地元紙の房日新聞に源頼朝の話が載っています。
治承4年8月29日、石橋山の合戦に敗れた源頼朝が今の鋸南町流島に上陸。
上陸後、鴨川の貝渚から太海の仁衛門島に隠れ、その間に三浦氏が長狭六郎を一戦場で打ち破った。とあります。
そもそも、その時代に房総半島の南部は、平群郡、長狭郡、朝夷郡、安房郡となっています。
「竜島」は、長狭郡もしくは平群郡のはずで、安房郡ではありません。
今、安房郡鋸南町竜島となっているのは、たまたま明治30年群制施行時に郡の代表として「安房」を使っただけです。
現在竜島に「安房温泉」というのが存在しますが、安房の国でもないのに紛らしいですね。
長狭郡は文字通り「長狭六郎」の縄張りです。
その長狭郡を通って貝渚に向かえば、長狭六郎に知られないはずはありません。
山道を通っても、地元の百姓たちが敗残兵を見つければ「長狭六郎」に知らせるはずです。
百姓にとって頼朝がだれでも関係ありません、ご褒美の方が良いですよね。
戦に敗れて逃げてきた少数の兵が、地元の豪族に勝てる力があるはずもないでしょう。
最初から貝渚に行くはずもなく、一戦場の戦いは安房の国で勢力を増やした後のはずですね。
一番不思議なのは「三浦氏」が長狭六郎を打ち破った?頼朝についてきた者は数名のはずではないでしょうか?
石橋山の合戦で敗れて、真鶴から船を出したときは1隻で数名の方が目立たないから逃げられるとしたはずです。
また、海岸から見ると沖の船は人より大きくよく見えるので、海岸から離れた視界ギリギリの10キロ以上沖を通ったはずです。
相模湾は、お天気さえよければ、低い三浦半島は見えなくとも伊豆半島と伊豆大島の位置を見ながら安房へ向かえるのです。
漁師なら富士山と大島の位置関係は知っているはず、城ケ島の沖からわざわざ東京湾に入って竜島にゆくはずはありません。
なぜならすぐ目の前に安房の大山が見えるのです。
一日中舟を漕いで疲れた船頭が、竜島に行くか目の前の洲崎に行くか?
大山をめざし、洲崎の岬先端部の荒波を避けて内湾側に船をつけると洲崎の頼朝上陸地点になります。
こちらの方が「上陸地」としては普通に考えられますね。
小説を書くなら、真鶴から舟を漕いでみればよかったかもしれません。
現実からかけ離れた小説は、興味をそがれます。