文屋

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■井筒俊彦からポール・ヴァレリーへ。迂回迂回、迂回。

2008年07月04日 23時34分57秒 | 文学全部

詩集を編もうと、これまでの未刊行の作品を整理して読み込んでいる。
未刊行の作品は、100編ぐらいあるだろうか。
パソコンにフォルダーを作ったら
概ね、4テーマほどにわけられる。
でも詩集に成るとすれば2テーマ。
その2テーマで、悶々とする。
敲けば敲くほど、テーマの密度が
自分自身の中で、錘りとしてなかなか成り立たない。

井筒俊彦の「意識の形而上学」を読む。
副題が「大乗起信論の哲学」。
無心になって読める。
物の存在について、そもそもの非在について
さらには、一者の諦観に基づいた
暫定、あるいは、架設としての存在について。

詩は、あるのか、そもそもないのか。
仮構か、それとも諦観の果ての刹那に
一者の夢幻として、あってもいいのか。

いろいろ考える。

それで、続いて、井筒俊彦の「意識と本質」へ。
いよいよ、これは、詩論であるぞ。
マラルメと芭蕉にふれたところで
文の濃度に、たちくらむ。

作品ってなんなんだと。

それで、芭蕉を透過して、子規の煩悶も思う。
子規の写生論。

突如として、マラルメの詩集を探すが見つからず、
ネットで入手。
マラルメの年譜を精読して、感動する。
マラルメとメリー・ローラン、そしてジュヌヴィエーヴとの関係と
愛のようなもの。

さらには、この岩波文庫の巻末にあった
ヴァレリーの
「私は時をりマラルメに語った」という小文におののく。
軽快に、本質を亘っている。
粋だ。
詩作品は、詩人の存在と関わりはない。
詩は、結節ではあるし、詩人も結節をして生きてはいるが
詩人と詩作品は、明瞭に結節したりはしない。

そのあいだ、
ふと、太宰治の「桜桃」と「満願」を読む。
ほらっ、結節しないよなあ。
作品世界では、結節はしているが、
作者は、諦観で結節して煮凝っている。

リルケの詩集を読む。
これから編む自分の詩集の「位置」を探る。
リルケって、ロダンの秘書だったんだ。
一者幻想の浪漫。
リルケって、恋しすぎ。

それで、いまは、平凡社の「ヴァレリー・セレクション」。
「人と貝殻」の知性と粋に驚き、酔う。
そして、「コローをめぐって」の自然観と
詩作品についての、潔い詩文に感嘆。


詩作品は、物体であり、存在に付随はするが別種の
非交差物なんだなあと、思う。
乱暴だが、マテリアリズムに基づいた文学論も気にかかる。
子規の写生論も、実は、マルキシズムへの接近(無意識の)だったのかなあ、
なんて。

「マルチチュード」というような、流行りの思念をちらちらと読むが
そうしたことは、いっさいふれていない。


方法論なのだろうけども、著者は、「哲学」だと言っている。
哲学ならば、マルクスやヴァレリーを読んだほうがいいだろうな。




音楽は、

フランスの現代音楽
デュティーユにめろめろ状態。

諦観のなかに、音楽の即物、
つまりは、成仏の過程を描いている(よなあデュティーユは)



ジャズもロックも復習したけど。なさけないほど、かすかす。

カウボーイ・ジャンキーズとトリッキー
ヴィレッジバンガードのコルトレーン、それから
キューバのカチャーオの音楽は、またまだいけていた。

でも。
デュティーユだな。いまは。
ヴァレリーとデュティーユ。

アイヴスのピアノソナタも無常でよかった。

ではまた。

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1 コメント

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デュティーユ (國重游)
2008-07-09 21:33:50
ご無沙汰してます。
萩原さんがデュティーユにメロメロなんて、ちょっと驚きです。最近はディスクも増えてきましたが、去年小沢征爾が初演したオーケストラ伴奏の歌曲もよかったです(未録音)。彼の弟子のエリック・タンギーなども、おすすめです。チェロ協奏曲など、オーケストラの響きを独奏チェロがたゆたう光彩が鮮やかです。今年はメシアンの生誕百年ですが、20世紀フランス音楽の豊かさに目を奪われます。
井筒さんの本、読んでみます。
季節がら、おからだご自愛ください。詩集の完成楽しみにしています。
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