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日記

Hajime

レンズ

2014年01月04日 | Weblog

Lレンズを買ってにやついている

フィルムに戻してから思うのは

デジタルってすごく余分なシャッターを切っていたのではないかということ

でもデジタルの時も余分な写真という意識はなかったというかかなり必死できちんと撮っていたとは思う

それでまたフィルムに戻ると一枚一枚に対して必死さというより大切さがある

確かにそれは一枚のコストはフィルムがものすごく高いし、現像やプリントにお金も時間もかかる

それでもやっぱりフィルムが好きなのは、デジタルも好きだけどフィルムの感じがもっと好きというだけ

デジタルのよさは、フィルムのよさを思い出させてくれたことかもしれない

しばらく実家に帰っていて、夕暮れに人のうちの畑でじっと撮るタイミングを待っていた

風は吹きすさぶし、暗いからあちこちブレるのだけど

たまらない時間だった

フォトジェニックなシーンの先に、ピクチャレイズな瞬間がある

でも現像ができるのは2週間後!

デジタルではこうはいかない

すぐ目に見えてしまう

写真ではなくて画面に、画像になってしまう

写真をはじめて、初めて写真の仕事をし始めた頃は、36枚撮りのフィルムを100本以上バックパックに詰め込んで関西や中国地方、四国地方に出かけていた

もっとも、本当に自分のカメラを手に入れた時はフランスとイギリスで露出のことなど知らずにとにかく目に入った知らない瞬間を撮っていた

いやあ、楽しい

自分が好きなものを自分が好きなカメラで好きな時間に沢山撮る

にやつくわ






相変わらずハンパないライブをしているね彼らは

Rage Against the Machine - Killing in the Name(Live / 日本語字幕)

写真選定でつかれる一日

2013年12月06日 | Weblog

力のある作品に囲まれなければ意味がないわけで

最近はそれを自力で見たり作ったりしなければ時間が持ったいなさすぎる気がしている

デジタルをやめてフィルムに戻って写真をいじり倒しているので興奮がやまない

フィルムの深さは本当にすごい

力が伝わってくるもの

意思が伝わってくるもの

島根では自然と人そのもの以外は作品でそういうものに出会う場は本当に少ない

そういう話しができる人も限られている

けれど島根にいるのだから、自分の作り方で確かめながら選りすぐっていこうとおもう

少しずつそういう人とも知り合えつつある

そういう人と出会って語る

それは本当に素晴らしい

Heymoonshaker - London - Part Two(+ 再生リスト)

ときをすすめられるかどうか

2013年10月28日 | Weblog


強くなろうとあがく者が一人でもいると
何もしない自分がみじめだもんな
みんな同じなら見えないのに
異質な者がいると浮かび上がってしまう自分のみじめさが
だから追い出そうとしてそれができないと分かると
嘲笑い下に見て線引きして隔てる

それでまたじぶんを見ずにすむ




去年の今頃感じていたことはやっぱり本当だったのだと思う
今の型に収まるときっと伸びやかな未来はない
年齢など関係ない
好かれるか嫌われるかも関係ない

やりたいことをやっていればいい
それでいつか分け合えればいい
仲間という意識は、周囲や地域が望んでいるからという意識は、やはり前に進もうとしない言い訳にしか聞こえない


なるほど勉強になった




写真や光と影について考え、形にすることだけすればいい
それが楽しいということ
あとは勝手にすればいい







秋っぽい

2013年10月08日 | Weblog

変人に会いたいなぁ、と思っていたけどどちらかというと狂人に会いたいなぁ、と思う

早く10月末になって狂ったように踊る真剣に狂っている彼らとの再会が待ち遠しい

ぬるぬるしたぬるくて甘いまったりした狂っていないヘドロばっかで逆におもしろくはある

そこにはまらないようにしなくてはいけない


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なつ

2013年07月09日 | Weblog



いしいしんじの小説がとても好きだった

なぜそんなことを思ったのかというと

い、がつくもののことを考えていたからで

インド

いしいしんじ

そんな風にして思い出していた

いしいしんじは東京にいる時の初期に随分とお世話になった

トリツカレ男のジュゼッペやみずうみとか、彼の本は中央線によく似合っていた

井の頭公園のベンチとか三鷹の陸橋や西荻窪の古本屋とか

素朴なのだけど古くない

懐かしいのだけど褪せてない

安心した途端に狙いすませたかのように静かに落とし穴が用意されている

手の込んだ伏線、突出した狂気、鮮烈な個性はない

深淵のようであって深淵ではなく

浅瀬の小刻みな波の震えや飛び散る水泡の軽やかさでもない

けれどその両方がゆったりと広がっている

寝ぼけて朝焼けと夕焼けのどちらかよくわからず目を覚ました時のように

うっすらとぼんやりとしている



時間の経過を鮮明に記憶しているのだろうかと思うと

やはりそうではなくてうっすらとぼんやり漂っている塊のような時間の経過も少なくない

思い出せることと思い出せないこと

けれど、うっすらとぼんやりした塊としてあるような気がする

というよりある

うっすらとぼんやり漂っている過去の塊

そういうものに似ている


忘れてしまったのではなくて

思い出せないのである

そして思い出せなくてもいい部類のものなのだけど


関係ないが最近は鈴木理策の写真にはまっている




楽しい

2013年07月06日 | Weblog

エルメスでシガリット・ランダウや現美でフランシス・アリスを観た

またチンポムと岡本太郎の企画展を観たりしていた

特にランダウとアリスはそれぞれ「境界線」に主眼を置いていて、
根底に横たわるアイデンティティの中にあるいくつかの境界線と他者、国、文化、歴史、捉えようによっては外や外にある様々な境界線に結びつけられるのだけど
どちらかというと個に内包する内の境界線というか、分裂して分解した自分の小さな粒同士の距離や微かな結びつきを見いだすような作品だった

安定したものを思い切り揺さぶって不安定にしたい
そうしなければ疑いようも晴れないもので、
けれど決して疑いたい性でも不安定にしたいわけではなくて、
確固たるものを揺さぶって確固足らしめる要素をそぎ落とした先にあるものを見たいということである

ランダウの揺さぶりはとても心地よく、激しく、ぐらぐらしていて落ち着いていた

いろいろなものの境界線のど真ん中に大きな木が立っていて、
それは深く根を張ろうが、太い幹に成長しようが、
どん、ときて ばりばり揺れて 実は落ちて 削がれていく

この心地よさは至極快感であるし

もっとびりびりと撹乱するとにやにやする





Sigalit Landau



あそぶ

2013年07月04日 | Weblog

6月はかなりかつかつだった
自分の器の小ささがよく感じられた

静岡に行って
東京に行った

もっと学びたかったし
もっと知りたいことがあった
もっともっと勉強したいし
もっともっとつかみたい

東京は本当によかった
「境界線」について、現代美術館やエルメスの展示、
チンポムと岡本太郎をきちんと観た
国境線や文化、思想、価値観、生と死、光と影、人と人の境界線について
きちんと向き合ってぐるぐるとした
すてき


文句ばかりたれてないで
馬鹿みたいに進んでいけたらよいと思う

7月


深夜高速 - フラワーカンパニーズ - ap bank fes 10 LIVE

もうちょい

2013年06月20日 | Weblog

あともうちょい

そしたらちょっと見えそうなものがあるような気がする

あともうちょっとのところ


40度以上の暑い暑いインドはラジャスターンで意識朦朧で聞いた水辺のジプシーの演奏を思い出した

うまかろうがうまくなかろうが

その状態でその場所にたどり着いて全身でひりひりしながら聞く音色は

勉強とか研究では届きようのない

ぎんぎんに開かれた広い世界に届く

もうちょいの感じである今


インド[ウダイプル]