部屋の掃除をしていました
といってもそんなに荷物はないし、ぱっぱとできる程度のことなんですが
一旦はかどりだすと、調子に乗ってあれこれとまとめてしまったり、捨てたりしてすっきりです
しかし調子に乗り出すと、我を忘れるのが私の悪い性分で、勢いあまってどうやらお気に入りのペンまで捨ててしまったようです
まさに自業自得ですが、調子に乗りすぎると必ずきちんと冷静にならざるを得なくなることに、うまくできてるなぁと関心さえしてしまいます(単に私の詰めの余さですが)
それにしても大事なペンをうっかり捨てるとは阿呆だ
そこにあるとわかっていると、失ってみないと大事さがわからないのは当然な上に、再びそこにある状態に戻すということは、木がなくなった森のようになかなか元には戻らないし、きっと全く同じように元どおりにはならないように思えます
あーなくしてしまったペン......
なくしてしまった、というと今年はいろいろな方が亡くなった年でもあります
中でも清志郎さんとアベフトシさん、森繁さん、そして円楽さんと粋な人が亡くなられました
掃除をしつつ、ふとそんなことを考えていたら、古典落語の本が出てきてしばらく読み返していました
円楽さん、立川談志さん、六代目文楽など好きな噺家は多いのですが、粋という意味では五代目古今亭志ん生さんの話しぶりはたまりません
一言で粋といってもなんだかわからないのですが、志ん生さんの得意な噺で「道具屋」というお話があります
そこに登場するさえない道具屋の亭主と気の強い奥さん
何気ない生活にある夫婦の会話も彼が話すととても生き生きと感じられます
粋だなぁ、と思うのが普通に生活する人(どちらかといえばさえない)の何気ない生活の、何気ない会話や空気にスポットをあてていること
例えば大きな森があって、というより大きな話しになれば日本でも地球でも宇宙でも愛でも平和でもいくらでも大きなことをは言えるのですが、
そうではなくて森の木の一本一本、そしてその木の枝や葉っぱや花みたいな細かな部分に命を吹き込んでいるように聞こえるところが粋だなぁと思います
枝や葉っぱに命を吹き込むというのは、そこに意味を与えるのとは違って、実際に自分が枝や葉っぱになってみるということで、意味と違うのは意味は意味を与える側、付ける側にすぎず、俯瞰した目線だからなのですが、命を吹き込むというのは当事者になって感じることができることだと思います
そしてその何の気ないもの達の声なき声を自意識ではないところで言葉にしたり、物語や話にしたりするあたり、
粋だなぁ~
ある意味くだけたシャーマンや田舎の坊さんに通じているのかもしれません
そういう文化や伝統、精神性みたいなものも、一旦なくすともう全く同じように元には戻ることの不可能さを感じます
なくなったらあとは感謝することしかできない、というのは身勝手な話ですが、やはりそれしかないような気もします
あ~、ペン
それでもなくなる前にもう一度ゴミ捨て場を探してこようという気持ちがあるほどなので行ってきます