日記

Hajime

日暮れのタージ

2009年03月28日 | Weblog

アグラに着き、ホテルさくらで一泊した次の日僕は早朝からアグラの街を歩きまわった。
まずはホテル探し。
ここアグラは世界一美しい建造物とも言われるタージ・マハルがある街だ。
駅や大きなバス停、僕がジャイプルから到着したバス停もホテルさくらもタージからは数キロ離れていたため、軽い朝食を済ませた後にタージ近くに向かい、ホテルを決めてから街を歩くことにした。

ホテルから出て、タージまで行くオートを捕まえる。
数キロの移動の間にいくつか見たいものがあったのでドライバーに伝え、荷物をオートに積み込む。
ドライバーは恰幅のいいよくしゃべるおやじだった。

朝一番のドライバーを決めるというのは、一日の気分を決めると言ってもいいかもしれない。
値段交渉が上手くいって、街のことやくだらない話、会話のテンポと波長が合えばとてもその街自体を好きになるし、逆にぼったくられたり変な言いがかりをつけられ、下手をすると罵られたりするので自分の乗るリキシャを決めるのはその日全体を占うと言っても言い過ぎではないと思う。
けれど本当に占いのようなもので、あたればラッキーだし、外れればアンラッキー、それだけのことでもある。
アンラッキーといえば、デリーではよくムンバイのテロの話しをしたが、よく聞いたのが「あぁ、ムンバイのテロもかわいそうだけどアンラッキーだよね。」という言葉。

「みんなテロは怖いし嫌いだけど、それでも起こる時は起こるから。アンラッキーだよね。でもインドはヒンディーやイスラムや仏教徒もいるし複雑なんだ。政治家もね政局や対外関係うんぬんより国内の宗教間がうまくいくことをまず第一にしないといけない。そうじゃないとこの国は大変なことになるだろ。だって同じ街にヒンディーとイスラムが住んでいて、パキスタンのイスラム教徒がテロ起こしてもこの街ではどちらの宗教の信者も毎日顔を突き合わせて生活しないといけないし、それでいつもいつも争ってたらそれこそ大変なことだよ。それにそういう争いはインドの歴史で繰り返されてきたから、インド人である僕らもそういう争いに疲れちゃったんだ。疲れはてるほど、憎しみ争ってきて今ぎりぎり共存してるんだ。だからテロにあったとしてもアンラッキーだったな、と思うんじゃないかな。」

同じ国の同じ街に異教徒同士暮らしていく難しさを感じるばかりだけれど、それをテロを起こされた当の本人であるインド人が「アンラッキー」という言葉であっさり片付けることに驚いた。
いや、あっさり片付けたわけではないのだろう。それは長い長いこの国の歴史の中で少しづつ、両者がなんとか折り合いをつけながらやってきたという一つの答えでもあるとも思えた。

僕がヒンディーでテロを起こされたならアンラッキーという言葉でやりすごせるかは疑問だ。そして僕のような一人一人の感情が大きな争いに繋がっていくのだろうなとも思う。今この国に住む彼らが争いを起こさずに(起こしている場所もあるけれど大体の街において)なんとかやっていられるのはそれを歴史の中で身をもって学んできたからだろう。

それでも僕がぎりぎり共存しているのだろうな、と感じたのは
「テロが起こった時、この街に住むムスリム達は口をそろえてパキスタンのムスリムの奴らはどうかしてる、と言ってたけどありゃ本当は嘘だろうな。内心はヒンディーにざまあみろと思ってるよ。」
と言う話しもよく聞いたからだ。
本音や建前が複雑に錯綜し、よく耳にした「アンラッキー」という言葉にしてもぎりぎりのところでお互い折り合いをつけるための答えの一つにすぎない。そしてまだこれからも宗教や信仰という複雑な問題がすぐに解決するということはなさそうに思えた。長い間争い続けてきたにも関わらず。


アグラの街に話しを戻すと、タージに向かう途中いくつかの場所に寄り、ドライバーを待たせて写真を撮ってからまた戻ると、僕の乗っていたオートリキシャに勝手に乗りこんできたおっさんがいた。
何だろうと思ってると、彼は勝手にアグラの街のガイドをし始めた。

「ここの店の飯はまじ上手いんだって!食う?お前食う?」

「いや、食わん。」

「ここ!ここは超景色いいぜ、撮れよ写真、さぁ!」

「いや、撮らん。」

どこかの店の客引きかなんかだと思い、相手にしていなかったのだけどだんだんその白熱する彼のガイドぶりに僕もおもしろくなってあれこれ話すようになった。

「ていうか、なんで勝手にオートに乗ってきたの?しかもなんで勝手にガイドしてんの?」と言うと

「今日暇やねん。」

「暇なん?そんだけ?」

「おう、暇なだけ。あっここ近道やぞ、お前ラッキーやな。俺のおかげやな。」

そんなバカな会話をしながら3人でアグラの街をあちこちオートでまわった。
どうやら今日の占いは当たりのようだった。



タージの近くでホテルを決めた僕はオートのドライバーと暇なガイドに別れを告げ、荷物をホテルに置いて一人で周辺を歩くことにした。
アグラの街はよく晴れて、赤を基調にしたカラフルな民家や人々を見ながら歩いた。






相変わらずこの街にも犬は沢山いた。
生きているものも、そうでないものも。
沢山いた。
人間と牛とゴミに塗れてたくましく、したたかに命を転がしていた。












ラッシー屋でバナナラッシーを飲んでいると、とあるサイクルリキシャを見かけた。
タバコをふかしたリキシャのおやじがおそらく自分の娘達であろう子どもとひと時を過ごしていた。

当然のことながら、誰にも親がいる。
親と呼ばれる人には子がいる。
子がリキシャではしゃぐ姿はまるで自分の家にいるかのようで、おやじはタバコをふかしてそれをおやじらしいそっけなくも暖かいまなざしで眺めていた。
時に煩わしそうに、けれども愛おしそうに子と接するおやじの姿はなんとも言えないものがあった。
それはすごく神聖なもののように感じられた。
どこでなにが起こっていようとも、側で子が楽しそうに笑っている姿を優しい眼差しで眺める親の姿以上に愛情に溢れた光景はないような気がした。
その姿は職業や地位に関係なく立派だ。






それから宿に戻ると辺りは薄暗くなりかけていて、屋上からはタージが見えた。
久しぶりにビールを飲みながらその姿を眺めた。
遠くから見るその姿はとても美しかった。
辺りのぼんやりとした薄暗さがその輪郭をより引き立たせていた。
全室ホットシャワーを売りにしていたこの宿も結局水しかでなくて、ぶるぶる震えながら水を浴びたのだけれど、この景色はなかなかうならせるものがあった。
ホットシャワーよりももっとタージの見えるこの屋上を売りにするべきだなと思いながらビールを口にした。



ジャイプルを発つ 

2009年03月24日 | Weblog


ジャイプルにいたのは2泊だけだった。
あっと言う間に体調を崩して、あっという間に出発の時が来たという感じで慌ただしく出発の準備をする。
ずっと食べ物を食べてなかったのだけど、この日は朝チーズパコラを食べた。
チーズパコラとは、カッテージチーズを揚げたもので、ケチャップをつけて食べるとこれがもううまいのなんの。
衣さくさく中もっちりチーズ。
いきなり揚げ物なんて大丈夫やろか、とも思ったけれどチーズも衣もすごくあっさりしていて全部たいらげてしまった。我ながらなんという生命力か。
それに今日はジャイプルからバスに揺られて7時間、タージマハルのあるアグラへの移動日だから少しは腹にいれておかないとさすがに体力が心配だったのだ。


ホテルの屋上からジャイプルの街を眺めてみる。

砂漠に囲まれたラジャスターン州の州都ジャイプル。
ここからさらに西へ向かえばパキスタンの国境まで果てしない砂漠が広がっている。
ラクダがいて、砂漠の民がいて、古い民族音楽を演奏する楽士とダンサー達がいる。
今回はめっきりぐったりしてしまったが、次回はぜひ砂漠の方まで行ってみたいものだ。
吹く風は日中の砂埃舞う灼熱の熱風でなく、朝早い今はまだ心地よく爽やかだった。
そうしてまた荷物を担ぎ、一路アグラへと向かった。








アグラ行きのバス停に着くとまだ人はまばらで、僕はエアコン付きデラックスシートバスのチケットを買った。
7時間移動のエアコン付きデラックスで120ルピー(約240円)。







車内はこんな感じ。
もちろんエアコンは付いてなかった。
でも満員じゃなかったし、風は気持ちいいしローカルの人ばかりやからすごくみんな親切だ。デラックス。


















アグラに着いたのは陽が暮れてから。
バス停の真ん前に「さくら」というホテルがあったので泊まることにした。
さくらという名前だから日本人がわんさかいるのかと思ったけれどそんなこともなく、部屋に荷物を置いてホテルにあるレストランに行くと、日本人とおぼしき男性が座っていたので話かけるとやはり日本人だった。
とても久しぶりに日本人と会った気がしたので、しかも僕ら二人ともそんな感じだったために、お互いのこれまでの旅の経過を延々と話した。

ムンバイから入ってジャイプルまで上がってきた彼と、デリーから入ってジャイプルまで下った僕。
といっても僕の旅はまだ始まって間もなかったから、いろいろな情報を教えてもらえた。
ムンバイまで行くとお腹より虫がひどくて大変だったことや、お互いなかなかグループで行動してる日本人旅行者とうまくからめなかったことなんかを1秒間に20匹くらい一気に襲ってくる蚊と格闘しながら話し続けた。
彼はインド以外ではイスラエルについてとても詳しく、彼の専門的なイスラムの宗教と文化の研究の為の渡航と旅も含めるとかなりの日数をイスラエルで過ごしていて、中々日本では手に入らないような話を沢山聞く事ができた。

数時間しゃべりまくって、お互いに旅の無事を伝えあい部屋に戻った。





今日は一日移動日でずっとバスに揺られていたのだけど、
アグラでバスを降り、暗くなったあたりを見回すともぞもぞと何かにたかる人や犬や牛やカラスがいて、相変わらずここもけたたましい音がプァーーー!と鳴り響いていた。
明日からまた飽きのこない日が続きそうだ。



ラジャの情けと猪木との闘い

2009年03月22日 | Weblog


前日の夜に猪木と死闘を繰り広げた僕は、若干へろへろになりながらもジャイプルの町へ出た。

猪木のビンタをくらって軽い脳しんとうよろしくふらふらと酔っぱらいのような千鳥足。
けれども一発くらった方が力が抜けるというか余計なことを考えなくてすむのである。
余計なことというのはそこらへんにある現実的に厳しい状況に対して、僕の脳みそで解釈しようとしたところで怒りだの悲しみだのの中に若干の自己陶酔にも似た自己満足的マゾヒズムナルシズム被害妄想なんやらかんやらが拭いされないので、がつーんと一発猪木にビンタされてはっと目を覚まし、くらくらしながらシンプルに歩いて見てみるのが良いのである。
そうでなきゃ日本に帰るまでに重たーい空気をずるずるとタコの足のように引きずって、その吸盤にさらに憤る現実の局面を吸い付けて悲しい悲しいと歩くのが関の山である。いい所も沢山あるだろうに。

けれどももろに怒っている。
さすがに腹立たしいことが多いのも事実である。この国で起こっているカーストの問題や激しい貧富の差を目の当たりにして、それを知らんぷりしてヨガだのアーユルヴェーダだのをうかれてやったりできないのである。
じゃあ何をするのか、と言いましても僕がしたいのは写真を撮る以外何もないのである。
やっぱりそれしかないなと痛感させられるのである。
そしてごちゃごちゃと考えていてもしょうがないのである。そんな頭パンク寸前での猪木の一発だった。

わっほーい猪木のビンタ痛ってーー☆とスキップするくらいの勢いが必要なのである。
寝下痢がなんだいうっほーい☆
いい奴も沢山いるはずだぜーい☆うっほーい☆



さて、そういうわけで今日の僕のパートナーはホテルのスタッフに信用できるドライバーを紹介してもらい出会った22歳のラジャくん!
彼はほんとにステキな奴だった。
使い物にならないくらいへろへろで、超ゆるゆるの腸ゆるゆるである僕に気を使ってオートリキシャを運転してくれた。
しかもあちこち場所を指定しても嫌な顔せずにバカ話をしながら丸一日過ごした。

ひとまず向かったのがジャイプルから11キロほど離れたアンベール城。
16世紀頃に栄えたアンベール王国の城だ。
山の上にあるのでオートリキシャでガタガタ登りながら向かう。





道ばたにはやっぱり牛がいる。




像までどしどし歩いてる。
この辺は像タクシーが有名で、すごく乗ってみたかったけど今の僕の尻には刺激が強すぎると判断して断念。
くやしい。








ここから歩いてアンベール城に向かったのだけど........。
暑いし階段めちゃ長いし、修行のようだった。
もうちょい元気ならと悔やまれる。








そしてラジャとチャイを飲む。
なんということかラジャがチャイをおごってくれた。
なんつーか普通僕がおごらなきゃいけない方なんだろうけど、城からふらふらと歩いて戻ってきた僕を店の前に腰掛けさせ「チャイ飲んで休め。」と優しく癒してくれたのだ。
あーインドっていい奴もやっぱり多い。
暑いけど、そしてこのチャイも激熱で喉からからの今は冷たいものが飲みたいけど、でもいいぜ。











それから超親切爽やかスマイルのラジャと僕は再びオートリキシャで山登り。
アンベール城のある山のとなりの山にあるジャイガル要塞へと向かった。
うねーりうねーり道が続いてオートが揺れる。
尻を意識するとやばいので、目一杯風を吸い込んで爽やかな気持ちでいようと努めた。
もし、万が一にでも気持ち悪くなって吐いたり、まさか下痢なんてしちゃったらラジャのこの大切なオートの後部座席が大変な事になるじゃないか!
せっかくできたインドでの友のこれまでの恩を仇でかえすようなことだけはしたくないし!

むむ、だが、なんか。


「ハジメ大丈夫か?」

「も、もちろんだよ!元気いっぱいだよ!」

は、早く着いてくれ。


でも助かったのは道がアスファルトだということだ。
逆に町中はでこぼこ道とかが多いので刺激が強すぎる。



「ハジメ着いたぞ!」

「おお!やったー!」









ジャイガル要塞に入って、要塞の上から遠くに見えるジャイプルの町を眺めた。
暑さと体調の悪さを乗り越えてでも来てよかったなぁ、と思うほど絶景だった。
ジャイプル特有の美しい赤い土と爽やかに吹いてくる風が心地良い。
そしてなによりここには町中にある車やリキシャの恐ろしいほどの排気ガスや見てるだけで酔いそうな人人人!という感じがない。
のんびりしている。

僕と好青年ラジャはしばらく二人でジャイプルの町を山の上から眺めていた。
ラジャよ、どうもありがとう。
すごく気分の浮き沈みが激しくなるインドだけど、それが旅の醍醐味でもある、だなんてまだ言えないけどそれでもやっぱりこの国でお前と出会えてよかったと思うぜ。

などと浸っていると、安心もつかの間猪木が襲ってきたので、僕はラジャに連れられてよぼよぼとトイレへ。
おぉラジャよ。
惚れてまうやろ。





そんな僕を見て、だらしねー奴だぜと言わんばかりのラクダと





ええじゃないか友情、と言わんばかりの猿がいた。

「ハジメ、写真撮ってる余裕があるならはよトイレ行け!」
と超ナイスガイラジャは笑って言った。

僕は「猪木めー!」とわけのわからんことを叫んでトイレに駆け込んだ。





記憶喪失ジャイプル 〈インドの季節〉 

2009年03月21日 | Weblog

僕が泊まっているデリーのホテルの部屋には窓がなかった。
いつもそうだったのだけど朝でも夜でも部屋は真っ暗だった。
外からの情報はたまに聞こえるクラクションの音か犬の鳴き声だった。
ジャイプルに出発するこの日は4時に起きたのだけど、やはり真っ暗で何の音もまだ起きてはいなかった。
水を浴びて、荷造りをして4日間世話になったホテルを5時前に出る。辺りはまだ静まり返っていて夜に吠えまくっていた野良犬もようやくおとなしく眠りにつく時間帯のようだった。
駅までは徒歩だと25分はかかる。この時間に25分かけて怪しげな人だの野良犬だの野良牛だのに気をつけながら歩くのはさすがに気が引けた。
野良牛は一見おとなしく、昼間に出会うとどうってことはないのだが、暗い路地でいきなりにゅっと出てこられるととても焦るのだ。道をふさぎながらのそりのそりと大きな角と体を揺らしてやってこられるとちょっとびびる。

辺りを見回すとオートリキシャが何台かとまっていて、ドライバーが中で爆睡している。
それでも何人かは起きていて、すかさずこちらへやってくる。
真っ暗な中に真っ白な目だけを光らせたインド人に取り囲まれるのも慣れたとはいえ少し身構えてしまう。


バックパックや荷物を全て抱えた僕を見てドライバーはすかさず
「駅に行くんだろ、100ルピーだな。」

昼間ならここから駅までオートリキシャで30ルピーくらいが相場だ。
暗くて歩いていけないのは自分でも分かっていたけど100は高すぎると思い値切ろうとした横を一人のサイクルリキシャが通った。
こちらを見ながらスピードを落とす彼を見つけた僕は、すかさずオートリキシャのドライバー達を振りきってサイクルリキシャの元へ。

「駅なら50だよ。」

とりあえず50ならいいと思い、真っ暗いデリーの町をサイクルリキシャに揺られて一路駅へ。
それにしてもこの暗い中客なんかほとんどいないだろうに起きて客を待ってるリキシャのドライバー達はすごいな、などと思っていると駅へ到着。

6時発の電車が到着するまでの時間しばらくホームで待つ。
デリーでのいろいろを思い出してみた。

野良犬がホームを行き来し、ずるずると下半身をひきずって手だけで移動する物乞い達が何人かやって来て去っていった。
まだまだ辺りは暗く、ぼんやりと外灯をの明かりを見ながら鉄道を待った。

ぼぉーーー、という音と共に電車が入ってきた。
インドの鉄道車両は半端なく長い。しかも乗車すると車両と車両は行き来できないし、到着するまで自分の乗る車両がどのあたりに停車するのか分からない。
その上停車時間は少し。
その場で待っていた人はみんな自分の車両を目で追いながら見つけたらダッシュ。
僕もバックパックやらカメラバックやらを担いで発見した自分の車両へダッシュ。
走っても走ってもなかなか電車は停まらない。

朝っぱらからゼェゼェいいながら荷物を背負ってダッシュはさすがにきつい。
こういう小さなきついことが起こった時ほど誰かと一緒にいれたらなぁ、と思うことはない。
大体いつも昔から一人旅だが、感動やショックを共感するよりもささいな出来事を共有する時に誰かと一緒にいたいと思ってしまう都合のよい自分だがそれでいいのだ、と開き直る。

電車に乗って、荷物を降ろしてしまえば後はゆっくり寝て7時間ほどしたらジャイプルだ。


と思っていたのだけど
走り出して30分ほどして異変に気づく。

は、腹がなんか変だ。


まぁ朝早かったし、荷物抱えてダッシュもしたしちょっと疲れちゃっただけだよね。
寝れば治るよね!うん、寝よう!



ね、寝れねぇ。

なんか、寝れねぇ。
やっぱり腹が変だ。


それでもしばらくあれこれと話しかけてくるインド人と会話したりしてた。

結局ジャイプル到着まで腹の違和感を抱えてしまった。途中から全体的な腹と体の違和感からぐったりしていた。
ジャイプル駅に降りたらさっそくリキシャの客引きがわらわらわらわっさりどっさりもりもりぐるぐると大波のように押し寄せてきた。ジャイプルはものすごく晴れていた。
僕は腹が痛いわけではなかったけれど、よくわからない腹の違和感と冷や汗が出て、普通に汗をかくような熱さの中寒気がしてきた。

とにかくホテルへ。
右も左も分かんないジャイプル素人で誰も知り合いなんていないけどとにかくホテルへーーー。
「ヘイ、フレンド!どこ行きたいんだ、いいホテル知ってるぜ!着いてこいよ!」

「ジャパニーズ!俺は日本人の友達が沢山いるんだ、いい観光局知ってるから連れてってやるよ!」

デリーで散々この手の嘘つき客引き達の相手をしてきたので冷静に無視したかったが、あまりの体調のおかしさにイライラして思わず怒ってしまいそうだった。

とにかく、ホテルへ行かねば。
あぁベッド!なんかよくわからんけど今ものすごく自分がベッドを求めているのが分かる!
生まれたての子鹿が本能で立ち上がるように、生まれたての赤ちゃんが本能でおっぱいを求めるように、
僕の内なるなにかがベッド!そしてトイレ!と求めている!


とにかくリキシャをつかまえてホテルへ。





この日は撮ったのは3枚の写真だった。
ジャイプルの旧市街入り口のピンク色の門と、リキシャにしがみついてルピーをねだる子と、道ばたで寝てるのか倒れてんのかわからない人。
なんだかわからないけれどその3枚だけだった。





ホテルの部屋に着くとそこからはおぼろげな記憶しかない。

気がつくと僕はトイレにしゃがみこんでいた。
瀧のようだった。
それはちょっとした火事なら沈下できそうな勢いだった。
夢かと思うくらいの勢いだった。

それから気がつくとベッドの上だった。
例えば僕の胃がプッチンプリンだとしたら、容器からプッチンとだされた僕のプリンは猪木みたいなでっかい人の手の上で何やら揉まれているようだった。
もみもみ。
嫌な予感がするぞ、猪木といえばビンタだぞ。

うーん、でも今ものすごく無抵抗!
あーくるよ!ものすごい猪木のビンタが僕のプッチンプリンをぐっしゃぐっしゃにするよー。
あーーーーーー


なんとかトイレに駆け込んだが間に合わず、洗面台にぶちまけていた。
洗面台ならまだましだろう、と思うかもしれない。
が、量が半端無いのだ。
さっきはお尻がピエール瀧だったが、今度は口から大瀧詠一だった。
そんなつまらぬ事を考えながら洗面台にぶちまいていると気がついた。

流れねぇ!
たまっていくばかりでもうすぐ溢れてしまいそうだ!
まずい、非常にまずい。なんとかせねば!でも止まらない。






生涯初めて僕は自分のゲロを自分の手ですくった。
それからそれを両手で持ってトイレに運んで、トイレも流れないからバケツに水をくんで無理矢理流した。

薄々、いやかなり気づいていたのだけどこの時僕は相当熱があった。
原因はよく分からないが関節が溶けそうなくらい感覚がなかった。
どれくらい上からも下からもピエール瀧状態を続けたのかはもうわからない。

全部出してしまった。
ぞっとするほど体内にあるものを絞り出した。
何時間もトイレにこもり、体内の水分的なものをほとんど出し尽くした。

ベッドにようやく戻って日本から一枚だけ持って来た熱さまシートをして、あー!とかうー!とかわけわからんことを叫んでのどが乾いたから水を飲んで、その水をまた吐いた。


体中がすごい匂いがした。
デリーを思い出した。
物乞いや、警官や、少年や、きれいなデパートやその入り口での身体検査やデパートのすぐ近くにあるスラムやチャイ屋のおっさんなんかを思い出した。
殴る警官や殴られる少年の事を。駅のホームの屋根の上に独りで住む子や死んだような赤ちゃんを抱いてルピーをねだる母親を。

あたりはもう真っ暗で、全部はゲロと下痢で流れてしまった。
そこにはくさい匂いにまみれてベッドに横たわる自分しか残っていなかった。

それでも何故か馬鹿みたいに涙がでた。
涙だけはくさくなかった。




それから朝まで悶絶し、トイレにかけこみ、うぇーーーと奇声を発して過ごした。


気がつくと白々と夜が明けていた。
猪木はいつのまにか去っていた。
もう無抵抗の僕に嫌気がさしたのか、散々僕のプッチンプリンをいたぶったあと知らない間に爽やかに去っていた。
「元気ですかーーーーーー!!!」っと。


元気じゃねぇ!
全然元気じゃねぇ!
でもすべて吐き尽くした後になぜだかデリーで見たことや感じたことがすとんと自分の腹に落ちている気がした。
元気じゃないけど、外に出る気分にもなった。

病院送りにならなくて良かったな、と思いつつ(それでも多少の不安はあったけど)
カーテンを開けようとベッドからふらふらと立ち上がると衝撃!

もう大人だけど人生初寝下痢してた..................。




もっと年をとって35歳とか超えたらインドでおしゃれな旅行をするのかもしれん。
けれどまだ今はこうして悶絶して旅をしている。
ひりひり皮膚が裏返ったような衝撃をびしびし受ける国をうげーーとかいいながら歩いている。
寝下痢とかしながらも!



まだまだ旅は続きまっせ!









インドの季節 〈デリーデリーデェーリィー〉

2009年03月20日 | Weblog


デリー最終日である。
明日は朝4時起きで駅に向かい鉄道でジャイプルへ。
とにかく今日はデリーをできるだけ見てまわらねば、と思い若者などの多いコンノートプレイスへ。
スラムやそれに近い所を歩いてたからたまにはそういう街にも行ってみなければ。ぐへへ。



ふとスポーツショップの前にあるイラストに立ち止まった。

ス、スラムダンク!

でも何かが違う気がする......。

絶妙に高校生ではないような。

うぶでキラキラフワフワ「団結」や「応援歌」の似合う高校生をとうに通り越しているような気がする。

どちらかと言えば立派な社会の仲間入りしたしっかりどっしりもっちりの面構えである。

うーん、デリー。
著作権とかそういうのも素無視のようだ。

けれどもこれはこれで勢いが感じられて良い。
スラムダンクだが原作にはない作品だ。

「スラムダンク8年後に再会」といったイメージだ。
へたうま感満載の絵だが、なぜか心掴まれる。

流川のあの気だるくもクールなキャラクターを完全無視したピシッと決めたポーズなどなかなか日本ではお目にかかれるものではない。
花道など悪い感じが抜けきっている。
宮城などは社会の世知辛さににやりと不敵な笑みだ。



サイクルリキシャで今日行きたかった場所へ向かう。
デリーにいる間にどうしても行きたかった場所だ。
片道20分ほど、ドライバーのおっさんとあれこれしゃべりながらデリーの街を眺める。















途中、いくつもテントでの生活の場を見た。












僕を乗せてくれたおっさん。
「家族は?」と聞くと
「俺が持ってんのはこいつだけさ。」
と自慢げに自分のサイクルリキシャの座席をポンポンと叩いた。
「夜はこいつと寝て、朝起きてこいつを手入れして、眠るまでこいつと過ごすのさ。他には別に何もねぇ。」












警察は容赦なくサイクルリキシャを痛めつける。
リキシャから降りてしばらく歩くと
警察が別のサイクルリキシャに怒っていた。
「ここから先は入るんじゃねぇ!」
「でもお客が乗ってるからもうちょっと先まで行かないとダメなんだ。」

「ダメだ!この野郎!」

と、警官はそのドライバーも24時間を共にする彼の唯一といってもいいだろう彼の所有物であるリキシャを警棒で叩き付けた。

「何するんだ!やめてくれ!客が乗ってるんだ!」

という反論も周りの雑踏にまみれてかきけされ、警察はおもむろに警棒で男を殴り、リキシャをパンクさせた。

リキシャのドライバーも必死に抵抗した。
客はリキシャに乗ったままだった。
周囲の人は足早に歩いた。


リキシャの細いタイヤから空気の抜ける音がした。
それはため息のような音だった。










僕が今日どうしても訪れたかったのがガンジー博物館だ。


ここへ来る途中、17~8歳ほどのアウトカーストの少年が警察にぼこられていた。
半裸で下半身は裸。
肌は浅黒く、上半身はかろうじてぼろ切れのきれはしをまとい、髪は真っ黒で肩まで伸びぼさぼさで、棒切れのようにやせていた。
容赦なく警官は少年を警棒で殴りつけ、数匹の犬達が少年をさらに取り囲み吠え立てていた。
無抵抗の少年をひたすらに殴りつける警察官。
理由は多分街の方へ行きたいということだと思う。
少年はなんとかして人の多い街のへ入り、物乞いなりなんなりをしたいのだけどその警官はその侵入を許さなかった。
ひたすらに殴り、ただひたすらに殴られ続けていた。

多くの人が見ていた。
僕も見ていた。
けれども何もできなかった。





ガンジーはアウトカーストの人々をハリジャン(神の子)と呼んだ。





「心の中に暴力性があるなら、暴力的になったほうがいい。無気力を隠そうとして非暴力を口実にするよりは。」
という彼の言葉がある。

彼の為に描かれた絵が世界中から寄贈されていた。

中には自分の血で描いたものもあった。

彼が暗殺された後、火葬される時にできた長い長い人々の行列の白黒写真があった。

「MY LIFE is MY MASSAGE」
という言葉がガンジーの写真の横に大きく書かれていた。


僕は偶然に日本に生まれて、警官に殴られ続けていた彼も偶然にインドに生まれただけのことだった。

インドの季節 〈チャンドニーチョウク 02〉

2009年03月16日 | Weblog


オールドデリーのいくつかの通りを歩き、それからデリーで一番大きなモスク「ジャマー・マスジット」へ。
少し肌寒くなり、ぽつりぽつりと雨が降り落ちてきた。
このモスクの周辺にはチャンドニーチョウクと呼ばれる古い市場がある。
泥棒市とも呼ばれるこの場所の外側は様々なお土産や食べ物屋台が所狭しと並び、周辺では両足が一升瓶の5倍くらいに膨れ上がった少女や、両手両足の指の無い人などが行き交う人々にその体を差し向けて施しを乞うていた。

雨が少し強まってきて、地面がしっとりと濡れ出し、どこからとなく通りに水が流れを作り出し始めると僕も含めたそこいらにいた人々は市場の路地のすりきれた布が屋根として張ってある場所まで移動した。
足の晴れ上がった少女も、指の無い老人も「寒い寒い。」と言って一緒にチャイを飲んだ。
これと言って特別な会話もしてないけれど、一日中人々にお金を乞うことが彼らの生活であり、いわば仕事であるのは分かった。
チャイ屋のおっさんも「おうおうご苦労さん!はいれはいれ。」
そのごく自然なやりとりを眺めていると、例えば人々から施しを受けるということが必ずしも恥ずかしい行為というわけではないようにも見えた。

それは、例えばヒンディーの間では施しを乞う者は施しという行為を人々にさせることによって施した人の来世が良いものとなり、また良いカルマ(業)がやってくるチャンスを与えているという考え方もあるからだ。
最初は目の当たりにしたその光景が衝撃的だったけれど、それもこの国ではごく当然な社会のしくみの一部なのかもしれない。


けれどもやはり、厳しい現実だと思う。
それがごく自然な一国の文化や歴史や社会の仕組みであったとしても
病院に行けず、きちんとした社会保障もなく、ただ自らの変形した肉体を人々に晒しながらお金を乞うということはすごく厳しい現実であると思う。カーストを作ったヒンディーであれキリスト教であれイスラム教であれ仏教であれ、神様とかというよりも神様に全部押し付けてしまった人ってずるいなぁと思う。
そんなこと言ったってしょうがないから肉体を晒してでも命をつなぐ人々がいて、そこにはやわな意志じゃなくて底知れぬ意地さえ感じられた。


雨が小降りになったので僕は市場から離れて周囲をぶらついた。
テントから出て来てヤギと遊ぶ子がいた。







雨がまた少し降り出したので僕はチャンドニーチョウクの奥の方へ入った。
外側は土産屋や食べ物屋があったのだけど、奥へと入るにつれ道は入り組みよくわからない物が売られる店が続いていた。
チャンドニーチョウクの中心は細かい路地が広がって、自分がどこにいて出口がどこかももうよくわからない。
ネジや何かのエンジン、鉄のかたまりや部品をおのおのがそれぞれに解体し、そしてしゅくしゅくと組み立てていた。
一体どこからその部品を持って来て、一体誰がそれを買うんだろう。
そんな店が続いた。
そしてその何らかの部品を黙々とちりぢりにバラし、組み立てる光景が続いた。






ようやく市場を抜け、少しだけ開けた広場に出て、一本の木で雨宿りしているとものすごい勢いでけんかが始まった。
理由はよく分からないけど女の人が泣いていた。
木の下にはたき火があり、一人の男がいた。
「寒いなぁ。でも寒いということが分かんないとこの火のあったかさもわからないもんなぁ。」と笑った。
それから僕はそのおっさんの写真を撮り、チャンドニーチョウクを後にしてしばらく歩いた。そしてISBTという2キロほど離れたバス停へ向かうことにした。大体サイクルリキシャで片道40ルピーくらいのところだ。

すぐさまサイクルリキシャがやってきた。
「どこにいくんだ?」
「ISBTのバス停。」
「100ルピーだな。」
「いやいや40っしょ。高すぎやろ100は。」
「あそこまでは2キロくらいあるし、坂も多いし100だって。」
「いや40。100はないわ。」
「80。」
「40じゃないと行かないから。だったら歩いて行く。」
「60。」
「いやいいわ。」
「50でいいって。」
「歩くから。」
「分かった40でいいよ。乗れよ。」

乗ることにした。


3分後。

「ほら、バス停やぞ。」
そこは明らかにISBTのバス停じゃなかった(ISBTのバス停は長距離のバスなどが発着する大きいバス停)。

「いやいやここのバス停じゃなくてISBTっていうもっと先の大きいバス停やから。全然違うっぽいけどここ。すげー小さいし。一応バス止まってるけど、違うバス停やろ。」

「あのな、ここからISBTのバス停まで5ルピーで行くバスが出てるんだ。ここからバスに乗ったらリキシャより安いぜ。俺ならここまでの10ルピーでいいからさ。」

少し考えてみた。ISBTバス停までチャンドニーチョウクからサイクルリキシャで40ルピーはだいたい相場だ。
そこを5ルピーで行けるバス停を教えてくれて、自らはここまで10ルピーでいいと言うおっさん。
騙すならここまで10ルピーというのは安すぎるし、最初から安すぎるなら乗せないだろうし。多分信用してもよさそうだ。

うーん、いい情報聞けたし最初は値段ふっかけてきたけどこのおっさんに20ルピーくらい払っても悪くないな。がんばって坂もチャリこいでくれたし。きっと家族もいるだろう。


「20でいいよ。ありがと。」
僕はそう言って彼に20ルピー札を渡した。
「気をつけて行けよ。多分15分おきくらいにバス出てるから間違えんなよ。」
そういって別れた。

そこには4~5台のバスが停まっていた。
僕はそのバスに歩いて近づいた。
そしてよく見ると



タイヤ全部パンク

バスの中に人は誰も乗っていない

一応、念のため周辺でたむろしているおっさん達に聞いてみる。
まさかね、そんなことあるわけないよね。

「あの、ISBTのバス停に行くバスはどれ?」

「はっ?」

「いやISBTのバス停に行きたいんやけど。ここからバス出てるんでしょ。」

「何言ってんだ、このバスは俺達の家だぜ。ちなみにどのバスもパンクしてるから走れないぜ。」


「.................。」




あのサイクルリキシャのおっさん一体何やったんやろ。途中で面倒くさくなったんやろか。

考えても仕方ないと結論づけた僕は新たにサイクルリキシャを探すことにした。
怒りだか虚しさだか自分のふがいなさだとかが入り交じって笑えてきた。
するとそこら辺にいるサイクルリキシャのドライバー達がまた声をかけてきた。

「見てたけど。ISBT行きたいんやろ。30だよ。」



即決。
もうだまされてもいい。

「ははは、だましゃしねーよ。乗れよ。」
これは優しさか、それともカモを見つけたというぼったくりの言葉なのか分かんないけど、僕はサイクルリキシャに乗ることにして、たむろしていたリキシャのドライバー達の写真を撮った。








僕を乗せてくれたのはとても無口な男で1.5キロの坂の多い道をトラックやバス、車やオートリキシャをかいくぐりながらISBTのバス停まで送りとどけてくれた。








リキシャを降りてお金を払うと、「写真撮ってくれよ。」
と恥ずかしそうに言った。
もちろんだと言って笑顔笑顔、と言うと。
「これでも笑ってんだ。」
と答えて、それから別れた。








それからニューデリーのメイバザールまで戻り、歩いてホテルへ向かった。
途中焼き物を作る一家がたき火で暖をとっていたのでまぜてもらった。
雨はもう上がっていて、辺りは暗くなっていた。


アウトカーストの物乞いや、泥棒市やサイクルリキシャや人ごみやゴミやうんこに沢山出会ったけど一家の少女がこちらを向いて微笑んだのを見て、今日の怒りや衝撃も小さなため息となって漏れてどこかにいってしまった。






インドの季節 〈チャンドニーチョウク〉

2009年03月12日 | Weblog


通りを抜けて、たどり着いた薄暗い門のなか。


力というものはすごいと思う。
力が強いものがいて、弱いものがいる。
それがいくつもの結果として現れたりする。
何かを得ていくものが力だとも思う。
それでもほんとの力というのにふさわしいのは
受け入れる力なのではないかと思う。






インドの季節 〈オールドデリー OLDDELHI 01〉

2009年03月08日 | Weblog


忘れがちだけれど僕にも子どもの頃があった。
そして様々なものを見聞きし、それなりに吸収し、成長してきた。つもり。

けれどもインプットされた多くの経験がアウトプットされる時、「笑顔」になってあらわれているかは疑問だ。

子どもの笑顔には威力がある。
子どもの頃に戻りたいという思いはないけれど、単純に子ども達の笑顔はたまに顔面に水をかけられたような思いにさせられることがある。

この日はニューデリーからリキシャに乗ってオールドデリーまでやって来た。
オールドデリーは昔ながらの下町で、通りには旅人も少なく、代わりにインドの庶民達がごったがえすにぎやかな雰囲気の街だ。
ここに来るまでにニューデリー駅のホームの屋根の上に住む10歳ほどの一人の少年の姿を目にした。
ホームの屋根とその上を通る通路との間を寝床にし、屋根の上に投げられたゴミをあさり、屋根の上でおしっこもうんちもし、寝床にあった所持品は一枚の毛布とジュースの空箱といくつかのゴミ袋だった。
よく日に焼け、たくましく、独りだった。

この街ではそういう光景を何度も目にした。
その度に何ができるというわけでもないし、何かをするということもないが、ただ小さくため息がでた。

そうしてオールドデリーのSitaram Bazarという通りをとぼとぼ歩いていると、ふと女の子が写真を撮ってくれと近づいて来た。
そうして彼女ははにかんで写真に写った。
写真を撮りながら駅のホームの屋根の上に住む少年のことを考えた。
確かに過酷な生活だし、境遇としては幸福だとはいえないかもしれない。
けれども一日のうちずっとしかめつらして過ごしているのだろうか。
現実として彼はそこで生きていて、今後も当面は生きていくだろう。それが不幸だとかかわいそうだとか僕が何か言えるようなことはない。
楽観的かもしれないし、無責任な考えかもしれないが、ひょっとしたら今頃ホームの屋根の上で朝日を浴びながら気持ちよく背伸びをしているかもしれない。
僕は次出くわすチャンスがあれば、そして可能であれば彼のそんな気持ちの良い写真を撮りたいと思った。
けれども結論からいうとそれは達成されなかった。
何度か足を運んだが、彼の寝床はあるけれど彼はいなかったのだ。きっと駅の中か街へ行くかしてその日の生活の糧を探しているのだろうなと思った。






Sitaram Bazarはニューデリー駅周辺のメインバザールよりも通りそのものは広くないが、それでもやはりサイクルリキシャや果物屋、様々な露店怒声罵声歓声悲鳴チャイ屋やチャイ屋やチャイ屋が軒を連ねていた。

「チャイをくれ!」
「どこまで行くんだ?俺のリキシャに乗ってきな!」
「いや、俺の方が安いから俺のに乗ってきな!」
「水をこぼすな!」
「邪魔邪魔!」
「まぁまぁ!」「おらおらどけどけ!」
「あっちだ!」「そっちだ!」「こっちだ!」「どっちだ!?」
てなもんだ。













朝っぱらからそりゃもう寝っぱなしの人もいる。






一つの通りを歩くだけで様々なことが見えてくる。
特にこのオールドデリーは金持ちが少ないこともあり、インドの貧困や格差など多くの現実が垣間見える。
それでももう歩きだしたからには引き返すわけにはいかない。
旅が終わるまでは前を見て歩こうと決めた。





だって現実は眉間にシワがよるようなことも多いけど、すげーおもしれーこともめっちゃあるはずだ!と思う。
いい顔してこっち向いてくれる奴だって沢山いるはずだしね。




インドの季節  〈ニューデリー NEWDELHI 01〉

2009年03月06日 | Weblog


「インドって最高だろ、ヘイジャパニーズ!」

車に乗って外を眺めていたらいきなりバイクが横付けしてきた。
「ほらかっこ良く撮れよ。」


ただいま80キロで走行中。


ニューデリーのメインバザールにあるホテルで一夜を過ごし、その日は朝からタクシーでデリー郊外の寺や市場を見て回った。安いオートリキシャに乗ろうかとも思ったのだけど、郊外に抜けるには結構距離があるので僕はタクシーを一日チャーターした。
窓を開けて走っていると、何かの工場の中にいるような油くさい匂いと、数分口を開けていると口の中がざらざらしてしまう砂ぼこり、それから車とバイクとバスとトラックとオートリキシャのまるで真夏の森の中で一斉に鳴き続けるセミ達のようなクラクションの嵐。
ビー!ブー!ビーン!ビービービー!!
ビーーーーーー!
ビビーー!
ビッビビーーーン!!

一日あれこれ見てまわったけれど、とにかく圧倒的なうるささで、夕方にホテルのあるメインバザールに着いた後も耳がまだビービーいっていた。




メインバザールは日本でいえば渋谷や原宿のような所だ。
ありとあらゆる物が売られ、地方のインド人も沢山働きにやってきて、世界中から旅人がやってくる。

デリーにはコンノートプレイスやいくつかの違う最新のおしゃれスポットがある。
それらの場所も歩いてみたのだけど確かに最新のファッションやおしゃれな人、金持ちも多い。
けれどそのおしゃれなスポットのすぐ側にスラムがあり、路上生活者がごろごろしてる。
そういう人たちが中に入れないようにものすごい警備されている。
身体検査しないと入れないデパートもあるほどだ。
それは急成長するインドの一面でもあると思う。

けれどこのメインバザールのむき出しのぐじゃぐじゃ感そのものがインドでもある、とも思う。
それはおもしろいものに沢山出会えるからだ。
いつから友達になったのかしらないけどなれなれしく「ヘイフレンド!」と肩を組んでくる奴や
「ハッパいる?」と声をかけてくる奴や
しつこくバクシーシ(ほどこし)をねだるぼろぼろの奴や
牛や犬や笛吹きや太鼓たたきやその他もろもろだ







メインバザールの真ん中あたりには小さい空き地があって朝から晩まで服やら靴やらなんやらかんやらが売られている。





夜にはホテルの前のチャイ屋でチャイを飲む。5ルピー(12円くらい)。
ここの親父はインド人には珍しく無口だった。
もくもくとチャイを入れては、小さいガキ達にチャイを運ばせ、常連が来たら軽く目配せをし、またチャイを入れる。
鍋の底には一日中継ぎ足し続けた紅茶の葉と砂糖の塊がドロドロと原型をとどめないものとなって煮られていた。
それでもここのチャイはうまくて僕は毎朝毎晩デリーでこの親父と会い、チャイを飲んだ。






ここではどこでも子どもが働いている。
正確には仕事を持っている。
一人前に夜遅くまでチャイを運び、チャパティを焼き、大人と話していた。
こいつも多分13歳とかそんくらいだろう。
もう立派な働き手だ。
「ここいらのガキはたった2本の指で仕事する奴だっているぜ。財布の入ったポケットにたった2本の指だけ入れて抜き取っちまうのさ。その指だけで家族を養う奴だっている。子どもだって立派な仕事を持ってるのさ。」

チャイを飲みながら仲良くなった客の男は笑って言っていた。