日本にキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの名前は
誰でも耳にしたことがあると思います。
ザビエルに比べると、同じイエズス会の宣教師『マテオ・リッチ』は
(社会の授業でちょっとだけ触れられたぐらいで)
忘れてしまっている人が多いかもしれません。

ザビエルの伝道活動は戦国時代の日本に政治的文化的に影響を与え、
キリシタン大名を何名も誕生させました。
ザビエルはその後、日本での伝道活動から、さらなる伝道のビジョンを持ちました。
それが「中国への伝道」です。

残念ながらその願いが叶う前にザビエルは他界してしまいます。

ザビエルの死から約30年、中国への伝道を志して中国へ入った宣教師がありました。
それが、マテオ・リッチです。

マテオ・リッチは1552年10月6日、イタリアに生まれました。
彼は家族の反対を押し切り、若くしてイエズス会に入会、数学や天文学を学びました。
20代半ば、マテオリッチはアジアでの伝道を目指し、イタリアをあとにします。
まずはインドを目指しました。
インドからさらに東を目指しマカオに到着、その後、彼は中国語を学びます。

当時の中国は明の時代で、マカオに滞在した後、
リッチは南京に入ります。
彼は南京で中国語や中国の習慣を学び、
中国の服を着て中国人と同じような生活を送りました。
リッチは上から圧力をかけて服従させる宣教ではなく、
その土地の習慣をよく研究し
キリスト教に中国古来の習俗や人々が信奉する儒教を取り入れ、すりあわせながら
伝道する道を選びました。

一方でリッチはヨーロッパの天文学や数学などを中国の人々に教え、
ヨーロッパから送られて来た珍しいおみやげ品を役人に贈り、
中国人との交流を様々な手段を用いて深めていきました。
また、天文や測量に関する書物、キリスト教の教本、ユークリッド幾何学を訳した
『幾何原本』など数学書の中国語訳にも協力しました。
マテオリッチが中国で作った「坤輿(こんよ)万国全図」という世界地図は
とても有名です。
また、一方で中国の文化をヨーロッパに紹介し、
東西交流の懸け橋としての役割を担いました。

しかし、
リッチの目的はあくまでも中国での正式なキリスト教伝道の許可を得ることでした。
リッチはさまざまな方法で知識層を中心にその支持を増していきます。
中国に来て20年が過ぎた頃、宦官を通じ、
リッチはとうとう念願の皇帝と会うチャンスを得ます。
皇帝と会ったリッチは、中国でのキリスト教伝道についての許しを請い、
許可されました。

中国での正式なキリスト教伝道はこのときから始まったのです。

1601年、イタリアを26歳であとにしたマテオリッチは、
この時49歳になっていました。


その後、リッチは北京に教会を建てて伝道活動に尽力しました。

北京には現在5つのカソリック教会がありますが、そのうちのひとつ、
北京南堂(無原罪の聖マリアに捧げられた教会 )は
北京の教会堂の中で、最も古いものです。
マテオ・リッチが明朝の万暦帝の在位33年目の1605年に、
この場所に小さな教会堂を建設しました。
この建物は北京でのキリスト教宣教の始まりを記すものであり、
人々の間で「天の主の殿堂」(天主堂)として知られるようになったそうです。
(現在の教会堂は1900年ごろに再建されたものです)

余談ですが、
聖ミカエル教会 は1902年に建てられた教会で、
かつての各国の大使館が密集していた租界に位置しています。
多くの外国人たちがこの教会に集い祈りを捧げたとされています。
場所は北京の繁華街王府井から歩いて10分ほどの距離です。
この地域の歴史を調べてみると、義和団事件の時には、この地域にある教会に
たくさんの中国人、外国人(もちろん日本人も)の信徒、住民が立てこもって
抵抗したと言われています。
聖ミカエル教会の可能性が高いのではないか、と思っています。

実は私はこの教会に10年ほど前に立ち寄ったことがあります。
教会堂は中がすべて木でてきており、
高い天井の窓に飾られたステンドグラスのあざやかな輝きに
感動したことをよく覚えています。
歴史ある教会の中に自分が立っている、歴史に触れているという実感に
ちょっぴり震えたようなそんな気持ちが今でも忘れられません。


さて、マテオリッチに戻りましょう。
1610年5月11日、マテオ・リッチは亡くなりました。
イタリアで生まれ、キリスト教の伝道とともに東西文化の交流に力を注いだ国際人
マテオリッチは利瑪竇(り まとう、Lì Mǎdòu)として、
当時の皇帝万暦帝より中国北京の阜成門外の墓を与えられ、葬られました。

アメリカの『ライフ』誌は
西暦1000年から1999年の偉大な人物100人のひとりとして
マテオリッチを選んでいる、とのことです。


今日は長文ですね。
私の趣味のひとつ、歴史的建造物めぐりから思いついて、
調べながら書いてみました。
最後までおつき合いくださり、ありがとうございました。


参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/マテオ・リッチ





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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ヒルティ)
2010-12-28 22:03:24
マテオ・リッチ、とても魅力的ですね。
宣教したい人々の身になって働き、それでいて本来の目的からぶれない人物。
僕もかくありたいと思います。
返信する
ヒルティさん (buriburineko)
2010-12-29 01:00:38
ヒルティさん
お久しぶりです。そして遅ればせながら、かわいいご家族が増えたとのこと、おめでとうございます。
ますます張り合いのある毎日を送っていらっしゃるのでしょうね。
マテオ・リッチはとても魅力のある人ですよね。そして国際人だと思うのです。同じようにシルクロードを通ってインドに行き、教典を持ち帰った『三蔵法師』も宗教は違いますがすばらしい人格者だったということです。
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