ぶらっとJAPAN

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サントリー山崎蒸留所~大阪・山崎~ その2

2016-02-04 21:39:52 | 大阪

整然と並ぶ樽たち。中には1970年代のものも。

蒸留室を出て貯蔵庫へ移動すると途端に室温が下がります。先ほどまでの湿り気や、地響きのような音もありません。暗く静かな場所で、原酒たちが深い眠りについています。

左が12年熟成、右が4年熟成。色も分量も違います。

大麦たちが形を変えて磨かれていく過程は入れ物越しに想像するしかできませんが、それでも、かすかに漂う木の香をかぎながら、暗闇に浮かぶ樽の中に眠る原酒たちに思いをはせるだけで、一種の感動があります。

室内の案内板に、熟成は英語で 「aging」と書かれていました。原酒たちはそれぞれの人生を今まさに「生きて」いるんですね。

また、熟成の期間が半端なく長いのです。20年、30年と熟成させるわけですから、ブレンダーたちにしてみたら、当然自分が仕込んだ原酒たちがウイスキーになる前に現場を離れることもままあります。だから、先代のブレンダーたちから受け継ぎ、また次へ伝えていく。世代を超えたつながりをもって仕事をしているのだという話をガイドの方がされてましたが、そんなスパンで仕事ができるのはうらやましい話です。

創業当時の1924年の仕込みに使われた樽。間に戦争があったことを考えるとよくぞ残したと思います。

暗がりでとったのでボケていますが、「KTB」と押されているのがわかりますでしょうか。これは「寿屋」(サントリーの前名称)の樽を示す印です。懐かしいとおっしゃる方もいるでしょうか。

ところで、今は何百とある樽ですが、サントリーの長い歴史のなかで、昭和6年だけは仕込みを行わなかったそうです。資金難で原酒を作ることができず、そのため酒庫には1931年という年号を記した樽だけがないんだとか。「それが最大のピンチであったといわれる」(『やってみなはれみとくんなはれ』)そうですが、それ以外にも幾多の困難を乗り越えて現在のサントリーがあります。

倉庫の外では、きれいな池がお出迎え。

鳥居もあります。

さて、いっぱしのウイスキー通になった気分で倉庫を出た後はお待ちかねのテイスティングタイム。80分という長いツアーの20分がこちらに充てられています。

左手がシングルモルトウイスキー「山崎」、真ん中がホワイトオーク樽の原酒、右がワイン樽の原酒。

蒸留の仕方や樽の素材、それから樽の前歴(前に何を入れていたか)で味が決まります。

 

ガイドの説明に従って、原酒をテイスティング。香りをかぎ、口に含み、味わいます。ホワイトオークとワイン樽では色も香りも全然違います。美味しいですが、味がとんがっているところもあります。そうした原酒をブレンドして出来上がった「山崎」をいただくと、ああ、凄い。味わいが一気に洗練されます。

初代の鳥井信治郎は『大阪の鼻』という舞台が作られたほど優秀なマスターブレンダーだったそうですが、ブレンドによってその骨格が決定されるというのが飲み比べてとてもよくわかりました。知識も経験もなかった信治郎が、自分の鼻だけを便りに世界で認められるウイスキーを作り上げたんですから、その心意気に脱帽です。

これはハマっちゃいます。私はほとんどお酒がのめませんが、美味しいので、それでものみたいなと思います。

3つを飲み比べたあとは、最後に「山崎」を好きな飲み方で試すというおまけつき。ソーダ水があったのでハイボールにトライ。

弱いもんで極薄にしてしまいました。ほとんど水^^; 

ウイスキーは香りがいいのが嬉しいですね。それぞれの原酒にあわせてレーズンやナッツなどが添えられていましたが、こちらの相性も抜群。「山崎」はビターチョコレートと一緒にいただくのが美味でした。

高度経済成長期、通の男の人たちには「巨人、大鵬、卵焼き」に対抗して「大洋、柏戸、水割り」が人気だったといいますが、食うや食わずの敗戦直後から、がむしゃらに働いて余裕ができ、仕事帰りのバーで水割りを一杯なんていうのはなるほど至福のひと時だったのだろうと想像します。

昭和のおじさまたちへ思いをはせながら、目も舌も大満足の80分でした

コメント (2)
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