buriのフリーランスな日々 

東京武蔵野、赤松や桜、ドングリの木々に囲まれて育ち、原宿で青春をすごした後、中国と深く関わったburiのメモブログ

横須賀ストーリー

2011年04月03日 | 歴史の中の1ページ


次男が引っ越しました。
家の中が静かになった、食事の準備にほとんど時間がかからなくなった、
洗濯物の量が減った、など、次男がいなくなって、改めて感じることが
そこここにあります。

さて、次男が引っ越したのは、神奈川県の横須賀(厳密に言うと最寄り駅は横須賀市
住まいは横浜市)なのですが、、、

横須賀は江戸時代から外国人にゆかりのある土地です。
教科書で勉強したウィリアム・アダムス(=三浦按針、徳川家康に仕えた)
1853年浦賀沖に黒船でやってきたアメリカ合衆国東インド艦隊司令官のマシュー・ペリー提督などは、
誰でもが知っているのではないでしょうか。

幕末になると、外国に対抗するため海軍の重要性が強くなり、横須賀製鉄所の建設が始まります。
ここで小栗上野介忠順(おぐり・こうずけのすけ・ただまさ)らや
御雇い外国人、フランスからやって来たヴェルニーの活躍により、横須賀に製鉄所ができ、
日本の造船技術が飛躍的に上がりました。



さて、次男の住む場所からしばらく行くと、安針塚がありますが、その先には
第4代アメリカ横須賀海軍基地司令官として、戦後の横須賀の発展に尽力をした、ベントン・デッカーさんの
胸像のある横須賀中央公園に着きます。

デッカーさんは明治の人ではありません。

デッカーさんは、戦後間もない1946(昭和21)年から50年までの4年間、アメリカ海軍基地司令官としてこの地に着任。
横須賀を戦後の日本復興の見本にしようとして、教育と医療、福祉の充実に力を入れたそうです。
デッカーさんは経済・産業の発展のため企業を誘致したり、衣笠病院をはじめとした病院の近代化をはかり、
全国のキリスト教関係者に声をかけ、栄光学園や清泉女学院、青山学院大工学部などの創設にかかわったそうです。

これらの精力的な支援は横須賀市民からも高く評価され、
当時の横須賀市議会からは、なんと市長になってくれないか、と要請があったというのですから
驚きです。


栄光学園の2008年の創立記念式典の校長先生のメッセージの中に
下記のようなものがあります。
ttp://www.eiko.ed.jp/00ekh/web/gt/076/076-026.pdf#search='デッカー司令官'

この学園の創立の経緯については中1のときに話しました。敗戦によって社会が疲弊していた時期に、
横須賀の進 駐軍の司令官であったデッカー大佐からの要請を受けて、イエズス会が学校を始めることになった、
ということでした。
デッカー大佐は戦後の日本の社会を作っていくために は教育が重要である、健全な価値観を持ち、自分の力を
自 分のためだけではなく他人のため、社会のために使うこと ができる人を養成することが不可欠であると考えました。
そして1947年4月に栄光が開校し、今日まで61年の歩み をたどってきたわけです。

栄光学園がめざす “Men for Others”の“Others"は、とくに弱い人、貧しい人、周辺に追いやられて
しまっている人です。
そのような人たちが本当に幸せだと感じ、人間 として誇りを持って生きていけるような状況にすることが、
私たちの使命ではないかと思います。


ここにもひとり、日本を愛した外国人を見つけました。

デッカーさんは軍人でしたし、司令官として大きな権力を持っていた人です。
彼は持てる力をよく理解し、それを活かしました。
自分の「横須賀を日本復興のモデルにしたい」という信念に基づき、わずか4年の赴任でしたが、
その間、まさに精力的に働いたのです。




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さて、次男は私にとっては興味津々の場所に住むことになりました。
ちょっとうらやましいな~、と思います。
次男の新居(?)は大学の裏門まで歩いて1分、主な校舎まで3分の好立地です。

ちゃんと勉強してくれるといいな~。
がんばってね。

おととい、追加で醤油1本、米5キロ、(本人が絶対必要と言った)オリーブオイル1本
ラーメン丼ひとつ、などを送りました。
早速、昨日連絡あり。
「ラーメン丼が一番嬉しかった!」、、、、。








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