ぶらっとJAPAN

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東山魁夷をめぐる旅 6 ~ 京都 智積院 障壁画 ~

2015-06-27 20:22:59 | 東山魁夷

大書院に飾られている『楓図』のレプリカ

 

 魁夷画伯の作品に登場するのは、昨日ご紹介した「利休好みの庭」ではありません。そもそも絵画ですらなく、『風景との対話』というエッセイ集に書かれた幼少の思い出です。

 「私は画家になろうと志した時、日本画家になろうとは考えてもみなかった。・・・京都や奈良が近かったから、智積院の障壁画の当時は山楽筆と云われていた桜と楓の図に見とれたり、三月堂の月光菩薩の前に長い間、立ちつくしていたりしたこともあった」(新潮選書『風景との対話』)

 横浜で船具商を営む父のもとに生まれ、3歳で父の仕事の都合で神戸市西出町に転居した魁夷画伯は、少年時代を神戸で過ごしました。港や船、また神戸という土地柄から、旧制中学の上級になって画家を志した頃の新吉少年は、むしろ西洋音楽や西洋美術に傾倒し、持っていた画材も油絵具でした。

 そんな新吉少年が、智積院の障壁画に見とれていたのは不思議な気がしますが、逆に言えば、そうした表層の環境にとらわれることなく、新吉少年の目は、後年自分が追い求めることになる日本の美にまっすぐ向けられていたということでしょうか。桃山時代を代表するこれらの障壁画は、原始の力強い生命力にあふれています。

 当時は、狩野山楽の絵と考えられていたんですね。その後、等伯筆という説が定着するのに、どういった経緯があったか調べきれませんでしたが、いずれにしろ、等伯の切実なる野心も、息子久蔵の悲劇も全く関係ないものとして、純粋にその美しさに惚れ込んだというのが興味深いです。

 宝物館を訪れるたび、制服姿の新吉少年がうっとりと眺めている姿を想像します。1908年のお生まれですから、1910年代後半くらいでしょうか。昔とはいえ、10代の少年が、女の子やチャンバラなどには目もくれず、仏像や古い絵画にのめりこむのは、ちょっと異色な気がします。そんな新吉少年が素直に周りと馴染んでいたとは考えづらく、生きづらかったのでは、と思わずにはいられません。

 その後、戦争があり、高度経済成長があって昭和が終わり、時は流れて画伯は彼岸へと旅立ちました。けれど、障壁画は今でも美しいまま、私の前にあります。新吉少年が見たのと同じ景色です。

 画伯の原風景に出会える、貴重な場所です。

 

 

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