◎考える力の差は前袖より。
どこから生まれるのか?
男女や年齢の別を問わず、どんな仕事でも勉強でも試験でも、スポーツでも将棋でも碁でも、自分の持っている力をどこまで引き出すことができるかが、勝負どころなのである。
とかく人は力の有無を云々したがるけれど、力の差とは、力そのものの差であるよりは、自分自身で持っている力の引き出し方の差なのである――――――――――轡田隆史
『朝日新聞論説委員』・・・ああ、「朝日新聞」に特別含むところは無い。どこも大して変わらないっしょ。
新聞自体暇つぶしにしか読まないし。「どうせ大きな事件が起きたらあっさり引っ込められる程度の情報しか載ってないから要らない」という考え方に絶賛賛同中かつ、「殺人事件があって被害者はー容疑者はー」って情報が、今自分に必要なものなのかという疑問もある。知らない人の表面的なことだけ知っても同情以外何ができるでもなく、数か月~数年後に犯人が捕まった(捕まらない)ことがまたニュースになった時も「ふーんそーなんだー」「警察は仕事遅いな(してねぇな)」程度の感想しか出てこない。つまり情報として仕入れる意味が無い。
話が逸れた・・・気にすべき点は、著者が「新聞」のどこに関わっていた人なのか。
はじめに――「考える力」の差はどこから生まれるのか?ああ、あーゆーの書いてた人か。
丸八年は、朝日新聞夕刊一面の、乱暴にもほんの二百字ほどで森羅万象を批評しようとする、おそらくは世界でもあまり類のない極小のコラムを、ほとんど毎朝ただ一人で書き記してきた。
毎日僅かなスペースにちょっとうまいこと書いてドヤ顔してるイメージ。(偏見)
しかし短い文章でなるほどと思わせるのは至難の業。頭がイイに違いない。(先入観)
2章 新聞から何をどう読みとっていくか論説委員は関心を持った記事を切るのが『重要な仕事』。その流れから本の話に。
「自分の頭で考える」ための情報収集術
ハサミいらず、ナイフいらずの「切り抜き」法
わたしは、ためらわずにページの角を折る。本を丁寧に扱うこころはもちろん大切だが、より重要なのは、その内容をいかにわがものにするかである。あとで付箋をはって折り目を正せば、元に戻るものだ。ねんがんの 情報収集のプロのお墨付きをてにいれたぞ!
「折れ折れ読書」と名付けよう。
わかりやすく「要約された記事」だからこそ落とし穴もあるこれが怖くて最近引用が長め。でも引用は必要最小限度にすることも求められる・・・難しい。
ニュースの本質は、一見「枝葉」のようにしか見えない「細部」にこそ宿っていることも多いのだ。しかし、より多くの記事、つまり情報をつめ込んで「完成品」を目指す過程で、このように「本質」を示す細部を削ってしまうようなことが時に起こることも知っておいてほしい。
3章 「量の読書」と「質の読書」ですよねー。
役に立つ探し方、読み方、楽しみ方
限られた時間に、できるだけ多くの本を読むたった一つの方法
本を速く読むには、本をたくさん読んで、読むのに慣れるのが第一だ。活字を読み慣れることこそ速読術の基本。
結局、数多く読むのが速読への道、というのがわたしの経験で得た結論である。ただし、と慌てて付け加えるのだが、それは、毎日たくさんのページを読まなければならないということのみを意味するのではない。毎日、二、三ページでもいいから、活字を読む習慣を身につける。それでも役に立つ。本ではなく、新聞を毎日必ず読むのでもいい。新聞から読書の話に移りつつも、さりげなく新聞を推しよったで・・・!
子供に読書をさせたいなら、まずは漫画のノベライズから入るといいんじゃないかと思う。「ワンピース」とか「ナルト」とか。・・・いや、むしろ「コナン」「金田一」「デスノート」を読ませた方が早いかもしれない。単純に文字が多いから。
ツマラナイ文章を叩きこむから、読書離れなんて現象が起こるんだよねー。
7章 「考えるきっかけ」をどうつかむか『ちょっと』ができないのだよねぇ?
「世界」を見る目、「自分」を見る目
「歴史のちょっとした知識」が生きてくるとき
歴史の、ちょっとした知識。「異質性」を確認するための、重要な一歩がそこにある。歴史とはそういうものであり、だれも歴史から逃れることはできない。である以上、歴史に積極的に立ち向かうことこそ、知的な態度といえるだろう。
なあに、それほど難しいことではない。歴史の本をちょっと読むだけのことだ。それだけのことで、海外旅行の楽しさにぐんと深みが増すのに、人はあまりそれをしない。
「できる(た)人」は、「できない人」の心情を理解できない。これこそ「なぜ?」を考えるべきことだよなぁ。
ついでに・・・この件の根本的な原因は「学校で教える歴史」がツマラナイからに違いない。年号とか人名とか、どうでもいいことべー言いよる。「歴史の時間=ツマラナイ時間」としてインプットされた後、わざわざ歴史を知ろうとするはずがない。もうテストは無いんだから。
つまり、歴史に学ぶという姿勢を教えるべき時間に、記号を覚える作業をやらせる教師が悪い。・・・あれ、俺こんなに教師のこと嫌いだったっけ?
「同質性」を知って得るものはただの「安心」だが、「異質性」を知って得るものは「知」の楽しみである。皆に合わせる風潮はつまり、日常の中で安心を得られていないってことかしら。
「安」は屋根の下に女。家はある、つまり「女」がいなくなった・・・うーん?
一方「知」は矢口。知ることは矢口ること。つまり不倫は文化だったんだよ!
9章 ワープロ・パソコンでできること、できないこと1996年にあった人間とスパコンのチェス対決(人間側の勝ち越し)を例に、まだ機械は『この程度』と評してるけど・・・チェスはもうスパコンの方が強いんじゃないっけ?
機械と人間とのつき合い方を考える
コンピューターのメリット、人間の頭脳のすごさ
機械に対して意地悪ばかりいってきたようだが、能率と便利の陰には必ず落とし穴があるといいたいのである。わたしもこれからワープロ、パソコンを道具として使いつづけてゆくだろうが、パソコンの画面で読書をしたいとは思わない。買い物は、店をひやかしながら、自分の目で確かめながら楽しみたい。
参考サイト:スパコンがチェス王者に勝てた意外な理由とは?―NAVERまとめ
世界が注目するその戦いが行われたのは1997年5月この本の4ヶ月後かよ!
対戦したのは 当時のチェス世界王者 「ガルリ・カスパロフ氏」と IBMが開発したチェス専用のスーパーコンピュータ 「ディープ・ブルー」
前年(1996年2月)に行われた1度目の対戦では カスパロフ氏が3勝1敗2引き分けで勝利していた
しかし この2度目の対戦では 1勝2敗3引き分けで カスパロフ氏が敗れたのである
・・・と思ったら、スパコン(ディープブルー)側の勝因となった一手は
キャンベル氏によると あの時ディープブルーは 次の一手を選択できず 「単にランダムに手を打った」のだという機械の精密さと正反対。言ってしまえばただの苦し紛れ。それを深読みしすぎたカスパロフ氏が自滅しただけの話だったらしい。
チェス界史上最強ともいわれるマグヌス・カールセン氏がスパコンに頼らないという話も出てきた(参考サイト:チェス王者の勝利はスパコンに対する人間の勝利 JBpress(日本ビジネスプレス)し、これは認識を変える必要があるな。
話を戻そう。機械化が進んでも全ては『人間あってのことである』というのが著者の主張。通販とかネットのみの情報収集とかは否定的。『もちろん各人の趣味の問題』とも言ってるけど。
確かに必ずしも機械化がいいとは言えないことはやっぱりあるよナ。
10章 「情報」を生かすための考え方午後の紅茶(ミルクティー)吹き出しただろうが!
情報の選択とは人生の選択でもある
<ビジネスマンのための十か条>
⑩現状の認識についてはやや悲観的に。しかし、未来と将来の展望については楽観的に。
何ごとも、がっかりし過ぎたらそれでおしまいなのである。オレほど悲観的な人間はいない。そう思い込んでいる人は、そう思い込んでいられる点においてすでに楽観的なのである。
実際、現状認識から起こり得る事態は最悪のものまで想定した上で、『何とかなるさ』と思ってることは否定しない。「どうにもならない」と思い込んだ奴が自殺する。何とかなるさ(俺は)。
11章 議論の方法――「論理的な考え方、話し方」とは?もう少し早く読みたかったよ・・・。
理性と論理、そして直感について
「正しい論理」と、もう一つの「正しい論理」がぶつかるとき
会社の会議などで発言すると、上司から、「キミイ、もっと論理的にしゃべってくれんかね」などといわれるときがあるだろう。もちろん、論の立て方が支離滅裂の場合もあるけれど、実は、キミの意見は気に食わん、反対である、という考えの遠回しの表現であることが多いのは知っておいたほうがいい。キミが「その方向」で語りつづける限り、その話し方がどんなに「論理的」であっても、反対の上司には「論理的」に響かない。「論理的」という言い方は、要注意なのである。
最近ようやく気付いて、結果貝ることにしたけどさ。目指す方向が違い、向こうに変える気は全く無く、俺も変わる気は全く無い。沈黙・・・それが正しい答えなんだ!
まだ実力が無いから仕方ない。速さを重視するなら会社都合退職が最良のシナリオと思えてしまうのがなんだかな・・・もっとも、そうなったとしても「どこも同じ」が真なら、もう琥太郎先生の生き方に倣うしかない。
「やっぱ俺向いてないかも」「働くことがさ!」
「論理的」なるもののイカガワシサをわたしはかなり「論理的」に論じてきたつもりだけれど、そのうえでなおやはりこういわなければならない。論理的に考え、語るように努めようでないかと。しかし待てよ、「論理的」ではなく「筋道」という便利な言葉があるぞ。いわく、筋道を立てて考え、筋道を立てて語れ、と。なんだか、このほうが落ち着きがありそう。大げさな言葉遣いはなるべく避けよう、という「書き方」の原則はここでも真理なのである。hmhm。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、学校の散歩道を歩きながら講義した。だから、その一門を逍遥学派とも呼ぶ。もっとくだけていうなら散歩学派、あるいは筋道学派はどうだ。「論理」などと大きく構えないと満足できない人もあろうが、逍遥やら筋道のほうが、柔らかくいろいろ考えられて、柔らかな結論が出そうな気がする。「論理」という固い言葉は捨てて「逍遥」「筋道」といった柔らかい言葉を使うべきなのである、なんて書いてあったら盛大に笑うところだったのに・・・文体は柔らかでありながら隙は全く無い。こういうのが書きたい。
14章 遊び上手は仕事上手遊ぶだけでは生きていけない。遊べなければ、生きていく価値が無い。(どやぁ)
常に新鮮な「こころと頭」を保つために
人類はもともと学名ではラテン語で「ホモ・サピエンス」と呼ばれている。「賢いヒト」といったような意味らしい。ほんとうの意味で「賢い」とはとてもいえないと思うが、もう一つの呼び方、「ホモ・ルーデンス」のほうはなるほどと感じいる。「遊ぶヒト」。
思いもよらない潜在能力を引き出す「遊び」の力「火事場の馬鹿力」をなぜ普段は出せないか・・・筋肉が自壊するからじゃなかったっけ?
仕事が終わらなくたっていいや、完成しなくたっていいや、何もかもどうでもいい、と人生を投げてしまったような人は例外として、人は、少ない残り時間にこそ「馬鹿力」を発揮するものだ。緊迫感であり、集中力である。
緊迫感や集中力が重要なのはわかるけど、そのために火事を故意かつ頻繁に起こすのはどうかと思う。ダメだったら焼死するですよ?大抵の火事は周りを巻き込むし。俺はそういうのを『勇気』とは呼びたくない。
18年前とは状況が違うと思う部分も無くは無いけど、とても充実した本だった。
・・・休みの日はやっぱりダラダラ書いてよろしくないな。