日記

Hajime

旅の話しはさしおいて

2008年11月26日 | Weblog

近頃ごりごりと飲んだ。
朝はいくつか文章を書き、昼は想像し、夕方に本を読みふけり、夜に酒を浴びた。
島根の保育園から高校まで幼なじみのヒデは東京で担任を持ち、文学が好きだ。僕とは読む本の好みが違うけれどさまざまな小説の話しをごりごりして3件目でダウン。
目は鋭く座り、同じことを繰り返し、沈むように寝た。

それから東京に来て初めて働いた子達の誘いで飲む。夢や希望や、言葉とは裏腹の日常と現実とのギャップの間に垣間見えるやり場のないエネルギーを互いに交わす。

今日はアラスカから久々に来日した写真家の河内牧栄氏やシナリオライター、雑誌の編集長さん達と新宿で飲む。
お店は椎名誠さんと旅の編成を組んだ人のお店。
強烈な泡盛の古酒が飲むというより、体に効く。
握手した店長のその手は熱く、熊みたいだ。

同郷の幼なじみのと飲み、学生の話しに耳を傾け、東京で書く仕事をする人と盛り上がり、アラスカの写真家と語る。
明日はまたアラスカから来日している英語のうまいアメリカ人(超日本語うますぎる)と焼酎で酔い、写真や自然について話そう。
気づいたのは真剣な人はかなう、ということだ。
どれだけ真剣か。
バカなことをしても、くだらないことを散々言ってもどれだけ物事や自分自身に対して真剣か、ということ。
アラスカの大地を闊歩するムースのような野生味溢れる人たちからオーロラや野生動物の話しを聞こうと思う。




シャモ兄ぃ

2008年11月22日 | Weblog

〈シャモニ・モン・ブラン 02〉

エギーユ・デュ・ミディ展望台(3842m)からリフトで下る。
途中の駅プラン・ドュ・レギーユ(2310m)でリフトからおりる。
目の前には絶壁と雪に囲まれた展望台とは違い、さまざまに緑が繁茂していた。
ここからは厳しいアルピニストの世界からハイカー達の世界だ。
6km先の氷河まで歩くことにした。
陽はまだ高く、高山病も落ち着いてきたから夜前までにはシャモニの街に戻れる予定。
右手にはシャモニ針峰群が連なっていて、その雪解け水でペットボトルに水を汲んで喉を潤す。
最初は高低差の少ない平坦で落ち着いた道だ。
天気もいいし、すれ違う人たちはあいさつしながら歩く。





道はまだまだ先へと続く。
















実際6kmと言っても、途中からは高低差やガレ場(岩場)も多くかなり長く感じるし、相当体力を消耗する。
息も絶え絶えになってきたころ、目の前に古びた家の跡が現れ、その後ろに大きな山が見えた。
ドリュ針峰だ。
3754mと4000mには及ばないものの、その姿は針峰という名にふさわしく、美しい形をしている。

鬱蒼と木々の茂るアジアの「山」、『生命の通わない死そのもの』と初めて大陸に渡り、岩山をそう言い表したかつての日本人の言う「山」。
一言で「山」という言葉で表しても、それはやっぱり統一された一つのものではないし、どれも個性的だ。






しばらく歩くとメール・ド・グラス氷河が現れた。
今日の最終目的はこの氷河。
氷の海という意味の氷河で、その奥深い場所にはヴェルト針峰の北壁がそびえているのが見える。
あの北壁はマッターホルンとアイガーの北壁と共に世界三大北壁といわれている厳しい山壁だ。
冬のヴェルト北壁初制覇したのは日本人の小西政継。彼らのパーティはこの北壁を登る際、数日をかけ、睡眠はロープにぶら下がる格好でとったという。
あまりに厳しい挑戦で4人中3人が凍傷のため手足のほとんどの指の全体、もしくは第2関節までを切断している。
唯一無傷だったのが、アラスカのマッキンリーで1984年に冬期初登頂を成功し、そのまま冬のマッキンリーで消息を絶ったあの植村直己だ。





大きな谷に横たわるようにして流れる氷河の足元を見ると、いくつか穴が開いている。
入れるのか!?知らなかった。





入り口は氷河。そりゃそうだけど。





意外に安全で、氷の彫刻みたいなものまである。





時々遠くでドーン!と氷河がくずれる音がしたりするけど、ここは安全なようだ。
それにしても何億年も前にできた氷の中にいるって不思議なかんじがする。
3800mまで登って、それから氷の中。
シャモニってすごいとこだな。









それから山岳鉄道で街へ。
ちらほらと日本語も聞こえた。





この日は体力を全て使い果たして、ご飯を食べに出かける気にならなかったので、ホテルの部屋のベランダでビールとハムサンドを作って一人で乾杯。
いや、いつものことだけど。




めちゃめちゃ疲れたけど、まだこれはまだまだ登るぞ、という道の一歩目だと思う。

こだわるなんて100年早い、と言われることもあるけれど。
その通りだと思うのだけれど、余計なプライドを持つということではなくて、
こだわる勇気を捨ていいなんては思えない。
だから目の前にある道を一歩一歩。
自分の素敵だと思う道を選択して、全てが自分の責任の上でしっかりとこだわって歩けばいいのだと思う。
そのための一歩、一分一秒、全てが自分次第。




モンブラン

2008年11月16日 | Weblog

〈シャモニ・モンブラン〉

シャモニの街に着いたのは朝10時半頃。
ジュネーブのバス乗り場を午前8時半に出発し、バスで国境を越え、2時間ほどでスイスのジュネーブからフランスはシャモニの街へ到着。
ジュネーブではシャモニ行きのバスを手配するのにとても苦労してしまった。
スイスパス(乗り物が無料になるパス)が有効かどうか(使えなかった)、やバスの予約方法などを詳しく聞くためチケット売り場で散々質問したのだけど。

ジュネーブからシャモニへは日帰りのツアーもあるようで、それが片道だけのバスと同時刻、同じ場所から出発するのでごちゃごちゃで少し混乱。
周りの乗客もどのバスだー!みたいになってた。
乗ってしまえば、パスポートチェックもなくフランス入りできる。

シャモニに着いてホテルに荷物を置き即街へ出発。
とても晴れている。
街の背後にはモンブランがくっきりと見えていた(上の写真の山がモンブラン)。
こんな天気はなかなかない。
街自体の天気が良くても、モンブランの山頂が雲や霧で見えないことが多い。山の天気は変わりやすいのだ。
街からきれいにモンブランが見えてるからってのんびりしていられない!ということで、モンブランにもっとも近づける展望台、エギーユ・デュ・ミディ(3842m)へのリフト乗り場へ急ぐ。


シャモニの街外れにあるリフト乗り場から一気にエギーユ・デュ・ミディ展望台へ。
街があっというまに小さくなる。





目の前に開けるのはモンブランからシャモニの街を挟んで反対側のエギーユ・ルージュ(赤い針峰群)の山々。





エギーユ・デュ・ミディの展望台に着く。3842mということは富士山の3776mよりも高く、そこまで一気にリフトで登ることができる。
けれどこの時、旅の疲れとジュネーブでの寝不足(いびき!)がたたり高山病に。
頭の後方がずんずん痛くなって、かき氷をかき込んだ時みたいに眉間にしわがよりっぱなしだった。
呼吸も乱れ、酸素不足で息切れ。くらくらに。
途中リフトの乗り継ぎ駅があるので、無理せずそこでしばらく体を慣らせば良かったのだけど、あまりの快晴にこの期を逃すまいと一気に登ったのが良くなかった。
やっぱりなめたらいかん。ラヴォーの丘とはひと味違う消耗の仕方だ。

でも展望台から見た、この世界。
大地。地球。





振り返るとモンブランの頂き(4810m)がすぐそこにあった。





モンブランは「アルプスの女王」や登頂される以前までは「魔の山」と言われてきた。
けれども展望台の裏手に広がる針峰群の方がよっぽど魔の山だと思う。
4000m級の山がそそり立ち、モンブラン以上に険しい表情を見せている。





それでも険しい山々に挑戦する人は少なくない。
”アルピニスト”と呼ばれる彼らを見て、最初は異常だと思った。
雪に覆われた、険しすぎる山々を目の前すると、なかなか挑もうとは思えない。
専門的な知識と装備、それらを身につけた上で果敢に挑戦するのだ。
この時僕はスニーカーでここに立っていて、滑って落ちたら一発でさようならだった。
日本では関取やプロ野球選手を見ると、そのがたいの良さに驚き、自分とは一線を画した人に見えるが、この時針峰群に挑むアルピニスト達もそれと同じように見えた。とにかくでかい!

















エギーユ・デュ・ミディの展望台。
富士山よりも高いこんな崖っぷちに、これだけの展望台を造る人間の好奇心と粘り強さに驚く。




800万人を越え、大都市と呼ばれる東京に住み、それなりに馴染んできたと思うが、小っちぇえな。
小っちぇ小っちぇ。
現実逃避ではなくて、それぞれが抱える悩みの大きい小さいでもなく、大地の大きさが身に染みたら、存在のちっぽけさとそれでも生きているかけがえのない今を大切にしていこうと思える。
旅の重みはそういうことをどんな時にも思い知らせてくれる、ということではないだろうか。






ジュネェ部

2008年11月14日 | Weblog

〈ジュネーブ〉

ラヴォー地区を歩き、ローザンヌに戻った次の日、レマン湖周辺のヴヴェイとニヨンという街を訪れ、それから鉄道でジュネーブへ。
ジュネーブは横長のレマン湖のフランスよりの端にある街。
多くの国際機関(国連ヨーロッパや国際赤十字委員会など)の本部やさまざまな美術館、博物館がある。
レマン湖を囲むように街はつくられ、街にはローヌ川が水量豊かに流れている。
今までチューリヒを除き大きい都市といえば、ベルンとバーゼル、ローザンヌくらいだったので、ジュネーブの街の大きさや人の多さに少したじろいだ。
かなり油断してた。
もろに田舎もんしてた。

通りには有名ブランドが並び、いろんな国からの観光客、大きいホテル。
東京よりは全然小さいにしても、田舎をまわっていた身にとっては恥ずかしながらきょろきょろしっぱなしである。
それからなにしろジュネーブの宿をとってなかったので、ともあれユースに駆け込み、2泊分を確保。

3人ドミトリーで初日は中国系の若者と中東系のおっさん。
2日目はドイツ人カップルと一緒で、今まで一人部屋だったため気楽すぎて、その分やや緊張したし、どちらの日もみなさんいびきが激しすぎて不眠。

昼間はジュネーブをいろいろとまわる。
国際連合ヨーロッパ本部、国際赤十字・赤新月博物館、国際宗教改革博物館、アリアナ美術館など。
街が広くてかなり歩きまわった。


旧市街の丘の上にあるサン・ピエール大聖堂の塔からはジュネーブの街とレマン湖、大噴水が見える。






大聖堂の裏の方はとても古い街並が続いていて、そこにひっそりとジャン・ジャック・ルソーの生家がある。
日本語の音声ガイダンスもあってとてもわかりやすい。





ふらふらと立ち寄ったのはジャンケンポイという雑貨屋で、スイス・フランス語圏やジュネーブで活躍する若手アーティストやデザイナーの雑貨と作品が置いてあった。
オーナーは日本語もけっこう話せてとても優しい人。





ジャンケンポイがある場所は旧市街の外れで、ブランド店が並ぶローヌ通りという大きな通りからも離れていて、人も割と少なくて良い。
小さなケーキ屋やカフェが路地裏にあって、おもわず立ち寄って一服。
アップルパイは6CHF(750円くらい)で、相当おいしいしめっちゃ糖分補給。






自然史博物館。
ここも街の外れにあるのだけど、すごいマニアックでいい。
しかもあらゆる生物の剥製や骨格があって、その量が半端じゃない。
鳥とかほんとに世界中の全種類いるんじゃないかってくらい。






ジュネーブといえば大噴水で、観光客もたくさん。日本人もいっぱい。
でも高さ140mまで噴射されるこの勢いは近くで見ると、やっぱりすごい。




ジュネーブを出発したら、次はいよいよアルプスの山に突入。
バスで国境を越え、フランスへ。ヨーロッパ最高峰のモンブランのある街シャモニに向かう。
都会からまた一気に山へ。



ラヴォーの丘 02

2008年11月09日 | Weblog

〈ラヴォー地区 02〉

ラヴォーの丘はまだまだ続いていた。
丘の頂上へ行くのはあきらめて、長い長いぶどう畑を横切って歩くことにした。





赤ワイン用のぶどうも発見。






気がつくとかなり上までやってきていた。
湖に沿って鉄道が走っているから、だいぶ登ったと思う。






途中、ベンチでひなたぼっこしている老夫婦と出会う。
やはりぶどう農家だということで、「うちのぶどうは最高よ!」と自慢げに話していた。
そして、ワインはもとより、ラヴォーのこの見晴らしの良い丘と、そこに吹く風や、土や水をとても愛している。
生きているその場を心から愛することはとてもすごいことだ。
隣にいる人を愛して、慎ましい生活と、何よりそれに満足できる心なんだと思う。
だから訪れる人にも「ここはほんとにいいとこなんだよ。」って言える。
とってもいい笑顔だったから、おもわず写真を撮らせてもらう。
何を血迷ったか、せっかくワインを1杯すすめられたのに、僕は「水を下さい。」と言って、水をもらった。
今回後悔したことの1つだ。
でも水もおいしかったけどね。
おばちゃんはかなり積極的に(もはや貪欲に)ラヴォーの良さを話して聞かせてくれた。
それから自分で言った言葉に自分でうけていた。ちょっと関西を思い出す勢い。
隣でおっちゃんはにこにこ笑ってうなずいている。
やっぱり、女性の勢いがある家や街は明るく、空気がはじけている。
おばちゃんはおっちゃんよりも日に焼けている自分の腕っぷしを自慢げに見せて、自ら大爆笑していた。




夫婦と別れて、キュイーの駅に向けてまた歩き出す。
強い日差しと、レマン湖からの照り返しがとてもきつかったけど、それこそがラヴォーのぶどうを育んでいるんだろうなー。





ずんずん歩いて道に出て、下り坂になる。
途中やっと噴水を見つける。
ぬるい!それからちょっと土の味がする。地下水そのままだと思う。
でもがんがん飲んで、ペットボトルも満杯にした。
今回飲んだ水の中で一番助かった水。





ヨーロッパは自転車競技やトライアスロンが盛んだけど、納得。
このあたりはずっと坂道で、一体どこから登って来たんだろうと思う。
めちゃくちゃ暑いし、噴水もほとんどないし、きっと大きい街から来たのだろうけどそれもずっと先の方やし。
何人も自転車で黙々と坂を登る人を見る。
競技じゃないのに思わず「がんばれ!」と声をかけたくなった。




下りはじめる。
石の階段があちこちにあって、畑の真ん中を勝手に降りて行く。




足元にはぶどうの苗木が植えてあった。これから陽の光を浴びて、農家の人に丹精込めて育てられ、実をつけるのだろうな。





老夫婦にしても、ぶどうをくれたおっちゃんもとてもいい笑顔だった。
1年という時間をかけてじっくりぶどうと向き合い、愛情を注ぎ、育てる。
人々に幸福な時間をもたらすものを創る、というのはただテクニックや腕前だけではないもっと大切な何かがあるのだ。
ふと上を見上げたらずっと上の方までぶどう畑が広がり、そこには何百年も受け継がれて来た文化と、それをしっかりと受け継いできた今がおいしそうなぶどうの実となり、たわわに実っていた。








ラヴォーの丘

2008年11月08日 | Weblog

〈ラヴォー地区 01〉

キュイーで下車し、ますますこのあたりが好きになった僕は次の日、朝からモントルーに行き、ヴヴェイ(Vevey)という街に行った後に、またラヴォー地区にやって来た。
今日はぶどう畑を歩こうと決めていて、降りたのはサン・サフォラン(St.Saphorin)。
それから3駅先のキュイーを目指して歩く。

サン・サフォランの駅にある噴水で500mlのペットボトルに水を汲んでとりあえずぶどう畑の上を目指して登る。
思ったよりも急勾配で、頂上は遥か上の上だ。
途中民家の庭に入り、農道は行き止まり、引き返しては登る。
狭い農道は車の入る余地はなく、きっと徒歩で畑を行き来しているであろうぶどう農家の人を想像してみる。

2007年に世界遺産に登録されたぶどう畑の広がるラヴォー地区、以前同じようにぶどう畑と街が世界遺産に登録されたフランスのボルドーにほど近いサンテミリオンを2度訪れたことがある。
同じぶどう畑でもそこは広々とした盆地にぶどう畑が広がり、中心の丘の上に街がつくられていて、なんとぶどう畑の地下に古くからワインの樽が貯蔵されてあった。

このラヴォー地区はサンテミリオンとは違い、レマン湖の岸からずっと上の方に向けてぶどう畑がつくられている。
つまり、斜面にぶどうの木を植えて、日光をまんべんなくぶどうに浴びせているのだ。
日本でいうなら、瀬戸内のみかん畑ににている。
愛媛や和歌山でも同じように山や海岸からの斜面にみかんの木が延々と続くのを見たことがある。
日照条件のよい土地ならではの作物の作り方だ。


なかなか頂上に辿り着かないので、休憩がてら今来た道を振り返ると、レマン湖の眺めと湖から吹き上げてくる風が心地よかった。






ラヴォー地区ではデザレーやラヴォーという白ワインが有名。
スイスワインの中でも有名なヨハニスブルク(白)はお隣のヴァリス州で盛んにつくられているようで、やっぱりスイスワインは赤より白のイメージが強い。
あーワイン飲みたい、というよりぶどうが食べたい!
この時点で500mlのペットボトルはただの空き容器になっていて喉もからからやし。







ぶどう畑だけじゃなく、点在する丘の上の街ではワイン品評会や試飲も行われているらしいのだけど、結局場所がわからず、ただひたすらぶどう畑の中を歩き続ける。
ちなみに湖の対岸に見える山々はもうフランス。レマン湖岸でもこちらスイス側は陽の辺りがよく、フランス側は日陰になる時間が多い。しかもなぜかそれを自慢するスイス地元民が多い。







途中、やっとぶどう農家のおじさんと出会う。ひとふさのぶどうを分けてもらう。
それから写真を撮らせてもらおうとすると、とてもシャイでなかなかこちらを向いてくれなかった。
いいおっちゃんやった。
サン・サフォランから歩いて来たのだというと、笑われた。
かなり歩いたけど、ぶどうをもらって復活してもう少し歩くことにした。
ぶどうの実はプチッと口の中で皮からはじけ出て、太陽の光ときれいな水を吸い込んでみずみずしく濃厚で、あまりのおいしさに、おっちゃんが仏のように輝いて見えた。






もし、つまらなさそうにぶどうを育てたり、やりがいなくワインをつくっていたら、きっと出来上がったワインはあんまりおいしくないんだろうな。
陽の光を浴びて、毎日をこつこつとぶどうと共に生きる。
だから僕たちが口にする時には最高の味になっていて、おもわず笑い、幸福な時間をもたらしてくれるのだと思う。
それはいうまでもなく、作り手がぶどうとワイン造りに誇りを持ち、喜びを感じているからだろう。
はたしてそれを受け取る側はそれに気づくことができるだけの心の余裕があるのだろうか。
作り手が、日々の労力と汗、いいワインをつくるという意思や味にしみ込んだその伝統を、口に含んだ瞬間に受け取ることができるだろうか。






レマン湖

2008年11月05日 | Weblog

〈レマン湖周辺〉
フリブール/フライブルクの駅を出発しローザンヌへ。
ローザンヌから先に行けば、ジュネーブその先はフランス。
この地方はレマン湖という湖周辺に大きな街とワイン造りが盛んな小さな街がある。

ローザンヌに着いたのはお昼を過ぎていて、ローザンヌ市街を歩かずにホテルに荷物を置いて再び鉄道へ乗り込む。
レマン湖沿いのモントルーへ行くためだ。
ローザンヌからモントルーの街へは鉄道で20分あまり。この街はスイスで最初にホテルができた場所で、スイス観光が栄えて来たのもこの場所が始まりになったとも言われている。
レマン湖のほとりをぶらぶら歩く。

シヨン城という13世紀頃につくられた城が駅から歩いて45分くらいのところにあり、そこまでなんとか歩こうとしたけど、あまりの遠さに望遠レンズで覗き込んでよしとする。
それから、また湖沿いを折り返して歩きながら帰る。
ホテルが全て超高級そうだ。
ガキが白いポロシャツでピカピカの靴下はいてテニスコートでテニスをしている。
ものすごくバカンスだ。
パコーン。
きれいな毛並みの大きな犬が飛んで行ったボールを追いかける。

それから湖畔で圧倒的な存在感をかもし出している銅像を見る。
そう、これあの人です。
クイーンのフレディー・マーキュリー!
中学生のころクイーンをよく聞いていたのを思い出した。
世代は全然違うのだけど、たまたまつけたラジオから聞こえる彼の声は凄まじすぎた。
僕の洋楽の入り口はビートルズでもピストルズでも、レイジでもハウリンウルフでもボブマーリーでもディランでもなくクイーン。
クイーンは70年代ロックで、格好も相当な古さをかもしだしていたからなかなかクイーンまじかっこいい!と当時は言えなかったのですが、情けない。今なら言えます。フレディ最高!
彼の透き通るようでどこまでも突き抜ける声、We Will Rock Youはもちろん。
Save MeやSomebody To Loveの歌声はたまりません。
Seven Seas Of Rhyeの泣きのバンド演奏でスコッチもう一杯おかわりできます。
多くの人がこの像に集まっていました。きっと世界中からクイーンとフレディ好きがやってきてるんだろうなぁ。



それからまたローザンヌへの帰りの鉄道に乗り込む。
真っすぐ帰るつもりだったけど、途中ワインのぶどう畑を発見する。
2007年にレマン湖周辺のこのラヴォー地区のぶどう畑を含む景観が世界遺産に登録されたのは知っていたけど、世界遺産とか抜きに下車したくなったのでキュイー(Cully)という駅で降りる。



キュイーの駅で降りたらあたりは少し陽が傾きはじめていた。







「こいつはクッキーっていうんだ。」とぶどう農家のルシアンが話しかけてきた。
「キュイーはいいとこだよ、水がきれいだし土がいい。」だって。
いいね、真っ白のなポロシャツでテニスしてるガキにならなくってよかったなルシアン。




フリブール/フライブルク

2008年11月02日 | Weblog

犬と猫、皆さんどちらが好きでしょうか。
ちなみに私は大の猫好き。
物心着く前から猫に囲まれた生活だったからだと思います。
とはいえ飼っていたわけではなくて、港町なのでいたる所に猫がいたというかんじ。
一人山へちゃんばらにこもる時も猫が着いてきて、野球の素振りを電柱の照明の下でする時も猫が話し相手。
代々うちに住み着いた猫は僕が記憶する限り、シャム、クロ、のら、次郎やサスケなんて名前でした。
家の裏で魚をさばく祖母にしてみれば、隙あらば魚を狙うあくどい存在で、どの猫も「バカ」という立派な名前を命名していました。
それでも祖母は勝手口から家に入る時にきまって魚のアラを残して猫が食べれるようにしたり、いつも大きい猫にエサをとられたりする弱い猫にはアジの頭なんかをこっそり投げてやっていました。
だから祖母がどの猫を「バカ」と言って怒っても、猫たちはにゃあ。
あっちいけバカ!でもにゃあ。
そんな日暮れ前の風景が懐かしく思えます。

ということでやってきたのはフリブール/フライブルク。
何を隠そうここには『猫の塔』なるものがあります。
うひょー、テンション上がる上がる。先日のバーゼルでのハードな日程(しかもここに来る前に早起きしてソロトゥルンという街の取材もしてきた)も忘れるくらい期待してるよー猫の塔!

と、思いきや猫の塔は下の写真の城壁の左端にあるものと真ん中の塔のことをいうようでちょっとがっくり。
もっと猫をちょうだいよ、もっと猫の形とかさ、猫の顔のモチーフとかさ。
でも猫の塔の周辺で猫にも会えたし、猫の塔に寄りかかって寝そべる羊(上の写真)も見れたし、猫の塔の隣にある家にはすごい大きい犬がいたし、有意義な時間を過ごせたと思う。




フリブール/フライブルクはドイツ語とフランス語の境目のためビール/ビエンヌと同じように街の名前が両方の言語で表記されています。
街自体は1157年からあるもので、ヨーロッパでも1、2を争う古さ。
サリーヌ川が街の中心を流れていて、とにかく坂が多い。
というのも川の岸壁の上と下に街があり、駅は崖の上にあるのだけど、こじんまりした民家などの多くは崖の下にあるのです。
だから駅を出て、崖の上を一通りまわりそれから下の街へ。
下の写真は下の街にあるサリーヌ川にかかるミリュウ橋から。
崖の上の街や、街で一番大きい教会「聖ニコラ聖堂」もきれいに見えます。



崖から降りて下の街へ、それから崖の反対側にある丘の上へ。ここからはフリブール/フライブルクの街の眺めが最高です。街の中心からはかなり歩かないと行けないし、登り坂も大変だけど丘の上に街を眺めるベンチなんかもあって古い街並をゆっくりと見渡すことができます。



でも喉からからな僕はここまでやってくるのにだいぶ苦労しました。
それでも歩かないときれいな景色は見れないということで、かかってこいや坂!とぶつぶつ独り言を言いながらがんがん登る。







それから丘を下り、再び下の街へ。しばらくぶらぶらして上へ上がるためのケーブルカー乗り場へ。
下の街と上の街を結ぶこのケーブルカーの動力は水力で、約15分おきに上と下を行き来します。







この旅で出会ったある人は「日本人はドイツやスイスの人の3倍働いているから、ほんとは日本人は3倍豊かじゃないといけないはずなんだけどな。」と言っていました。
「豊か」という定義が曖昧でとても難しいし、日本人がスイス人より豊かじゃないとも思わないし、スイス人が日本人より豊かだとも思わないけれど、ゆったりと登って行くケーブルカーに乗りながらふとそんなことを思い出してフリブールの町を眺めてみた。
ふとした時の優しさや、微笑みというものをスイスで見る度に、人間の持っている素朴な愛情を自分自身に思い知らされたのは確かです。

それから上の町をぶらぶらまわって撮影して、何人かの優しい地元の人から道を聞いて駅へと向かう。
ちなみにさっき登った丘へは、下の写真に写っている右から左上にあがる道を歩いて登りました。
猫の塔のある街で、だいたい優しく道を教えてくれた人は犬の散歩をしている人たちでした。


バーゼル 02

2008年11月02日 | Weblog

〈バーゼル 02〉

一日中、バーゼルの美術館と博物館をまわってみた。
すごく沢山あるのはいいのだけど、体力と精神力を使い果たしてしまい、のちのちこの疲れを引きずってしまった。
そういう気合いの入った周り方ってどうなんだろうな、と思うのだけど、撮影しないといけないので気合いを入れなきゃまわれん!ということで行って来ました。
上と下の写真は建築博物館。タンゲリーの噴水の横にあって、スイスの建築史と現代建築に用いられる様々なデザインや建築構造が館内に展示されてあります。




それから建築博物館の近くにある歴史美術館へ。美術館というより造りが思いきり教会でした。
中世以降の教会や貴族が所持していた装飾品が展示されてあります。







市街から少し離れた丘の上の音楽学校の敷地内にあるのが古楽器博物館。
古い打楽器や金管楽器、ピアノなどが数多く所蔵されていて、かなり興奮。
ここは音楽学校の中だから、どこからともなく楽器の音が鳴り響いていて、自然に展示されている一つ一つの楽器をその時代に鳴らした人のことを想像してみたりした。
そういや僕が初めてドラム叩いたのが高2の時で、田舎のひどくぼろい小屋だったなー。






バーゼル市立美術館。正面入り口にロダンの「カレーの市民」がどーん、と展示されてる。
あんまり印象的なので、館内よりもこの彫刻に時間を費やす。
全く彫刻は無知だけど、まじかで観たこれはインパクトが強かった。






実は家に見えるこれも博物館。
カルカトゥール・カトゥーン博物館というイラストの博物館。
行く前からかなりここは興味津々やったけど、以外とマニアックじゃなくていまいち。
もっとマニアックでぐじゃーっとしたのが観たかったけど、ディズニーとか一般的すぎる感じがあって正直うーん、というかんじ。







バーゼル現代美術館。中は撮影禁止だったので写真撮れなかったけど、ここはかなりおもしろい。
一言では言えないのだけど、アマチュアじゃない感たっぷり。
美術にプロもアマないのだろうし語弊もあるのだろうけど、通りの絵描きとはひと味もふた味も違うな、と思う(通りの絵描きがアマだということではなくて、多分それは僕自身がモンマルトル以外でまともな通りの絵描きと出会っていないから)。
洗練されていて、しかもきちんとぐちゃーっとしていてよい。




それから紙博物館といくつかまわってへろへろ。
ホテル近くに戻って、安いケバブ屋でご飯を食べる。
店員と仲良くなり過ぎてビールとご飯をおごってもらい、沢山話しをした。
スイスの性(ヨーロッパのエイズ感染問題とか)について、とかバーゼルの裏話をごりごりしてかなり生々しい話しが聞けた。
途中、若い日本人学生の男女三人がやってきて、話しかける。ビールを沢山飲んでいたのですごく不審がられて苦笑い。
汗だくで歩きまわって、そろそろヒゲもぼうぼうで、酔っぱらってるケバブ屋の奥から出て来た日本人。
何年か前、パリで夜中に歩いていて日本人に声をかけたらダッシュで逃げられたのを思い出した。
そういう時、一緒に酒飲みながら旅できる奴がいたらな、と思ったりする。
まぁ、ビールはうまいしおもしろいおっさん達とも仲良くなったからよしとしよう!

バーゼル

2008年11月01日 | Weblog

〈バーゼル 01〉

川のある風景っていいなぁ、と思う。大きな川なら水量も多くて、荷を積んだ船が行き交い、岸辺にはその川の大きさに見合った階段やベンチ、散歩道なんかがある。

バーゼルはスイスとドイツ、フランスの国境の街。
かなり大きな街で、その真ん中をライン川がのんびりと流れている。
バーゼルで泊まったホテルはクラフトというとこで、ヘルマン・ヘッセがよく泊まったというホテル。
ライン川に面した静かで落ち着いたホテルだった。今回はヘッセの本を持って来ていないけど、ヘッセの詩集やなんかをよく読んだなぁ、と思いながら部屋に荷物を置いて、少し撮影してからライン川に出てみた。

当然なんだけど、大きな川の周辺には大きな街ができるのだなぁ、と改めて思う。
ロンドンのテームズ川や、パリのセーヌ川、いやいや地元江津の江の川だって負けてません。かつて銀山で栄えた天領地。そんな風にしていろいろな水辺の風景を思い返しながら、ライン川の岸辺の階段でくつろぐ。

ところでバーゼルはスイスの中でも特に興味深い場所だ。経済がチューリヒ、国際機関がジュネーブ、文化がベルンなら芸術のバーゼルだ。
なんせ美術館や博物館が沢山ある。
3カ国の国境の街であるため、様々な文化が入り交じったということも大きな要因だと思う。
スイスではグラフィックアートが発展してきた。
それはスイスは4カ国語(ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語)が公用語であることが背景としてあげられる。
昔からスイスでは様々な展示会やコンサートが盛んで、その宣伝ともなるポスターを4カ国語で表記し、そのポスターをいかに表現するか、というタイポグラフィックが元をなしているというのもお国柄なんだなぁと思う。
でも日本も4カ国語とはいかないけど、漢字、ひらがな、カタカナとかなり複雑な言語だし、言葉を言葉以上の表現として、美しく表すことができると思う。見せるだけではやっぱりだめで、字にした言葉にしても、話し伝える言葉も言葉以上の人の行動としてきちんと使っていかないとな、と思う。
川岸でぼやっと考えてそろそろと街中へ出発。



タンゲリーの噴水。タンゲリーは建築家で、今回はタンゲリー美術館行けなかったけどここでこの噴水を見れて良かった。
この噴水は写真だととてもわかりづらいのだけど、一つ一つが動いていて、水力を活かした造りになっているのだろうけど本当に無駄がない。



街中を走るトラム。バーゼルは大きな街だからトラムは本当に便利。




やっぱりこの日も歩き回って噴水さまさま。もうね、ほんとになんならつかりたいくらい。



日が暮れて来て、大通りから路地裏へ。路地ばかりうろついてる気がするいつも。




最後はやっぱりライン川に戻って来た。




バカみたいに歩き回っても最後はこうして戻ってきて、ここに座れるようにこの場所はずっと昔から人々の集まる場所として存在してきたのだと思う。