ヴィヴィアン・マイヤーの写真はなんて素晴らしいのだとすごくすごく思う
そう思うと人のツボって分からないな、とふと思う
例えば私は興味のある表現のジャンルは限られているし、
そのジャンルの中でもぐいぐいくるものとそうでないものがある
それにちょっとぐいっとくるものもあれば
わりとぐいっときたり
好きになりたいけどぐいっとこないから複雑だ、という幅も深さも様々だ
そう考えると私のツボは他人のツボではありえない
だから私がヴィヴィアンの写真にぐいぐいきていても他の人はこないし
他の人がぐいぐいきているものに私はぐいぐいいかなかったりする
それは当然そうなのだけどそこに今おかしみを感じている
それでいいのである
ヴィヴィアンの写真は観ているだけで「個」であることを感じさせる
「個」であることの悲しさと喜びと空しさと自由さを
頑固で変わり者の家政婦だった彼女が虎視眈々と孤独に写真を撮り続け、
誰にも知られず興奮し、にやけ、あれに近づき、そして公表しない
でも撮る 撮る 撮る 創る
アートのラインなど屁のつっぱりほども気にせず
個の中での写真の研究以外は学ばず
しかし追求し 撮る
ある意味ではヘンリー・ダーガー的
自分の上がる舞台などはない
そこに鑑賞者はいない
共有者もいない
ただ撮る「個」があるだけ
こんなに美しいものはあるか、と思う