日記

Hajime

不可能なこと

2007年10月24日 | Weblog

何も書く必要がなかったからこそ急に何か書きたくなったりすることがある。
今日見た夢とか最高におもしろかったのにさ、とか。
だから勢いにはずみをつけて何かしら書く事にしよう。

まず、最近本を2冊同時に読んでいること。
外出用に1冊、寝る前に布団に潜り込んで読む用1冊。

これは使い方によってはとても良い。
1冊の本を読んでいる時は大抵その時読んでいる本の世界の色と同じ色に自分の世界も見える。
例えば山田詠美の世界の色とブラッドベリのそれとは全然違うのだ。
だから2冊を同時に読んでいる(私の場合は概ね昼と夜とで区別している)とはっきりと頭で区別しておかないとそれはもう混乱を招かざるを得ないのだ。

仮に昼には主人公が子ども(ハックルベリー的な)という設定。
夜には幾重にも計算しつくされ、言葉を慎重に選び、話の盛り上がりに何度も行きそうで行かない、3歩進んで2歩下がるというような話。
こうなると本を閉じて生活している時間にふとその2つの話がこんがらがって、ややこしい展開の話の主人公がシンプル極まりない子どもになったり、またその逆で単純なストーリーなのにその簡単な話の色の中に混みいった混沌とした背景が混じった世界になったりするのだ。

それはそれでおもしろいのだけどなんとか2つの話が少しずつまるで夕暮れの空のグラデーションのように、夜と昼とを微妙につなげるあの日落ちの色のように溶け合わないようはっきりと区別しておく必要がある。
エンジンと湖のように。
もう全く別物として分けておく必要がある。
昼と夜という分け方ではきっとどこかではまさに今も夕方のグラデーションだってあるだろうし、その限りにおいては昼と夜とははっきりと区別つけられないのだ。
というのは1日24時間という定義において日付は0時を持って変更されるかもしれないけれど、観念的には一体いつから昨日でいつから今日でいつから明日なのだ。
実際今0時を過ぎているが、まだ今日だ。


つまり本を2冊読む時は気をつけて、ということです。


そして冒頭に書いたように今日見た夢だ。
ちくしょう、わすれた。がーん。
すごく名言を夢の中で発見して、一度目が覚めてトイレに行き、用をたすまでは決して忘れまいと繰り返しぶつぶつ唱えていたのに、昼に忘れた。
ああいうものは必ず書き残しておく必要がある。
非常に残念。
仏教用語が混じっていた気がする。すごく昔に実家の隣の寺で見た漢字が混じっていた気がする。
でも気がするだけで思い出せん。
ちーん。



そして不可能なこと。
「考えながら」「形にする」ということ。
「一旦考えを構築しておきそれを基本に置きつつ見直し、手を加えながら」「形にする」というのはできる気がする。
というかそうせざるを得ない。
つまり右脳と左脳を同時進行できないのだ。
ということは必要なのは万全に万全を期した「練りと準備」においてどの地点に「着地」するかで決まる。
原点はやはりどん欲さなのか。
つまり飛ぶ距離に必要なエネルギー、遠心力が強ければ強いほど自分の着地しようとしていた場所や自分の想像を超えた所に着地したりする。
だがある意味ではこだわりにも似た半端でない覚悟がないと飛ぶことさえできないのだ。
だからその恐怖を知ってるものは本当に強い。


話をどんどん変えると今高校時代に着ていた野球のアンダーシャツを着ている。
アンダーシャツはいつからピチピチになったのか。


いくつか気になることを思いつくまま書くことにした。

と思っていくつか気になることがさっきまであったので改めて思い出そうとたばこに火をつけて消すまでの時間にあれこれと考えてみたがほとんど思いだせなかったのでやめよう。

しいていうなら先日小学校~高校まで一緒だった友達と久しぶりに会ってその友人が何人かの小学校からの共通の友人の現在の写真を見せてくれたのだけど、その友人達が出会った当初(小学生時代)どんな顔だったのか今の写真を見せられてそれを逆算していってもあまりうまく思い出せないということだ。
教室の雰囲気や授業や休み時間に飛び交う声、日差しの色、渡り廊下や図書館に置いてあった本の色あせ具合については思いだせるのになぁ。
ぼんやりと今から逆算してイメージした「私が作りあげた」その友人の顔が微笑んだりしている。
だから実家に帰った時には真っ先に当時の写真を見ようと思う。
こっそりと思い出そう。

何せ実家に帰るのは一年に一度なので最近は毎日家族に会える人はすごいな、と思う。
そういうことも思う。
そこに特定の感情はないけれどすごいなと思う。

しかしながら今週末は久々に関西に行く。
京都に行き、大阪に行く。
姉にも会う。
姉の子にも初めて会う。
古い友にも会う。
すごく前に勤めていた所の人にも会う。
バンド一(ハジメ)の人達にも久々に全員会う。
そういう空気を吸う。

再来週には広島に行く。
いろいろあり、4才くらいから高校まで一緒だった幼なじみ達に会う。
その一人と東京まで新幹線で一緒に帰ってくる。


笑うだろうし、恥ずかしいことも沢山言っちゃうかもしれない。




今日はそういうことでそんな感じでした。


またね。

僕もそうか

2007年10月21日 | Weblog

まいにち まいにち
できたてのこころで
まるでまいにちうまれたての
ほかほかのこころで
まよいにまよって

ほかほかの
あまりにはずかしいような
まよいやつよがりのような


まるでできたてのまいにちのこころ


ゆうぐれには
僕もそうか



アナ

2007年10月15日 | Weblog

彼は今日お酒を沢山飲んだ
その駅からの帰り道
線路の脇で老け込んだおじさん達が真夜中の線路でサビで汚れた色の軍手をしながら工事をしていた


しばらく歩くと大学生らしき若者達が合コンの話で盛り上がっていた

ちょうどおっさん達の子どもがいたらその位の年齢かなぁ


沢山お酒を飲んだ彼はその線路沿いの道を歩きながら工事中の照明を見て少し笑った

工事用の赤い照明だけが活き活きとした色で夜の黒に映えていた
道は薄黄色い街灯を灯して果てしなく直線に続いていた




何もわかっちゃいないだろう
何も言えることはないのではないだろうか
それでも確かにそこに何かを感じたんだ






10月4日

2007年10月06日 | Weblog

たまに芝生の向こうから子どもの笑い声が聞こえていた


橙色の花に橙色のちょうちょがとまっていた


おじさん達は凧を上げ、その糸を地上で操っているのだけど遥か上空のその凧をどこかうらやましげに見上げていた
またそれはきらきらと少年のような目の輝きでもあった


楽しい!
ということを直感でひらめくんだ


その直感とひらめきはともすれば単なる無意識的な思いつきではなくて
個人の経験からくる試行と錯誤の成れの果て、「生きる」という日々の積みかせねを練りに練って、悩みに悩んで、戦いに戦って、向き合いに向き合った一つの結晶ともいえる答えだとしたら
一体何に価値があるのかなんて分からないけれど
その直感とひらめきはその人の財産なのかもしれない


そこで行動してみて本当に大切なのは自分自身を貫くことではなくて、そのエゴが自分にはね返ってきた時に受け止め、乗り越えることができるかどうか、なのかもしれない



そしてやっぱりその上で本当の優しさを持って生きている人は素敵だなぁ、と思う




...............

あじがある人はやっぱりそういうもののわき出し方が半端じゃねぇ