日記

Hajime

道具屋

2009年12月28日 | Weblog

部屋の掃除をしていました
といってもそんなに荷物はないし、ぱっぱとできる程度のことなんですが

一旦はかどりだすと、調子に乗ってあれこれとまとめてしまったり、捨てたりしてすっきりです

しかし調子に乗り出すと、我を忘れるのが私の悪い性分で、勢いあまってどうやらお気に入りのペンまで捨ててしまったようです

まさに自業自得ですが、調子に乗りすぎると必ずきちんと冷静にならざるを得なくなることに、うまくできてるなぁと関心さえしてしまいます(単に私の詰めの余さですが)

それにしても大事なペンをうっかり捨てるとは阿呆だ

そこにあるとわかっていると、失ってみないと大事さがわからないのは当然な上に、再びそこにある状態に戻すということは、木がなくなった森のようになかなか元には戻らないし、きっと全く同じように元どおりにはならないように思えます

あーなくしてしまったペン......


なくしてしまった、というと今年はいろいろな方が亡くなった年でもあります


中でも清志郎さんとアベフトシさん、森繁さん、そして円楽さんと粋な人が亡くなられました


掃除をしつつ、ふとそんなことを考えていたら、古典落語の本が出てきてしばらく読み返していました

円楽さん、立川談志さん、六代目文楽など好きな噺家は多いのですが、粋という意味では五代目古今亭志ん生さんの話しぶりはたまりません

一言で粋といってもなんだかわからないのですが、志ん生さんの得意な噺で「道具屋」というお話があります

そこに登場するさえない道具屋の亭主と気の強い奥さん
何気ない生活にある夫婦の会話も彼が話すととても生き生きと感じられます


粋だなぁ、と思うのが普通に生活する人(どちらかといえばさえない)の何気ない生活の、何気ない会話や空気にスポットをあてていること


例えば大きな森があって、というより大きな話しになれば日本でも地球でも宇宙でも愛でも平和でもいくらでも大きなことをは言えるのですが、

そうではなくて森の木の一本一本、そしてその木の枝や葉っぱや花みたいな細かな部分に命を吹き込んでいるように聞こえるところが粋だなぁと思います

枝や葉っぱに命を吹き込むというのは、そこに意味を与えるのとは違って、実際に自分が枝や葉っぱになってみるということで、意味と違うのは意味は意味を与える側、付ける側にすぎず、俯瞰した目線だからなのですが、命を吹き込むというのは当事者になって感じることができることだと思います

そしてその何の気ないもの達の声なき声を自意識ではないところで言葉にしたり、物語や話にしたりするあたり、
粋だなぁ~

ある意味くだけたシャーマンや田舎の坊さんに通じているのかもしれません
そういう文化や伝統、精神性みたいなものも、一旦なくすともう全く同じように元には戻ることの不可能さを感じます
なくなったらあとは感謝することしかできない、というのは身勝手な話ですが、やはりそれしかないような気もします

あ~、ペン

それでもなくなる前にもう一度ゴミ捨て場を探してこようという気持ちがあるほどなので行ってきます




最近のできごとについて

2009年12月18日 | Weblog

こつこつとアラスカのエスキモーやインディアンなどの先住民族について調べて原稿を書いているわけですが、並行して新田次郎氏の「アラスカ物語」を読んでいました

今月初旬に発売された「National Geographic Traveler Canada」にもカナダのネイティブについて短い記事を書いていたこともあり、大変興味深い分野だったのでかなりありがたい知識になりました
しばらく北米の先住民のことを考える日が続き、今後何か縁でもあるかな、と思ったりしています

新田次郎氏の本は初めて読みましたが、形容詞の少ない文章にさすがだなぁ、と思いました
とつとつとした細かい描写は、ヘミングウェイの徹底して形容詞を削り取った文章や、余計な描写をせず、計算された言葉の配置に文章の表現の奥深さを感じる保坂和志氏の小説を思い出させるような、自ずと頭の中にアラスカの厳しい自然が浮かび上がってくる物語でした

とはいえ、形容詞や比喩がまるでなかったというわけでなく、必要なものが必要なだけ入っていて、不必要なものがないのが凄いなぁ
逆に必要なところにあるべくしてある形容や比喩はとても印象に残りました

それを考えると、根本的になぜ文章に形容や比喩が必要なのかということを学ばざるを得ません
毎日、多くの人が書いた文章を選定する仕事もしているのですが、
例えば季節について描写している文章があったり、心のようなものについての描写がある場合、
なぜ、ここに比喩や形容が入る必要があるのか、といちいち考えてしまいます
文学として、言葉という表現として、なぜそこに比喩や形容が必要になったかを考えると恥ずかしくてとても比喩など使えない自分がいます
がんばって書いていきたいと思います



ところで今日、クモを殺しました
ベランダの隅に巣をつくっていました

小指の爪ほどのクモです
昨日、クモの巣に黄色い蛾がかかって死んでいて、
それを巣から外したら
クモが今朝足を内側にたたんで死んでいました
貴重な餌だったようです

何か申し訳ないことをしたな、と思いつつ昔家の庭でムカデを潰したのを思い出しました
次の日、潰したムカデの姿はそこにありませんでした
アリが運んだのかなと思っていると、庭の隅の葉っぱの陰で大きなムカデが潰されたムカデにぐるぐる巻きついているのです

共食いかと思い、その光景に驚いたのですが、後にムカデの雄と雌は一生同じペアだということを知り、あれはきっと私に潰されたムカデのパートナーだったのだと申し訳ない気持ちになったのを思い出しました

見た目が少しグロテスクで、害虫とされるムカデの中身のその美しさを感じ、ムカデよりも知能の高い人間はきっと尚のこと美しいだろう、と思いました

今日もラジオで世界中のテロや紛争のことが放送されていました




先日、焼鳥屋で飲んでいると、後ろの角の席で濃い染みのついた薄い壁にもたれて、薄い焼酎を飲んでいた中年の女性が
「私はまだスポットライトに当たっていたいのよ」
と裸電球の下で話していました

年末だなぁ、と思いました


スイスから帰国してほとんど写真を撮っていません
ちょっと手持ちぶさたな感じもするのですが、逆に今意欲に溢れているわけでもない気がして何も撮っていません
うまくいけば、年明け早々にアラスカに行けそうです
暖かそうなダウンを探してあちこち歩き回っています


木下古栗氏の小説がおもしろく、大江健三郎氏等のいわゆるエロ文学ではなくて、文学エロというジャンルを肌で感じた気がします
その差は勃起するか否かで、なるほどな、と思いました

葛藤と空白について、いくらかの人に疑問をぶつけてみて、それぞれの多様な解釈方法にぞわぞわと興奮しました
空白の無限性と非無限性、それと空即是色のような仏教的「空」など、辞書で調べるより興味深い生きた知識や思想でした


電車で「Virginity」と書かれたパーカーを着ている小太りの男性とその友人らしき男性が、アニメの話に夢中になりつつ、キャラクターに「~たん」を付け(例えば、メグタンの声優変わっちゃったよ)、ふしぶしで、
「ズコーッ!」
と言っていました