日記

Hajime

昨日の飲み会はいつものごとくグタグダだった

2013年02月28日 | Weblog


インドのことをふと思い出した
灼熱の砂漠の、世界の片隅のような村の、小さな家の入り口で過ごす母娘のことを


今、写真でレジデンスをしている人の本を読んでいる
東北の海岸沿いの小さな街の松林に住んでひたすら写真を撮り続け、
ひたすら自分とその土地と人々と向かい合いながら写真を撮る人の本
レジデンスはこうでなくてはならない、そう思う

“イメージを身体に入れたり出したりするからには、たとえどんなによくないことが起こるのだとしても、やっぱり私自身が引き受けなければならないという気持ちもあります。そうする覚悟がなければ、切実なイメージとの関係のうえに写真は生まれないし、きちっと目の前に立ち現れてこない。写真を撮ることは、あるイメージを外から見つづけるだけのように感じるときもあります。”

印象的な言葉だった



それから今日、とある詩人の方と電話で話した

大学で、自殺に関する講演をした際に、
焼身自殺で息子を失った家族の話しをしたという

『沈黙の時間』を過ごす

そのことについて
話しを聞いた

悲しみから逃げることもごまかすこともできず、現実を生きるしかない。
それを引き受けたとき、「悲によって」智の言葉が生まれる

そのような印象だった
本来は悲しみとか苦しみなど味わわなくてもいいのだと思う人は
ハッピーに生きていればいいのだと思う
だから深い話しみたいな悲しみを乗り越えた経験による優しい話しなどはとても嫌いである
そんな不幸は被害妄想である
深い話しなど、何かを乗り越える苦しみなど本当は人は経験せずとも幸せに生きていければそれだけでよいのだと思う


しかしそれは絶対不可能


たまにインドのことを思い出す









どうして旅に出なかったんだ

2013年02月26日 | Weblog

と、言い放ってやりたい場面もここにいたら感じることは少なくない




先日、松江に友部正人さんが来られてライブをしていた
それを聴きにいった

少しずつ染み入る友部さんの唄は
良いとか悪いとかそういうものではなく
ただ染み入るという唄があるのだと感覚で受け取らせてもらえるものだった


一番印象深かったのは「どうして旅にでなかったんだ」という曲
ずっと外へ旅をしてきたけど
私は生まれ育った場所に近いところに戻って来て数ヶ月、呻きに似たいらだちを抱え続けた時ばかりだったけれども
この街で初めて感動する場面に出会い
戻って来たという短い言葉では言い尽くせないような、戻ってくるというこれまでの様々な経験からくる決心自体が間違いではなかったような気がしたライブだった

この街自体はどうしてもまだ好きになれそうにないけれど
それでもしばらくはここでやっていこうと思う
今までの経験は全て無駄ではない、旅に出ていたことは決して無駄ではないと思わせてくれるような
もう一度ここから出て助走をつけて飛び立つ力をくれるような素敵な曲と夜だった

友部正人 どうして旅に出なかったんだ




風の旅人が復刊していた

2013年02月04日 | Weblog

イヤなことを言われて心がズタズタに傷つく時は必ず来る。
だけど、そこからもう一度戻ってこられるかどうかが勝負。
絵を続けるための動機は、絵をはじめた時の動機よりも、ずっと大事 -Takashi Murakami



特に村上隆を敬愛しているわけではないけど、
確かにそうなんだよなぁ

なんで写真を撮り始めたのかなんて既に大した問題ではなくて
撮り続けるうちになぜ続けるのか、と問う、そしてまた撮る、
という積み重ねの繰り返しの中で研いだり柔らかくなったりすることの中にある非人情的な感覚の方がすごく大切だし、
何よりその感覚がとても好きだと思う


かぜ

2013年02月02日 | Weblog

公共というけれども
公共公共というのですが

公共とはなんだと考えると

公共であるならば

公共であればこそ

攻めろしかけろ、と思います

波をたてろ

やりたいことをやれ

でなければついてくるものもついてこない

周りの雑音は気にするな

公共だからこそ

おごらずにやりたいことをやれ

ここで負けるな