文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

○沈黙という列車事故

2005年04月27日 23時20分48秒 | 世間批評

ニューヨークの地下鉄なんか、ある日駅に行くと
「NO TRAIN」とくる。唖然とする。
予告はあるのだろうが、ほとんどふいうち。
突然ある路線が運行停止になる。
そのため、10分ぐらい歩いて別の路線を利用しないといけない。
でも、これは、怠惰の結果ではなく努力なんだと今日思った。
たとえば、今回のJRの事故。
駅をオーバーランしてしまったりすると
運転手は、地獄のような刑罰を受けるという。
それがまた、とにかく旧軍隊式の、精神修養のような
矯正教育だったようだ。
心を肉体のように唯物的に苦しめる。
苦しませれば、人は、二度と苦しみを避けるようになるだろうと
いう発想。昔の軍隊で、罰として柱にしがみついて
セミの真似をひたすらやらされる罰に等しい。
屈辱を強いる。
そういう教育体制でしか、ものごとの改善ができなかったことは、
現在の状況だろう。
ニュースを見ていて思ったのだが、このごろのニュース、
肉声には、文字のテロップが流れる。
いまの時代、メールというものが発達して、文字伝達が
音声伝達に比べて、標準化している。
だからこのごろの若い人たちは、音声認識がまるで
幼児か老人のレベルになっている。
人の言うことがまったく聞けない。聞く耳がない。
ということは、同時に、人にものを伝える音声を持たない。
その結果だろうか、教育が人声ではなく、文書に頼る。
反省文、反省文、そして反省文、それから反省文となる。
言葉は、文になると形になる。形しか信用できない
そうした世の中になったのだろう。
今回の運転手の、抑圧は、この数値的な規制にあったと思う。
心からでてくる人声による伝達や対話がなく
まるでロボットのように測られる、能力。
だから、狂ったように、数値にこだわった。
人間の評価や評定がデジタルに記録され
人間の欠点が、その数値から、消去され、殺される。
言い訳ができない世の中になったのだろうね。
とにかく今回の事故、犠牲者や運転手の
あらゆる声が聞こえない。
沈黙の事故だったんだなあと思う。
人は、もっと言い争わなければならない。

そのために、「NO TRAIN」であってもかまわない。



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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
同感です!! (北国の子羊)
2005-05-18 22:23:56
はじめまして。

北海道の富良野に近い所に住んでいます。

北海道も、ようやく春が訪れ、桜花満開、百花繚乱の季節となります。

お邪魔と思いましたが、ここに迷い込んで、ちょっと立ち寄らせていただきました。

私は、もう60代半ばになりました。



「沈黙という列車事故 」を読んで、その通りだと思った次第です。利益優先、人命軽視もはなはだしいですね。



病妻をかかえて、看病と家事をしながら、昨年の11月頃から「ブログ」に挑戦してみました。

「生きるとは何か」「人間のいのちの価値」「人生の幸せや死問題」などについて、考えるブログです。

どうか、時間のあるとき、ご訪問ください。

http://blog.goo.ne.jp/goo1639/



 
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