インドのことをふと思い出した
灼熱の砂漠の、世界の片隅のような村の、小さな家の入り口で過ごす母娘のことを
今、写真でレジデンスをしている人の本を読んでいる
東北の海岸沿いの小さな街の松林に住んでひたすら写真を撮り続け、
ひたすら自分とその土地と人々と向かい合いながら写真を撮る人の本
レジデンスはこうでなくてはならない、そう思う
“イメージを身体に入れたり出したりするからには、たとえどんなによくないことが起こるのだとしても、やっぱり私自身が引き受けなければならないという気持ちもあります。そうする覚悟がなければ、切実なイメージとの関係のうえに写真は生まれないし、きちっと目の前に立ち現れてこない。写真を撮ることは、あるイメージを外から見つづけるだけのように感じるときもあります。”
印象的な言葉だった
それから今日、とある詩人の方と電話で話した
大学で、自殺に関する講演をした際に、
焼身自殺で息子を失った家族の話しをしたという
『沈黙の時間』を過ごす
そのことについて
話しを聞いた
悲しみから逃げることもごまかすこともできず、現実を生きるしかない。
それを引き受けたとき、「悲によって」智の言葉が生まれる
そのような印象だった
本来は悲しみとか苦しみなど味わわなくてもいいのだと思う人は
ハッピーに生きていればいいのだと思う
だから深い話しみたいな悲しみを乗り越えた経験による優しい話しなどはとても嫌いである
そんな不幸は被害妄想である
深い話しなど、何かを乗り越える苦しみなど本当は人は経験せずとも幸せに生きていければそれだけでよいのだと思う
しかしそれは絶対不可能
たまにインドのことを思い出す