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日記

Hajime

2013年06月11日 | Weblog

ヴィヴィアン・マイヤーの写真はなんて素晴らしいのだとすごくすごく思う

そう思うと人のツボって分からないな、とふと思う

例えば私は興味のある表現のジャンルは限られているし、
そのジャンルの中でもぐいぐいくるものとそうでないものがある

それにちょっとぐいっとくるものもあれば

わりとぐいっときたり

好きになりたいけどぐいっとこないから複雑だ、という幅も深さも様々だ

そう考えると私のツボは他人のツボではありえない


だから私がヴィヴィアンの写真にぐいぐいきていても他の人はこないし

他の人がぐいぐいきているものに私はぐいぐいいかなかったりする

それは当然そうなのだけどそこに今おかしみを感じている

それでいいのである


ヴィヴィアンの写真は観ているだけで「個」であることを感じさせる

「個」であることの悲しさと喜びと空しさと自由さを


頑固で変わり者の家政婦だった彼女が虎視眈々と孤独に写真を撮り続け、
誰にも知られず興奮し、にやけ、あれに近づき、そして公表しない

でも撮る 撮る 撮る 創る

アートのラインなど屁のつっぱりほども気にせず

個の中での写真の研究以外は学ばず

しかし追求し 撮る


ある意味ではヘンリー・ダーガー的


自分の上がる舞台などはない

そこに鑑賞者はいない

共有者もいない

ただ撮る「個」があるだけ


こんなに美しいものはあるか、と思う














五臓六腑

2013年06月10日 | Weblog

休みを利用してとある医院へ

結果、そこでの治療が本質ではないことが分かった

まぁそうだろうな、と分かってはいたので、

「まぁ、そうでしょうね」と言って先生と笑った

精神活動の負担から来る内蔵機能の低下で、

自律神経の過敏さを押さえろとのこと

鈍感力をほんとの意味で発揮できるとよいのだけど

というか多分使う神経を間違っているのだと思う

せっかく視界に色彩を取り戻せるまで復活したのに

またどんどん色がなくなっている実感がある

このような状態では器が小さいと叩かれるのは必須であるのでもうすこし踏ん張る

あきらめが必要なのと思考をとめること

理想と現実のギャップにあがきすぎないこと

それらで自分の首をしめないこと

そういう注意をされつつ治療をした

しかし諸々の会話をしてしまったが故に逆に悪化したような気もする

とにかく良いものを観て、感じて、それらの話しをし、

きちんと興奮し、表現について議論し、新しいものを創り、

そのような状態は理想ではあるが、今の環境でもきっとできる

それにしても治療法は違っても、原因のわかる先生にさすがだなぁと感じた

今日は仕事に行こうと思っていたけど

とても無理な状態なので休む


明日からまた切り替えて迷惑をかけた人々に謝ることからはじめて

がんがん仕事をし、自分の行きたい場所まで近づけるように走る








脳内中枢フィードバックのためのメモ

2013年06月10日 | Weblog
6月5~9日までのことについて


昨年に引き続いての再会
彼らには昨年8月以降も、10月に島根で、今年1月に東京の稽古場で新作稽古の見学でも再会を果たしている
8月の滞在は私も地元の協力スタッフも彼らの滞在そのものに善くも悪くも全力を尽くした
そのことで事務局と滞在者を越えた信頼関係が生まれ、
また、彼らはプロであるためその信頼関係の上で絶妙な距離感をとりつつ、彼ら自身の滞在の意義を思考しながら過ごしていた
一方、「島根では初めての本格的なレジデンス」と東京の某アートプロジェクト制作者が述べていたように、
手探り状態だったため全力過ぎて地元の方々は精神的疲労が反動として生まれていた
けれどもこれも刺激としての作用だったので、
その精神的疲労は追々
地域にとっても刺激→新しいものへの期待→当事者意識の芽生え→次への主体的な思考
と好循環になっていたというのを、今回スタートするまでの現地での打ち合わせで感じていた
その循環を踏まえて、私もカンパニーも地元の方々も、昨年の出会いから、今年の定着、という良い流れを持ってレジデンスを開始できる意識を共有していたと思う


[6日(滞在2日目)]
地元小学校でのアウトリーチ日(午前に中学年/午後に高学年)
昨年カンパニーのアウトリーチを受けた経験があるのは4~6年生である

昨年は学校管理職も現代舞踏とは何たるものか、と当初受け入れに非協力的な場面も見られたが、
実際に実施し、アウトリーチ以外の場面での合宿中のカンパニーと子どもたち(廃校のグラウンドでの夏休みのラジオ体操など)や地元の神楽の催しでの共演を経て、
今回のアウトリーチ実施は学校に一報を入れた瞬間に「ぜひ実施したい」との反応があった

子どもの変化、教職員の学び、管理職の理解が今年の実施に繋がったと思う
また、管理職が移動しなかったのも大きな点である

当日、学校に入るとカンパニーのポスターが玄関に張られ、
子どもたちが大きな声でカンパニーの名前を呼びあいさつをするなど、
すでに学校全体のカンパニーに対する開かれた状態が感じられた

今回はカンパニー14名、
演奏家1名での実施だった

中学年の実施について
これは進め方にやや後悔の残るものとなった
担当教員を体験の輪に入ってもらうことができなかったからだ
アウトリーチ実施の現場にはジャンルや進め方に様々な手法があると思うのだけど、
このカンパニーの進め方に関しては、なるべく教員も輪に入ったほうが、大人の許しという観点で、より子どもも心を開いて体験することができる

というのも子どもの心をほぐしきるように進めていき、子どももそれに呼応して呼び覚ましている最中に大人が外で立って見守るというのは、
子どもは本当によく見て、感じているので、ややもすると見張りに近い感覚を無意識に抱き、ほぐれるのに時間を要してしまう
また、教員にできない、させてはいけない(その後この学校の教員や別の小学校の教員達とこの話しを話し合って難しい課題であると感じた)、子どもにあらゆるものを全開にさせるという行為をしている最中に、担当の先生が輪に入らなければ、普段子ども達と接して少しずつ社会常識(集団生活では静かにしなければいけません的な)を習得させている彼らにとっては、実施直後の子どもとの関わり方にも関わってくるし、何よりもどこかややひねくれた発言が耳に届く場面もあった(これは私にも大きな責任があるので後悔に至った)

これは後に管理職と話し、アウトリーチを数多くの現場で実施して来たカンパニー、地元にいて伝統芸能に関するアウトリーチを実施している方と話し合ったのだけど、
「そういう教員も今回の実施を経て、自分で考えどのような成果があったのか、また自分はどう動くべきだったのかを思考するように会議等で協議する」
「成果というものがないと、それを求められる不安から、実施できない理由にすり替える教員が多く、また、教員自身が子どもの時に芸術体験に触れる機会が少ないこともあったりするので、もはや子どもだけに集中して実施したほうがいい。ついてくる教員は後から必ずついてくる」
「成果がないと不安だということは教員のすり替えだという自覚もある」
「アウトリーチをする前に成果がわかるプログラムが必要(私はこれはいくら忙しいとはいえ思考停止していると思うのだが)」

様々な意見を聞く中で、私はアウトリーチを実施する前に、どのような成果が発生するかという基準が必要な、枠の中の成果物を提示するよりも
アウトリーチを実施するための理解促進を促すインリーチを実施することが必要だと感じた
これは学校に関わらず、文化芸術というジャンルにおいて、これらをひとつのツールとして地域づくりを行うならば、
まず、成果云々といいだすと、やれない、やりたくない理由をあげがちなのではないかと思う
インリーチは、おそらくアウトリーチが浸透してきつつあるこれからの芸術普及活動や体験事業において、重要な課題になるはずだし、
これがうまくいくと、いわゆるアウトリーチの実施側・芸術家側と受け入れる学校側との連携がスムースになるはずだ

そういうポイントを肌で感じる中学年での実施だった


高学年の実施について
これはとてもうまくいった
昨年経験している子どもたちという継続性、
担当教員達の理解、
その様子を洞察しながら進めて行くダンサー達のアウトリーチのスキル
終了後、これはうまくいったとカンパニー、学校側との共通認識があった

その様子を見ていた管理職の方と、2回のアウトリーチの成果、課題、次回への期待と展望を話しあうことができ、
来年へと繋げることができた


終了後は子どもたち、教員に手を振って出発
一路海へ、皆飛び込む
ワカメバレーを海の中でしていて、ワカメを落とさないことが重要なのではなくて、
どんな姿勢や格好、おもしろいポーズで落ちるワカメにスライディングできるかが重要で、
海や自然の中で身体の動かし方を新しく取り入れるためにダンサーには大切、という話しが興味深かった


【7日(滞在3日目)】
カンパニーは終日稽古
私は別仕事や、翌日の公演のための最終広報、夜のトークイベントの準備をしていた

19時半から隣町の温泉津町温泉街のバーにて、
現代舞踏・振り付け家、伝統芸能継承者・地元アートプロジェクト主宰、演劇(司会)を中心に
身体についてのトークセッションを実施
地元の神楽関係の人やアートプロジュエクトに関わる人も来たが、意外にも教育関係者が多く、
話しがあちこちに飛んで興味深かった


言語と身体についてや、
現代舞踏と伝統芸能の差異と共通点について、
アウトリーチについて、
地元で活動する人々を「土」とするならば、外からやって来て刺激を与える人は「風」で、
その両者によって地域は進化し深化するという話し

ある人はその後、だから「風土」という言葉があるのかもしれないと話していたし、
私自身は「風」と「土」はひとりの人間の中に存在していて、
あちこちを旅して風のように過ごしてきた私が、今、島根の土という役割で人々を迎える
この両者を持っている実感があって、その視点をうまく利用しながら嗅覚を働かせているし、
また時に苦しむのだと感じている

そして本当に真剣な話し合いの場であったため、それぞれの視点や立場もあって、
その上で質の高い話しであったためどこかただならぬ空気感があったけれど、
会場の古民家の素敵な雰囲気なども相まってとても有意義な時が流れていた
懸けているものがそれぞれにあるし、それを持ち寄っているため、
学びの場であると同時に話しの単語も質も難しいため、
誰も彼もが参加して理解できるわけではないのだが、それもひとつの狙いであった
どれほど熱意のある人々が地元にいるのか
その掘り起こしと、人を耕す場として

その後、深夜にも関わらずカンパニーは廃校に戻ってから翌日の稽古
この辺りはさすがにプロであるし、いい刺激になった


【8日(滞在4日目)】
公演当日

地元の方々、遠くは県外から老若男女が集まり、

15時会場前から人が廃校にぞろぞろやってきた

しばらく時間があったので、
子ども達は校庭で遊び回り、在りし日の学校の風景を垣間みれた
この瞬間はとても大切で、廃校を使わせてくれた地元の協力者たちもその光景を見て、
この滞在の意義や意味を越えて、目を細めてかつての学校の賑わいの思い出と、
目の前の光景を重ね合わせながら感慨にふける姿が印象的であった

そのことがまず嬉しいと多くの地元の方に言われ、
公演はまだ始まってなかったのだけど、これもこの滞在でのひとつの成果だと感じた
2年に渡り交流し、かつその密度も濃く、開かれ、
それが結果としていい方向にでたと思う
準備期間から考えるととてもしんどいが、とても素敵な瞬間だったと思う

ダンス体験が始まると小さな子から、普段ダンスなどしないだろうと思われるおっさんから、
地元の方々、若者達が、見知らぬ人同士や仲のいい人どうしで身体に降れ、輪になり、笑顔でダンスを楽しんでいた

その後の公演は、私が観たかった作品でもあり、
カンパニーの本気を感じた
これを無料で、しかもあのような僻地で生で観られるなんてほんとにすごい

遠くから来られた方もとても楽しみにしておられ、
しきりに感動を口にしていたのが印象的だった


公演も無事に終わり、
最後は夜にリラックスしてカンパニーとゆっくり話す

個人的には、彼らは土着性と都会性を併せ持ち、
芸術性の高いプロであり、痛みを知っている上でさらに元気、
だから何も話さなくてもいいし、向こうも何も話さなくてもお互いに仲間だと思っているという認識で、
そういう話しをした


という諸々で、滞在したカンパニー、受け入れ先の現地協力者たち、
アウトリーチ先の学校、周辺の若手活動家たち

それらの方々に個々に理解をしてもらってレジデンスを実施することができた

早くも次回の展開を望む声が聞こえていいる
少し休んでまた個別にフィードバックを行い、
新しく進んでいこうと思う


今日は一日休んで、明日からは不在中に諸々迷惑をかけた人に謝りつつ、
さくさく別仕事を進めていく












































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2013年06月08日 | Weblog
忙しい最中島根に集まってくれ、学校での2回のアウトリーチ、トークイベントにも夜遅くまで参加してくれ、その上彼らは明日の公演のために今この時間にも真剣に稽古をしてくれている。
私の役割として残された時間は少ないが、それに報いなければならないと思う。

彼らはプロだ

私もプロである

彼らはまだ稽古を続けている


明日の公演のために

30分の公演のために

今もまだ稽古を続けている


この触発はなんと素晴らしいことだろうか

サッカーとか特に観てない

2013年06月04日 | Weblog

明日からレジデンスである

今日は上司とお昼ご飯を食べたのだけど、

彼は演劇の人である

というか表現のそばに寄り添う人である


レジデンス中に公演とは別に身体表現について、身体を巡るトークセッションを夜な夜なバーで開く

私はこれがとても楽しみである


地元で私の高校の先輩の伝統芸能を継承しつつ新しいアートプロジェクトの芽を創るひとつ上の先輩と、

ばりばり現代舞踏のダンサー

そして司会者が上司である


私自身は実演芸術に未熟なため、

なかなかその間に入って司会を行うことができないと思ったため、演劇の上司にお願いした


彼と昼ご飯を食べながら延々と身体表現についての話しをした

また、写真の表現の話しも少ししつつ、とても有意義な時間だった


この前たっぷり栄養をいただいた声楽の方との飲みも素敵だったけれど、

今日の昼食も素晴らしかった

暗黒舞踏に始まり、演劇や現代舞踏、伝統芸能の継承

そしてまたそれらとは異なる写真の話しをした


昼食後、お店の外に出ると揺れる葉や光と影がとても新鮮で、朽ちつつ朽ちない世界を感じることができた


その後それは一体なぜだろうか、と仕事をしながら想いを巡らせてみた



おそらくそれは「問い」にあるのだと思う


問い続ける人の、問いの中にある問いに関して

ジャンルは隔てていても、問い続けているか、自分に飼いならされているか(これは私の独断と偏見だが)で私は興味の持ちようが全く異なる

地元の先輩とダンサーと我が上司、彼らの問いを体感してみたい、そう思う


そういう意味では問いながら生きる人が周囲にも少なからずいる

そして私は彼らをどこかで同士だと感じている



目つきというか目の奥の怪物がきちんとうごめいている


そういう彼らの生に対して、また死に対して、それらを超越した表現という言葉すら越えた、彼らの問いと全身で格闘してみたい


そんな欲求があるトークイベントの夜


狂った話しを聞きたいわけではなくて、

くだらない話しを聞きたくないだけであって、

彼らはきっと私の期待に応えてくれるし

その後に私も心を許して彼らと夜な夜なあの純度の高い興奮度の高まる話しをしたいと思っている

彼らのぐつぐつした塊と、私の塊で相対してみたいと思っている


今日はそんな期待のもてる話しのできた昼ご飯だった





生きていくのはほんとに難しい

しかし多かれ少なかれきっとそれぞれそういう思いを抱えている


問い続けろ、そうすれば、その道を歩く人と出会う

そうでなければ、そうでない人たちと同化する

それだけのことだ

やはり今回の出張、カメラを持って行こう



間もなく風の旅人復刊2号が届く

2013年06月02日 | Weblog


「ニーチェの馬」に続いて「かぞくのくに」を観る
こちらも救いのない非情さが、創り手の創る決意をにじませる名画だった



昨日は本当にいい飲みだった

すこぶるいい飲みだった

誰かの視点からするとその誰かは正しい

また、別の人から見るとその人の意見は正しい


しかし、私は正しいと言わず、かつそれを押し付けないとても素敵な人との飲みであった




携帯の番号が全てふっとんで今ほとんど誰の連絡先も分からないが、この状況素敵だ



東京出張のとき打ち合わせた先生とアウトリーチやレジデンス、アートプロジェクトの話しについて個人的に話しをした

私自身の捉えるレジデンスはやはりまだ未熟で、ヨーロッパと日本におけるレジデンスの出発点としての意味が違うのだから、と指摘されたので大変勉強になった

今年のレジデンス前にその話しを聞いて学ぶことができよかったと思う

次に広がりを持たせて繋げるためにとてもいい学びとなった

もっと勉強したいなぁ



Janis Joplin - Ball and Chain (sensational performance at Monterey)





まつえのすたじお

2013年05月31日 | Weblog

とにかく私自身が理解したのは、表現の感覚の中にいる感覚を鈍らせない
それだけ

6月末に静岡にアウトリーチについての研修に行くのだけど、期待していた静岡市美術館の企画展はあまりおもしろそうではないし、
あいちトリエンナーレは8月からだし、どうしようかなと思っていたら、ふと、岐阜に行きたくなった

養老天命反転地に久々に行きたくなった
荒川修作とマドリン・ギンズの公園で随分前に行ったきりである
とてもいい場所だから、今改めて行ってみようと思う

今日は久しぶりにドラムを叩きに今からスタジオへ

ちょっといろいろ鈍化ぎみ
本を読んで、いい写真を見て、いい作品をきちんと自分に取り入れてしゃんとしよう

帰ったらニーチェの馬を観てぐつぐつしよう

31歳がもう終わる

2013年05月25日 | Weblog

大変しんどい
非常に仕事が忙しいのでちょっと手一杯でまずい感じである

その上に性質上突っ込まれやすいのでここにきて精神的にまいりつつある
しかし、それは性
いたしかたない

なので少しでも優しい人や作品と出会えると、本当にすごいなぁと思う
部屋で強がらずにじっと噛み締めていたりする

多分、ほんの少しずつ優しさみたいなものをもって発する諸々があれば人間関係は損なわないのかもしれない

無粋なやりとりは創作側にも制作側にとっても無益で生産的ではない
また、その両者でなくとも単に人同士の付き合いであっても同じくであると思う

なるべく群れずに、無意識に自分の中に積まれていく不要なプライドを意識下に統制してひとつひとつつぶしつつ、人に優しくできたらなぁと思う

まるで馬鹿のように優しい人には出会ったことがまだないが、
自分を強くして(強くならざるを得ないのかもしれない)優しさを失わない人には幾人か出会ったことがある
そういう希有な人たちからもらった瑞々しい粒を汚さないように私は私と闘っていこうと思う


今度島根にくるダンスカンパニーの面々はなんというかとても良心的な人々で、
あまり強くないけど決して弱くない
そして優しい
表現という厳しい世界にいながらも素直なあの優しさはとても居心地がよく、好きである
狂っているがそれを会話せずに、見合うだけで打ち解けられるのがまたいい
そういう連中が間もなくやってきて、ふたたびどっぷり時間を共にできるのもいい保養になる

しかし眠い