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●夏の詩人10「余生と観照」

2012年07月19日 23時12分24秒 | 文学全部
夏の詩人10

余生と観照


小津安二郎の遺作となった、『「秋刀魚の味』は、軍艦マーチを聴く映画なのかもしれない。定年を間近にした主人公は、戦中、駆逐艦の艦長をしていた。そのこと自体は、劇の流れの大筋に強くかかわることではない。物語は単純だ。妻に先だたれた主人公の一人娘が嫁いでいくまでの話が描かれている。その意味では、見る者だれしもに共感を呼ぶ、平易な家庭劇の体裁をとっている。しかし、劇中の挿入曲としてあの「軍艦マーチ」が、前半で2回、後半で1回、そして悲嘆が盛り上がる最後半には、主人公役の笠智衆が直接、口ずさみまた、そこに弦楽合奏によってこの曲がかぶせられる。つまり大きな劇性のないこの一編の作品の中で、計5回も挿入される。もちろん、小津の企ては、けっして劇性の流れを阻むような感じではない。どちらかというと、自然な筋運びのうちにさりげなく挿まれる。ただ、軍艦マーチといえば、私たちの記憶ではパチンコ店のBGMとして、まさに手垢にまみれた俗流の象徴のような音楽なのである。異様といえば、異様である。
 
商人らは映画を見ない 夕方彼らは
たべ物と適量の酒と冷たいものをもとめる
事務所で一日の勤めををへたわかい女が
まだ暮れるには間のある街路をあゆむ
青葉した並木や焼跡ののびた雑草の緑に
少しづつ疲れを回復しながら
そしてちらとわが家の夜(よる)の茶の間を思ひ浮べる
そこに帰つてゆく前にゆつくり考へてみねばならぬ事が
あるやうな気がする
それが何なのか自分にもわからぬが
どこかに坐つてよく考へねばならぬ気がする
大都会でひとは何処でしづかに坐つたらいゝのか
ひとり考へるための椅子はどこにあるのか

<中略>

もう何も考へることはなくなつてゐる
また別になんにも考へもしなかつたのだ
街には燈がついてゐて
彼女はただぼんやりと気だるく満足した心持で
ジープのつづれざまに走りすぎるのをしばらく待つてから
車道を横ぎる

          (『反響』より「都会の慰め」部分引用)

 伊東の詩は、戦後まもない昭和22年、小津の「秋刀魚の味」は、昭和37年に上映されている。詩と映画、もちろん媒介となる表現方法はまったく違う。しかし、私にはそれが“戦後的”という意味でとても強く通じ合っているように感じる。
 戦中に、小津安二郎は従軍カメラマンとして戦地におもむいている。戦地から帰国した昭和14年の便りに、こう記されている。

 弾にあたる。戦死をする。着のみ着のまゝ埃と汗と垢で湯灌もせずに火葬になる。白木の箱に納まって東京に帰ったら、先づ水道の蛇口の下に骨箱を置いて頭からどうどう、
 暫く水をかけて貰い度い。足先を凝視めて歩きながらそう思った。
                (『小津安二郎を読む』フィルムアート社刊の年譜より)

 それから十数年を経過して、映画で「軍艦マーチ」薄皮のようにはかなく鳴る。その音は、あっけらかんと浅薄に時代の表層に浮き上がる。人に言えないほどの悲惨な体験もし、無数の惨たらしい景物に接してきただろう。しかし、映画の中では、ただ空しさの象徴として“戦争”という陰画が挿入される。

                   ●

 一方、伊東静雄は、「都会の慰め」を書いていた戦後間もない頃の書簡に次のように記している。

 丁度一年目の八月二十日ごろでありました。その日は颱風の余波が、河内平野を過ぎよ
 うとして、しきりに雷鳴のある日でありました。それから二三日目に未知の青年(三高の
学生)が来訪し、その人が話のついでに、蓮田さんに対する敬愛の表情を述べましたので、
その最後のことををしへましたら、急にその青年は、顔面蒼白になり、貧血をおこした
模様で、失礼しますと云つて私の前に仰向けにねころびました。私は驚くと同時に、こ
の青年の肉体にまでしみこんでゐた蓮田さんの影響を思ひ、痛切の情にうたれました。私は『ひとりの友を失つて、他の多くの友をも遠ざかつてゐたい気持』とそのころの心境をノートに書きとめておきました。ほんたうに壮年時代が過ぎたといふ感がいたします。『余生』といふことも考へます。私はただこれからは『観る』生活をつづけようと思ひます。
              (昭和二十一年十一月十四日清水文雄宛・傍線筆者)
蓮田とは、蓮田善明のことである。終戦を迎えた南方の戦地、シンガポールのジョホールバルで上官を射殺し、自決している。それは、ある種自らの主義への殉教であり殉死であった。上官は、敗戦に際し愛国の志を非難した。そうしたあからさまな背信に我慢ができなかったのだろう。そうした報せを聞いて伊東はどう思ったのか。戦前から自ら最も信頼する文芸の同志であり心の友であったその人が主義に殉じて、凄絶な死を遂げた。ある季節が終わった。そのことを先に引用した書面の言葉が如実に示している。「壮年時代が過ぎ」、「余生」と「観る生活」がはじまった。
 「都会の慰め」は、まさに『観る』記述に従っている。この方法は、伊東が終生拘泥したエーリッヒ・ケストナーの新即物主義の書法であるともいえる。
 戦前から戦中にかけて、伊東は文語を用いた擬古的な書法と平易な口語で即物的な書法を混在して詩集にまとめていた。このアンビバレンツは、伊東詩の理解を妨げていた。そして戦後には、この擬古的で大時代的な浪漫の色濃い書法を捨てている。しかし、このアンビバレンツの傾向にしても、二つの書法というフィルターをはずし、書かれている内容を微細に読解していけば、そこに大時代の状況や国家や愛国の志を意識したような作品は意外と少ないということがわかる。少なくとも、伊東の詩は非日常を描くというよりも、むしろなにげない日常の些事を題材に書かれていることが多い。ただ、戦後は、その浪漫的な偽装としての書法を排したのである。これが、「余生」である「観る」書法への転換ともいえる。それは、ひとことでいうならば、諦観の書法だ。
 詩編の作中の人物に語らせた言葉、「もう何も考へることはなくなつてゐる/また別になんにも考へもしなかつたのだ」という嘆息は、そのまま伊東の諦観を語っている。

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 小津安二郎もまた、戦後のいくつかの作品を通じて映画における物語や観念といった大時代的な浪漫を映像の背後に隠した。あるいは退けたともいえる。たとえば、そこに家族というようなモチーフがあり濃厚な愛僧劇をきわだたせて映画の感興を増すことも考えられる。それはもちろん小津にはわかっている。悲哀があるのであれば、主人公はその悲哀を台詞を介して語ればいい。しかし、映像は、あくまで冷徹でときに希薄なふりをする。なにも浪漫は語られない。ただ、日常の些事のなにげない会話とそこにある事物(記号)だけが映し出される。
 「秋刀魚の味」においても、それが顕著だ。バーや居酒屋の看板、器、電話機、鉄道の駅やホーム、家屋の調度や、植栽など執拗とも思えるほどに事物が前面に顕れる。主人公の嘆息や台詞は、この事物に紛れるほど薄く配置される。そしてまさに「余生」の音としての「軍艦マーチ」も紛れている。

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