文屋

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★「会田誠 無気力大陸」を見て、敗れたフリークの敗残力を賞味した。

2005年10月29日 12時12分37秒 | 世間批評


きょうは、土曜日なのでゆっくり出勤。などと思っていたのに
いつもの時間に目が覚めてしまって、さてどうしようかと
テレビを見ていたら、偶然
スカパーで「会田誠  無気力大陸」をやっていた。
日本映画専門チャンネルなんだけど、よくぞこんな番組を
やるもんだと思った。
会田誠って、以前に美術手帖の特集見てから、破れ(敗れ)具合が
ずっと気になっていた人。
しかしてその実態は、なんだか、「ぶってる」「先鋭」かと想像していたけれど
このドキュメンタリーに映っている彼は、
努めて、後衛であった。

もちろん、前衛を突き抜けた後衛なんだけど、
愛おしい感じがした。

美術にも「喩」があるんだろうけど、それを
言いかえて「コンセプチュアル」などと呼ぶ。
それでも「譬え」は「譬え」であって、
物の実体ではない。

そこに、これっぽっちのイデオロギーも介在させない
実体でなければ、次のフェーズは用意されない。

現代詩でも同じことが言えると思う。

会田は、語っていた。

「現代美術は滅んでいる」
「エンターテイメントにもなれなく」
「主張もない」

これは、たったいま見た映画からの引用で正確ではない。

で、でも、やるしかない。と言ったような、行為しているような
そんな感じ。

そこを突き抜ける
つまりは、「喩的世界」の底を、するっとスルーする表現が
いまこそ、面白いわけで、

会田の作品の中に見えてくるのも
この「スルー」だった。

穴。

内部から外部へ、破れていく(敗れて)ときの
既視、あるいは、擬死感でしょう。

内臓、爆撃、破裂、排泄を

喩的世界と同温で見せる。

神社の境内にあった、見せ物小屋みたいな。


現代という喩的世界の生ぬるい温度、
神社の敷地に入ったときからその空気を観客は吸っていて
そこで、小屋に入っても、同じような(ズレがあっても)
空気のまま、だしものを見る。

「そらっ、内も外も同じでっしゃろ」

と認識を突きつける。


会田は、パリのカルチェ現代美術館に展示するために
ホームレスの住居という「喩」を下敷きにした
段ボール製の天守閣をつくる。

彼の意図は、

「そらっ、内も外も同じでっしゃろ」

だったと思う。

でも、そこに(天守閣)パリに住む、スノッブなやつらが入っても
ただの、内部にすぎない。失敗している。

表現者が、外部といういわゆる社会性と
地続きであるという発想がすでにして無効なのだろう。

有効なのは、表現者の内なる外部性。

それこそが、次のフェーズ。

敗れた、フリーキーこそが
喩を笑うのである。

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