大坂の陣を控えた徳川幕府は、江戸湾入り口で力を持っていた外様大名の里見氏が脅威だった。
里見家十代忠義は1614年、義父大久保忠隣に連座させられ、伯耆の国、倉吉に改易されたが、1622年没した。
この時、家臣8名が後を追い殉死。
この殉死者の骨を、秘かに分骨して蛸壺に入れ持ち帰り、城山南麓に祀ったのが「八遺臣の墓」です。
その後、主君に忠義をつくした話が「里見八犬伝」のもとになったそうです。
大坂の陣を控えた徳川幕府は、江戸湾入り口で力を持っていた外様大名の里見氏が脅威だった。
里見家十代忠義は1614年、義父大久保忠隣に連座させられ、伯耆の国、倉吉に改易されたが、1622年没した。
この時、家臣8名が後を追い殉死。
この殉死者の骨を、秘かに分骨して蛸壺に入れ持ち帰り、城山南麓に祀ったのが「八遺臣の墓」です。
その後、主君に忠義をつくした話が「里見八犬伝」のもとになったそうです。