日記

Hajime

ハッピー☆

2008年02月29日 | Weblog

田舎について考える
近くにもんぺ姿で畑作業にいくおばあちゃんがいた
名前はもう思い出せない
ぼくがまだずっと小さいころ

あさ、畑へ行くおばあちゃんはうちの前で一休み
うちの前の犬にアメをなめさせる
なめさせたアメを今度はぼくがなめる
犬がなめる
ぼくがなめる
アメなくなる
太陽はぎんぎん
ふところからばあちゃんのおっぱいがぼろんとでてる
その横でアメなめるぼくと犬
おばぁ、しゃくしゃく笑う
ひとりっきりで住んでてぼくが中2くらいで死んだ

火を見つめる
炭でまっくろになった壁
風呂炊きかまどから木が熱を発してる
すごいエネルギー
おじい、火を見つめる
時などいらぬ、1時間でも2時間でも見つめる

沈黙
無言や無口ではない、沈黙
それ自体が世界
ふくろうがほろほろ鳴いてる
おじいとおんなじだけの沈黙の力をもった山が沈黙の世界でぼくに乗りかかる

生命のエネルギー
圧倒的な熱と力
昼の光は夜の深い闇にはかなわない
けれど逆もおんなじね
でも光の中に闇はない、闇の中に光がある
夜空の中に星ひかる

そういう命の力たち
恐ろしくて圧倒的なもの
それを淵まで行ってつかんでくる
彼らがそこまで行って見たものを
どこまでいけるかな

深い底にしかないあの生命力
一歩、また一歩近づいていく


とにかく行かなきゃ
得体の知れないそれをつかまえに

まぬけな面をさげてようやく戻ってくる

それから言う
阿呆面で言う
あの言葉を言うんだ


.............

ハッピー☆

わたしん

2008年02月19日 | Weblog
今日はお茶の水から新宿まで歩く歩く。
お茶の水で安めのグレッチ、ベンジーがなかなかでてこないから、ジェーンとしておいてグレッチでぶってとうたう。
飯田橋と水道橋は大学と病院とカモメ眺める。ハトかと思ったらカモメじゃん。素敵。

四谷で道間違える。
こういう間違え大好きだけど足がぼーぼーなので引き返す。
つつじの下の猫とけんかする。しゃー。

ここいちでカレー食う。
店員さんオーダー間違える。頼んでないのに4辛出てきてびっくり。辛いカレー、2口で店員呼ぶ。
店員さん沢山謝る。許す。許される。

新宿駅あたりで宇宙パワーみたいな店に入る。世界中の怪しげなものある。
レジは紫ののれん。店員は鈴とお経で祈祷しとる。
素っ裸のフランス人形も色のはげた仏像もある。変な石も外国の神様も2万円のキーホルダーもずらっとある。おかみさんハイテンション。主人レジで祈祷しとる。
いろんな人おる。店出る。隣は葬儀屋。
いろんな店ある。いろいろ頼る人おる。

服屋でしつこくからまれる。
靴屋で案外ほめられる。
古本屋よる。2段目指でつーっとさぐるとヘミングウェイあり迷う。いかがわしい本どどーんとのきをつらねて人々は真剣さをよそおいまじめっぽくいかがわしい本めくる。

空が暗くなる。
歌舞伎町明るくなる。梅の花赤くなるのはもうちょっと。花食べて梅の味したの思い出す。

足がぼう。でくのぼうで帰る中央線。


今日カメラ持ってないのにきづく。


洞窟 (後)

2008年02月19日 | Weblog
足下の砂地にたき火の跡がある。たきぎの中央は焼け落ち、黒く尖っている。
木の端の方は燃え残り固い松の木の枝がうす黄色くむき出しになっている。すぐ側に太い木が転がっていてそこに腰を掛ける。

遠くでセミがじりじり鳴くのが聞こえた。この洞窟の外はまだきっと雲は白く、裸の子どもたちは湾で釣りをしている。
ぼんやりと砂を眺める。


「どこから来た。」後ろから男が言った。はげかかった頭の脇から長い髪がひょろひょろと伸びている。
新聞みたいな色の布を何枚も重ね、袖なのかどうかわからない布の継ぎ目から両手がでている。
「港のむこうから。」私は答える。
「じきに夕暮れだ。」と言って男は洞窟の奥の方から松葉と小枝を持ってきた。燃え残った薪を集め、何本かの新しい木を積み、松葉と小枝を乗せ、火をつける。
「町から来たんだろう。」男は言う。
「はい。」私は答える。
「その顔見りゃあわかるさ。ここらへんの奴じゃ今頃とっくに真っ黒に日焼けしてるからな。」
火は松葉から小枝に燃え移り、小枝もしんなりと赤くなっている。

「俺もよ、町にいたころはよ、そりゃ強かった。なぐんのが嫌になってよ、みんな止めたけど出てったんだ。」
男は手をもみながら話した。火に照らされたはげかかった男の頭はところどころ皮がはげていて、ホッチキスで止められている。
「魚食うか。とってきたんだ。焼くとうめぇぞ。」手のひらほどの大きさの魚を男は取り出した。夏の日差しで変色している。
かすかに腐りかけた匂いが鼻を刺した。

二人で魚を食べた。
「昼過ぎに舟止場の裏へ行くとうめぇ魚があるんだ。」男は笑みをこぼして話した。
「裏のどのあたりですか?」まじめに私は聞いた。
「勝手に持っていくんじゃねぇぞ。あそこだ、魚をしまっとくでかい冷凍庫の裏だ。」男はまじめに答える。
それからしばらく火にあたった。


たき火のちょうどいい明るさに私はうとうととし始めた。その時男が言い出した。
「お、お前ここに何しに来た。そうか殴ってやる。お前みたいな卑怯なやつはそうだ俺が。」男は汗をだらだら流し、こぶしをきつく握りしめて立ちすくんでいた。
「さあかかってこいよ、この根性なしめ。勝手にのこのこ入ってきやがって。なんで勝手に魚なんか食ってやがんだ。」男の顔は血の気がひいていた。汗が顎から落ち続けていた。



私は後ずさったがふいに腹に痛みがはしった。さっき食べたばかりの魚を思い切り白い砂へぶちまけた。うずくまり腹をおさえる。顔を上げ、もうろうと辺りを見渡すと男は洞窟の壁を殴り続けていた。
それから町で有名だった拳闘家が暴行事件を繰り返し、刑務所に入り、その後行方知れずだという話をぼんやり思い出した。
呼吸が止まる。口の両脇から油のようなツバが垂れ続ける。セミが遠くでじりじり鳴いているように思える。
たき火の向こうで男がごうんごうんと壁を殴っている。
白い砂が入道雲のようによじれながら形を変える。



目が覚めたのはセミの声。
あたりにはただ白い砂が広がっていた。たき火の跡も男も何もなかった。ただ洞窟の中はひやりとした空気以外は何もなかった。目の前には私の吐いた魚だけが残っていた。
一晩中捜索していた祖父母には泣きながら怒られた。
洞窟にいたというと、そんなところに洞窟はないと言った。
次の日、くさい網の上に立っておいしげる草の向こうを見回したが、そこはごつごつした岩肌の絶壁が続くだけだった。




洞窟 (前)

2008年02月17日 | Weblog
夏休みになり、田舎の祖父母の元へ預けられることになった。
両親は「子どもは田舎で過ごす方が何かと良い経験になる。」とのこし、私を連れてきた日の午後には車で帰っていった。
祖父母の家は丘陵の頂上にあり、しゅろと松林に囲まれている。
家の周りにほとんど民家は見当たらない。かつては人が住んでいただろう家は今はもう木々に飲み込まれ、森の一部になりかけていた。
人の住んでいない家の中には森とおんなじだけの濃い闇と緑がからみついている。
一本の細い道が丘の下の町から家まで続き、それ以外は草を踏み倒してできた道がいくつか目的地に続いているだけだった。
それらはだいたい裏の畑や、港まで抜ける近道として使われていた。

祖父母の家に着いた日の午後、祖母も祖父もそれぞれの仕事、畑作業や釣り道具の手入れに精を出していた。
私は笹やせいたかあわだち草を踏み込んでできた細い道を通り港へ行く。
道は踏まれた草が枯れ、乾いていた。
しゅくっしゅくっ、と歩くたびに音を立てた。
道のあちこちはしゅろの木が陽をさえぎり、地面も空気もじっとりぬれていた。
蝉がぎんぎん鳴いている。
太陽はだいだい色に見えた。
草を踏むたびに小さな虫がはねた。それを追いかけるでもなく、踏みつぶすわけでもなくただ眺めながら歩く。
およそ灰色がかった小さなバッタだった。


港へ抜ける。
遠く灯台の下で地元の子どもが何人か集まってほとんど裸で釣りをしている。
湾の奥には大きな岩山が海へと落ち込んでいる。
遠目から見るとなだらかに海に入っていくように見える岩山も、近くまで行ってみると切り立った絶壁になっている。
それを下から見上げる。
道から岩山までの間には漁で使う大量の網やピンクがかったフジツボのついたたこ壷が山積みになっていて、夏の午後の熱さのため鼻をつくつんとした匂いがわき上がっていた。
その奥には背の高い雑草がもりもりと岩山のふもとまで続いている。

雑草の奥の岩壁に黒い陰が見える。奥へと続いているように見える黒い陰。
くさい網の山を登り、網の上から見るとやっぱりそれは穴だった。
一瞬祖父母の顔が私の頭によぎったけれど、そのまま網を降り、草をかき分けその穴へ向かっていた。


真夏の熱を遮り、ひやりとした空気の洞窟。
穴の入り口の右側からこけをつたって水滴が落ち、白い砂地の色をそこだけ濃くしている。

あまり奥へは続いていない。30メートルほどで行き止まりになっていた。



やっぱり地球は回り続けてる。

2008年02月14日 | Weblog
「なつかしい日本の遊び201」/角川書店
というのを読みました。

「なつかしい」というだけあって、さすがに今はあまり見かけなくなった子どもたちの遊びが沢山載ってた。
「花占い」や「笹舟ながし」、「あぶりだし」に「はんかち落とし」。
ひとつひとつにイラストと遊び方の解説が記載。

例えば、『影踏み』 [地面に写った人の影を踏む遊び。鬼を決めて、他のみんなは影を踏まれないように逃げ回ります。踏まれそうになったら、しゃがんで影を短くしたり、家や樹木の影に自分の影をうまく溶け込ませてしまえばよい。]と丁寧にうまい逃げ方まで手ほどきされてある。図鑑みたいでこれがおもしろい。子を持つ世のお父様、お母様にはとても参考になるのではないだろうか。


どれも心和む懐かしい遊び。誰もが一回は楽しんだ記憶。
ただ201もあるとだんだん遊びもつきてくるのだろうか、たまにとんきょうなものがでてくる。

「夏休みの町内掃除」 これは遊びなんだろうか。
「かきドロボー」はすでに犯罪行為である。きっと子どもならではのご愛嬌というところ。
あと「つばめ」にいたってはつばめの親子のイラストとそれを見上げる子どもたち。[毎年つばめは同じところに巣を作ります。]と、ややテーマを見失った感もいなめない。


そんな中私の一押しはこれ。
・「忍者ごっこ」 [「木の葉隠れ」「分身の術」「きんとんの術」など、本当はできなくてもフリだけは本気でします。]
無駄のない解説。「本当はできなくても」という大人なくだりが、ごっこ遊びをしていた当時を懐かしむ気配がありありとにじみ出ていて泣けます。

そして最後の201番目は「ひなたぼっこ」。
縁側で子どもらが集まってごろごろしてるイラストつき。


大人だから、子どもだからという垣根はほんとはきっとないかもね。
晴れたらひなたぼっこやごっこをして遊ぶ。
いつから大人になったって、いつから子どもじゃなくなったって、分かるもんでもなくて、ひょっとして自分の心が勝手に縛り付けているのかもね。

遊びを何かに活かすためのヒントにするもよし。
心の休息にするもよし。

晴れてる日には「気持ちいいなぁ。」と陽かりを目一杯浴びれる心がとても素敵。

わりと社交的な。

2008年02月12日 | Weblog
最近してること。

1.あだ名をつけること。
例えば水色の手袋をしてる人を見たら。
水色→池→琵琶湖→ブラックバス→ルアーとなります。
関連づけを延々とします。
この時注意しなければいけないのは「愛」のないあだ名をつけないこと。
例えば
水色→混色→あいまい→優柔不断→だらしない奴
みたいな愛のない方向に向かわないように心がける。
だっていくらでも出てくるもんですからね、自分勝手すぎる愛の無いあだ名は。

これは比喩がとても上達します。
脳の瞬発力。

2.脳内一人しりとり。
例えば「人間と植物以外の生き物の名前」
できるだけめったに使わない名前を記憶から引きずり出す。
難しいのはいくつかあります。例えば「ラ」。
ラッコやラクダはすぐ出てくるのであまり使わないようにします。
ラ...
らいちょう
→ウシ、ウナギ、ウサギ、とかはすぐ出るので避ける
なので
→ウズラ

するとまた「ラ」

しまった。

「ラ」

→ライギョ!!


ということで「ギョ」のつく生き物が思い浮かびません。
そこで初めて図鑑や資料で検索。
これは記憶の引き出しの風化をさける効果が抜群です。
そして細かい言葉の引き出しを広げられます。

1と2を組み合わせると、脳の瞬発力と記憶力が鍛えられます。
ただし本気で両方やると集中力は15分くらいづつしか続きません。
今、「ギョ」のつく生き物を探しています。
誰か教えて下さい。



全然話しは変わってずいぶん前。
歳いったお坊さんと話すことがあって、ずっと心に残っていることがあります。
田舎の坊さん。がさつでなまぐさで、それでいてどこか果てしない深淵を見つめる瞳のおっさん。

「人が用いることのできる切り口はまずたった一つしかない。」


私はその坊さんに負けじ劣らじなまぐさです。
いつかそのおっさん坊主とさしで飲みたいと思う今日この頃です。
とても不敵な笑みを見せたあのいなか寺のぼうずの言葉がなぜかずっと気になっています。

しりとりの「ギョ」くらいに自分を試されてる感があって、どんなきれいな言葉よりも、いきなり私を引き止め、見透かしたような目つきで投げかけたその一言が強く残っています。
それでいて、あれもこれも欲しがるなというような意味合いだけではない、「通じ合えた」みたいな空気(これもそうとう田舎の寺の境内で)が流れたのを覚えていて、あの坊主が何を伝えたかったのかその真意を身をもって確かめてみたいと思います。

だからあだ名づけや脳内しりとりでもって日々鍛錬を積み重ねようと思います。

へんてこだなぁ。
へんてこな坊さんだ。
そのせいでなまぐさだのなんだのいわれちゃうけど、へんてこは自分のわざを磨いていくしかないんだなぁ。


やさしいこえもあざだらけ

2008年02月01日 | Weblog

ちょっとたたいてなおった

ねこです

畑でうとうとねこみおそわれたねこです

さむいけどねこんでられないねこです


............

先日
ある文学賞において私の書いた物語が「審査員特別賞」を受賞いたしました。

表現の場がネット上、ブログやホームページなどにも広がり、どんどんと多様化している現在において、生身の審査員の方々による審査の結果として、一つの「作品」が受賞という評価をいただく難しさと感激を改めて痛感いたしました。
その間における葛藤や様々な感覚、きりのない自問自答、試行錯誤、真っ暗闇など屁です。
そんなもの屁です。
評価のためにやってるわけではないけれど、それでもすかしっぺ、にぎりっぺくらいのもんです。
この結果をして、それが今後どのように発展し、読者の方々に届くかはまだ確定しておりませんが、形あるものとしてその創作の結果が一つの賞をいただいたということをご報告させていただきたいと思いました。

そしてまだまだこれからです。
今後また良い報告ができればと思います。

またこの間多大にご協力いただいたI氏、N氏、K氏、S氏には心から感謝いたします。
今年はまだ始まったばかり。
猛然と行きます。


とんび飛べなかった
ペンは捨てなかった
と、畑でねこがうたっておりました。

それではまた。
どこかで。