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日記

Hajime

伊勢崎線

2011年06月15日 | Weblog


こんにちは

週末は都内でちょこっと取材をしました

足立区に行ったのですが、いいですね足立区

私は中央線沿いにしか住んだことがないので、同じ都内とはいえすごく新鮮

西東京とは少し違った文化を感じます


と、書いてみたものの、今日はとくに書くことがないことに今気づきました


あ、足立区で取材した人がとてもよかったです

ほんの少しの間しゃべっただけですが、器の深さはんぱねぇ

いち指導者であって、社会人であって、教育者であって、いちランナーであるわけですが

すばらしいと思ったのは、口にはされないのですが指導者とは実践者であるというスタンスが伝わってくるところ


人にはそれぞれ役割らしき方向性があるのではないかと思うわけですが、

その手の方向ではすごく器が広くて、そりゃ人がついてくるわ、と納得です

大いに勉強になりました



そんで

「The Tree of Life」が早く見たいです

日本で上映されるのは8月以降だそうなので、かなり待ち遠しいです

ストーリー性がないとかいう評判も聞いたりしますが

哲学者でもあるテレンス・マリック監督の5作目です(1973年初監督からという超スローペース。そこがまたいい)


そういう風なかんじになっております最近


ガメラ

2011年06月12日 | Weblog


昨日ちょっとした写真を撮るために久しぶりにカメラを触りました

多分2ヶ月ぶりくらい

今までは、キャノンだろうがニコンだろうが新品だろうがボロだろうがどんなカメラでも触り出すと手になじみました

日本のカレーがどのルーを使っても結果おいしいのと同じようなもので、私にとってはどんなカメラだろうとすごくおいしいと思っていたのですが

昨日カメラを触っているとなんだかよく分からない機械のような気がしてきました

気分的にカメラを触る気にならないというのとは少し違って

触ってみてもなんだかよそよそしい黒くて重たい物体感がします

ふと、乗れないほうきもあるというかカメラが手になじまない時もあるという気になっておもしろいです

今日もちょっとした撮影で、別段失敗するようなものではないからいいのですが

ちょっとあらためてカメラ触り倒してにやにやしたいと思っています(きもい)


少しくらいカメラのことを知った気になっていたのかもしれないのだけど

全然知らなかったのかもしれん


ま、とにかく今日も撮ってきます

魅力のない風景

2011年06月12日 | Weblog


こんにちは


自分の読解力や推察力のなさから、本を読んでいて意味の分からない一節にぶつかってしまうことがよくあります


中には反芻して理解できるものもあるのですが


多くは意味の分からないまま脳の底の方に沈んで、ヘドロのように忘れ去られます


時間が経って自分がその意味を理解できるだけの経験をし


その経験から学んだ事さえ忘れた頃にいきなりその意味が目の前でハッとはじけて分かることがあります





何とか解釈しようと念のため噛み砕きまくって、結果解釈できず沈んだ底からヘドロが再構築したそれは

私なりに解釈できた意味と形を持ってハッと現れます

それはやはり忘れていた、というよりじっと沈んでいたというのが正しいのかもしれません




PCのデスクトップ画像をかえようと写真を見ていると、スイスのティトゥリスはトゥリュプゼーの写真が出てきました


スイスのルツェルンという都市から電車とロープウエイを乗り継いでいくハイキングスポットです


写真を撮った時はとてもきれいな景色だと何枚もシャッターを切ったのですが


帰国して見てみるとなんだか全然おもしろくない写真でピンときませんでした


結局載せようと思ってた本にも載せず、なんでこの風景に見とれたんだろうか


そんな風にちょっと不思議に思ったものの、そのままその疑問もヘドロになって見えなくなっていました


今日写真を見て急にこの景色の美しさが分かりました


写真がどうのこうのではなくて、この場所そのものは何の飾り気もなくやはり美しいのです




私の写真技術ではこの景色の本当の美しさの何百分の一さえ引き出せていないので


湖や緑や山や空にうまく写せなくてすみませんという気持ちなのですが


今までただのよくあるスイスっぽい場所の写真じゃん、と思っていたのだけど


ハッとこの場所の本当の美しさが分かった気がしました


意味の分からない文章や現象と同じようにヘドロになって埋もれていた写真が


積もったヘドロをはらって、ふいに現れたような気がしてとても新鮮なものに見えました



つまりあらゆる出来事や文章との出会いの瞬間と、それを本当に認識するまでのズレがあることは当然で


しかもいつ何がきっかけで認識に及ぶかは皆目見当がつかず


思いもよらないものによって認識がもたらされるならばなんだって師であるような気もします


そしてそのことを忘れがちで、学ぶことが多いものを見落としたりするので


常日頃からきちんと意識しておきたいと思いました






そして私はスイスの魅力を理解していなかったのかもしれません


というか、日本や自分の住んでいる周辺の素晴らしささえ本当に感じているかといえばきっと感じられていないのだと思います


だとしたら数度訪れたスイスや、たった一度しか訪れていないこの場所の美しさを体に染み渡らせるなど到底無理なのです


それなのに、スイスってどこもこんな感じだよなー、なんて思ってしまっていたー


自分の反芻力のなさを感じるのはそうなのですが


同時に改めてどんな場所のどんな瞬間、どんな物にも教えられることばかりだと痛感しました




それは写真に教えられたのはなくて、
へぼい写真だと思っていた一年以上前の忘れかけたような写真の中におさめられた風景そのものにです


あー面目ない、こんなことばかりですが


いつかまたスイスに行きたくなりました




しかし本の一節や経験のもろもろで理解できずヘドロ化したものばかりなわけですが


全てがいつか理解できるわけでなく、いつまでも沈みっぱなしのものもきっと多いのでしょうけど


たまにこうしてハッと頭を打たれるわけなので、ヘドロが多くても悪いことではない気もします


という自分の無知への開き直りでした




ほん

2011年06月01日 | Weblog

自分の興味ある分野かどうかはおいといて

原子炉時限爆弾 ~大地震におびえる日本列島~ / 広瀬 隆(ダイヤモンド社)

を借りて読みました


今回の東日本大震災が起こる前、2010年8月に出版されたもので

日本列島及び周辺のプレート、それらの要因からくる地震の周期や規模について

そしてその日本列島につくられた浜岡原発、もんじゅなどの原発や六ヶ所村に関する記述


この本の内容が正しいとか正しくないということでなく

知っておいて決して無駄になることのない

とてもためになる本でした









カープカープカープひろっしま

2011年05月25日 | Weblog


ひっろしっまぁーカーープー

こんにちは

暑くなったり雨がそぼ降ったりしていて温度差が激しい今日この頃
その気温差によって皮膚は刺激されているのにもかかわらず
知らず知らず外気に適応する人体の強さってすごいです

最近は偏った本ばかり読んでいるので、偏っているのですが

特に改めて歴史の本を読んでいると
ページをめくればめくるほど人類の過去は争いと略奪であって
もちろん全ての場所に置いて戦争をしているわけではないですが
あらゆる時代においても繰り返し奪い合っているという事実はいなめません

1ページ読んでそのページの争いを解釈し
次のページをめくると再び別の争いが始まる

そんな調子です


知識として歴史を学ぶ、という行為の他にも教訓として歴史から学ぶことが多いはずなのですが
それは繰り返す争いと略奪の中にあるのでしょうか

何かの番組でてきとう男の高田純次さんが
「毎日悲しいと思っていれば、少しの嬉しい事で幸せになれるでしょう」
と話していたのを聞いたことがあるのですが
歴史という視点でもそれは一理あるのかもしれません

しかしその歴史を誰かに教えるとなれば、戦争の中に、悲しみの中にあってなお、
むしろその中にこそ喜びや幸せは見つけられる
という捉え方や伝え方があっているのでしょうか
いや、こんなことに正解などあるはずないのですが、疑問として浮かび上がってくるわけです

もちろん歴史書に書かれない、愛すべき至極平和な瞬間も争いと同じように存在し
ひょっとしたら、今この瞬間もどこかで誰かが段ボールの中の捨て猫を優しく抱き上げているのかもしれませんし
歴史そのものを悲観する訳ではなく、果たしてそれを未来にどのように活かすか
活かせるようにふるまえる精神を養えるよう伝えていくのか、そんな風に考えたりもします
そして、ていうか逆にそんなもの活かす必要があるのだろうか、むしろないだろう、という気持ちも一方ではわき上がってきます

何を今更、しかも本の中でのみ知り得た情報に頭を抱えるのかと思う気持ちももちろんありますし
私自身きっと誰かからいろいろなものを奪い、誰かに腹を立てたりしているわけで
それを釈明するのも時間の無駄だと思うほどにそういう気持ちがあるわけで
自分以外のそれも歴史の大海原にあっては小さな奪い合いも、大きな争いもそれこそ当たり前のことのように起こっていて、
自分のことを棚に上げていちいち頭を抱えるなどどうかしてるぜ!(ブラマヨ風に)

でも、その歴史を知れば知るほど、なにか心のなかにエネルギーの固まりのようなものが生まれたりもします

それは、いかなる争いの歴史の中にあっても、希望はなくならなかった
と口で簡単に言ってしまえるような類いのものではなく

そりゃ誰にだって希望がなくなる時もあると思うわけで
しかし戦争や略奪の裏側にも言い表しがたい、何か決して負けないような、
素朴で強い人々の優しさはあったのでは、また今もあるはずだろう、と思います




関係ないけど、今、広島カープが2位
密かに今年こそはと思っています




I ain't got no home, ain't got no shoes
Ain't got no money, Ain't got no class
Ain't got no friends, Ain't got no sweaters
Ain't got no perfume, Ain't got no bed
Ain't got no mind

Ain't got no mother,Ain't got no culture
Ain't got no friends, Ain't got no schooling
Ain't got no love, Ain't got no name
Ain't got no ticket, Ain't got no token,
Ain't got no god,

And what have I got?
Why am I alive anyway?
What have I got nobody can take away?

Got my hair, Got my head
Got my brains, Got my ears
Got my eyes, Got my nose
Got my mouth, I got my smile

I got my tongue, Got my chin
Got my neck, Got my boobs
Got my heart, Got my soul
Got my back, I got my sex

I got my arms, got my hands
Got my fingers, got my legs
Got my feet, got my toes
Got my liver
I got my blood

I've got life
I've got my freedom
I've got life and I'm gonna keep it

I got my arms, my hands, my fingers,
my legs, my feet, my toes,
and my liver, got my blood..

I got life, I've got laughs, I've got headaches,
and toothaches and bad times too like you

Got my hair on my head
Got my brains, Got my ears
Got my eyes, Got my nose
Got my mouth, I got my smile
I got my tongue, Got my chin
Got my neck, Got my boobies
Got my heart, Got my soul
Got my back, I got my sex

I got my arms, my hands, my fingers,
my legs, my feet, my toes,
and my liver, got my blood..

I got life, and i'm going to keep it
as long as i want it, I got life

heart, soul


にしおぎくぼ

2011年05月13日 | Weblog

こんにちは

今日は雨です

昨夜は西荻に引っ越してこられた映画・旅ライターさんと飲みました

音楽と映画、本についてあれこれ話しを聞いて、
知識の広さはさすがだなぁ
精進せねば

いろいろと励みになります

文章と勉強はりきって楽しんでがんばっていこうと思います

やるぞー


夜おどり

2011年05月12日 | Weblog

こんにちは

今は去年の暮れに走った奈良マラソンの原稿を書こうとあれこれ記憶や資料をひっぱりだしたりしています

かなりゆっくり寝かせたなぁ(放置である)
と思いつつ、思い出そうとしていたのですが、
記憶を突っつくだけではどうにもならんというか、
奈良の歴史の奥深さを考えると、いくら走る行為の原稿だといえどもやはり結構な資料も必要で、
昨夜は夜な夜な奈良について考えていました
というより考えつつ酔っぱらいました

もんもんと酔っぱらって2時、ぐっすり眠りこけてしまって3時
つけっぱなしのラジオからパフュームの新曲が流れてきて急に目が覚める
真っ暗な部屋です

そこいら中真っ暗な中、朦朧としてレーザービームが流れておりました
あぁなんと心地よい(きもいが)
そしてラジオの語り手の「今は今日と明日の境目です」という言葉を聞きながら3時過ぎ


奈良といえば万葉集、日本書紀、妖怪、鬼です
平安よりも平城、白鳳よりも天平です
ややマイナー感が私の好みではあります

以前、妖怪についての本の中で、
歴史上で鬼が登場したのは奈良時代である、
鬼というのは、例えば覇権を狙う宮内の誰かが邪魔な存在の誰かを暗殺し、
暗殺した人がそれを鬼という化け物の仕業だと言い、
当時の宮内の覇権争いには度々鬼が現れては誰かを連れ去り、殺したというのを読んだことがあります

それでは鬼というのはとどのつまり人間の心ではないでしょうか
都合の悪いことは鬼という恐ろしげな存在に押し付けてしまうという人の心の恐ろしさ、それこそまさに鬼のなかの鬼

化け物の類いとしての鬼の役割を押し付けられた鬼には同情こそすれ、恐ろしさは感じないというか、
あさましさに染まった人の心に比べればよっぽど優しく柔らかげな、そして親しい存在ですらあるのではないでしょうか

はっ、とそんな風に目を覚ましてパフュームがラジオから流れてくる3時
あまりに腹が減ってそうめんをゆではじめてみました

朦朧としながら箸で鍋の中のそうめんをつつく
白い糸が鍋の中心から沸き立つ
ゆらゆらと鍋から白い糸がこんもりわき上がります
白髪の鬼が鍋の中からこちらを向いています

よいしょー、とその白髪の鬼をざるに上げてすする
なかなか旨いではないか鬼、とすすってみます

はっ、いかんいかん、とマラソンの思い出から随分遠ざかっている自分に気づく3時半
脱線していないでさくっと書いてしまいたいものであります





五月のはじめ

2011年05月10日 | Weblog

こんにちは

からからとした冬が去って、足早な春にはまるで追いつけず、気がつけば桜も散り、
見上げても見下ろしてもそこいら中にわなわなと緑が萌えているではないですか
濃ゆい濃ゆい五月です

今はつつじが見頃です
パンジーひなげし藤鈴蘭
と、路肩はさながら花たちの青春まっただ中の様相

名もなき緑の葉っぱなども我生えりと息巻き、
その見事な葉っぱの影の下、軒先の大皿の中でちょろりと泳ぐ赤い金魚を見るにつけ、
この五月はなんと五月か
なんとその五月は五月らしき五月かとふれてまわりたい病であります

しかしながらそんなことをして回ればあいつは阿呆かと思われるということは想像に易く、
また、阿呆は私ではなく、あえて言うならば阿呆は五月であって、五月の花々であって、葉っぱであって、
ちょろりと泳ぐ金魚ではないかと反論したいところではありますが、
するときっぱり言われるのである、やっぱり阿呆はお前だと


五月であります

GWを含めそのしばらく前から結構多くの人とお会いしました

アラスカの写真家とは、新宿の思い出横町の一角、せまい木造の階段をぎしぎし上がった所で燗をちびりちびりと飲み、
侃々諤々話しこみました
理系の彼の考え方が非常に興味深く、野生動物を撮ったその写真にはいかにもその生き物から放たれる熱気がおさめられているのに、
その語り口は非常に冷静で、写真の構図からゲーテの哲学までお酒がまったく進む夜でした

『卑怯な考えの動揺、しりごみ、小心な嘆き。
そんなものは不幸を防ぎもせず、お前を自由にもしない。
あらゆる暴力に逆らって己を守り、決して屈せず、そして力づよく振るまえば、
神々の腕をよびよせる』

そんなゲーテの言葉を思わせる深い目をした男でした。ちくしょう。いい男であります

さてまた、東北へボランティアへ行かれた方と話して興味深い話しを聞く事ができ、
(いかんせん興味深いなどと言葉にしてしまうとどうしても言葉自体が信用ならないのだけど、それは興味深いというか、その現状そして心情をお聞きし、時間を共有しなければ東北及びその方の心情を私は知り得なかったという点において興味深いと思うのです)

はたまた膨大な量の絵はがきを自分自身に出し続けた方にお会いし、
行為そのものと、それ以前にその行為に結びついた心理の流れは、
デトックスというよりもはやカタルシスとさえ感じられ、つまり大変味わい深い時間を過ごすことができました

それから政治の話しや、ご当地話し、自然から絵から写真から妖怪、古本音楽料理に情事
そのような話しをもりもりと人々として、不毛すぎるこの脳内畑のすこぶる肥やしになりました

かたや日中はカフェで勉強にあけくれ、いい加減出てってくれないかという店員の視線及び目の前のノートとの格闘に時間を費やし、
さらなる不毛な畑は広がるわけですが、夕刻から出会うそのえげつなく興味深い人々のことを考えると、やはり世界は広いわけです
いや世界というより種々人格の多様性の無限なことといったらばすごいと感じるわけです

それから好きな小説をここぞとばかりに手に取って、ざくざく物語を進んでいくと、
もはや一体あの名言を語ったのは誰だろうか、実際に酒を飲みながら夜な夜な話してくれたあの人であっただろうか、
いや小説のあいつだっただろうかと我ながら馬鹿丸出し状態であって、
やっぱり阿呆はきっぱり私であるような気もします


そんな風な五月はじめです





ぐだぐだ

2011年04月22日 | Weblog

こんにちは

外気はまだ春といいきれないような風です

近頃はだいぶあれこれと考えてる事がばらばらとしてしまって、
そういう脳の影響が行動にもでてしまい、あれこれと支障がでているので周囲の人にご迷惑をおかけする事多々、
少々困っているのですが、少し辛抱してとりまとめていきたいと思っております

本は、直立二足歩行の猿人から原人、旧人、新人、メソポタミア、ギリシャ、ローマときてインドに到達
二足歩行をはじめたホモ=ハビリスから、ようやっと都市国家をつくり始めたメソポタミアまでそれこそ450万年近くあって、
その進化の歴史の洪水に飲み込まれて、抜け出せません

だいたいにおいて45日前、いや450分前、どっこい45分前、待てよ45秒前すら私は何を行い、思索し、この二本足で、ほれまた右足を一歩、続いて左足を一歩と進んできたのかすら定かではないのにもかかわらず、
450万年前に初めて人らしき猿らしき人のような生き物が歩き始めて、かの文明にいたるまでの長き時間は私の45秒は言うに及ばず、途方も無いといういうより宇宙的であって、もはやぽかーんであります

このとても困難な現代に、歴史書を読んで膝ががくぶるしているなどと言うのは申し訳ない気持ちもあるのですが、
例えば耳を塞ぎたくなるような、誰かや組織や企業に対する批評やコメントを見聞きするにつけ、
その時間があるなら他人をとやかく言うよりも、古代の哲学書でも読んで己を高めていってはいかがか、などと思ってしまう自分もいたりして、
しかしながら進化の観点でいうと、本来精神がその人自身であったとして、では身体はというとやはり箱的役割であるなぁと思うのですが、
しかしながらその箱の善し悪しがわりと未だに重要なところを鑑みると、人の進化の劇的遅さを感じざるを得ないと同時に、そこに人に対する批評が生まれるのは未だ避けがたい事実のような気もします
が、この話に全然オチも答えもない


歴史の本とは別に、インドの建築についてあれこれ調べているのですが、
建築史家のジェームズ・ファーガソン著「The History of Indian and Eastern Architecture」で、ギリシャのパルテノン宮殿を’知の建築’における極地とし、'情の建築'の極地としてインドハレービートにあるホイサレーシュワラ寺院(ヒンドゥー教寺院)をあげており、その両極が互いに影響し合い、つまりその極地の間に世界中の建築が収まっているということがいえると述べていました
ともすれば完璧な建築とは、そのちょうどど真ん中にあるのではないか、と思いつつ、実家のリフォームを見守っております

あ、いきなり話が超私事になったのですが、その両極にあるのが神殿、寺院という建築というのが興味深いのは、ではそれを突き詰めていくと、
その間にあるであろう究極の建築と考えられるものは、神殿や寺院ではなく人々が暮らす住居にこそあるのでは、と想像してみるからです
すると私の実家や誰かの居住する、人の生きる家ひとつひとつ、つまり生きている人がそこで暮らしているという時点で、ど真ん中の究極の建築に当てはまるのでは

年末に、妹の彼氏と一晩話したのだけど、彼は建築の人で、私は建築に全然詳しくないのだけど、究極の建築ってなんですかと聞いてみると、
彼はノートに描き出し、意外なのだけど壁に一枚の平べったい屋根ののった図を描きました
そのことがずっとひっかかっていて、先月インドで知り合った建築系の院生とバスに揺られて2時間半話し込み、そういう話をしていると、建築デザインと機能の差においてのもどかしさというような話になって、これはきっと何をするにしても同じですが、そういう理想と現実、需要と供給、そんな話になります
が、この話に全然オチも答えもない

読んでいる小説は、女子中学生が親と大人の男性のふたりを殺すという話の本なのだけど、
話の本筋とは別に、田舎の子どもが抱く田舎に対する思い(例えば夏休みに都会から自然を求めてくる人たちに対するある種のいらつき)を無駄なく表していていいです

というのも、例えばアリストテレスの言葉にあるように、
『自然は悪魔のようであるが、けっして神々しくはない。
われわれが属する自然は、なんと恐るべきものであるかを痛感せざるをえない。』
のような基本的概念を思い出させてくれたからです


小さい頃多分小3くらいの頃に、海で私の幼なじみが溺れたのですが、
地元の海の中にある岩で、潜ってその岩に近づくと足をひっぱられるという箇所があって、
まさにそれにひっぱられた彼は、ずるずるとアリ地獄のように飲み込まれてしまって、
私はなんとか海から岩場に這い上がって混乱していると、海がまるで盛り上がるようにしてうなり、
直径3mほどのその巨大なうねりの輪の中に彼が浮かび上がって、そしてその輪は彼を沈めず、かといって陸にも近づけず、もて遊ぶように浮遊し、それは本当に海が楽しんでいるかのような光景で、しまいに彼は沖に流されて行ったのだけど、その海の輪はゆりかごのように彼を海に沈めることなく、回転しながら徐々に私の立つ岩場に近づき、彼は岩場に這い上がり生き延びました

自然は美しいというか、やっぱり何をどうこう言っても美しいという人は美しいと言うのだろうけど、
私にとって自然はかなりの割合で怖い存在で、その怖さとは何も包み隠さないということで、
その包み隠さなさが人と違うところで、逆にそこに安心するのですが、美しいというより、できればほどよい距離で、一定の距離を保ってそれに歯向かわずに授かれる恩恵をいただいていたいと思います
が、この話に全然オチも答えもない



なんというかそういうことで、今まさしくぐだぐだです
頭が悪すぎて全然まとまらない感じです

今日は久しぶりに何もしない夜、ゆっくり寝る
明日から整理して組み立て直したい
明日の夜はアラスカであった写真家と飲む予定

アラスカには写真家やカメラマンなどという人がわらわらといるのですが、
アラスカのアンカレジで彼に会って野生動物の写真を見せてもらった時、
写真にもそしてその穏やかかつ秘めたるところのある人間性にとてもピンときたので、
アラスカから帰国した彼と久しぶりの再会を楽しみにしています

酒を飲んでゆっくり話そうと思う


NPFP (The Northen Photography Fandraising Project)

2011年04月07日 | Weblog




こんにちは
そろそろ桜がいい季節です
東京の桜も気づけば、わっと咲いていました とてもきれいです



アラスカでネイチャーガイドなどの活動をされている方から連絡があり、
この度の東日本大震災に関して、

『NPFP (The Northen Photography Fandraising Project:極北を愛する人の東日本大震災写真プロジェクト)』

というプロジェクトを立ち上げられました。
その内容を簡単に説明すると、
「趣旨に賛同してくださった極北を愛する写真家、冒険家、旅人の有志が、素晴らしい極北の写真を提供しております。写真家有志による、アラスカやカナダの美しい極北の写真をPCの壁紙に。対価としてファンドレイジングにご参加ください。」 ということで、
サイトを訪れた人がそれらの写真を見て気に入ったものがあれば、パソコンの壁紙としてダウンロードできます。
ダウンロードした方は、気持として寄付して頂く仕組みです。

寄付はJustGivingというサイトを通して、
シビックフォースと言うNPOに寄付されます。



この活動に関して、私もアラスカの写真(ハクトウワシの写真)を一枚提供させていただきました。

もしよろしければ以下のサイトからご覧になってください。
また、下記URLの下にプロジェクトの趣旨もありますので、興味を持ってくださった方はぜひご覧ください。


http://teratown.com/NPFP/NPFP.html(写真ダウンロード)

http://justgiving.jp/c/6050(寄付受付)



《The Northen Photography Fandraising Project:
 極北を愛する人の東日本大震災写真プロジェクトについて》

全世界の極北ファンの人たちが、「楽しみながら」参加できる、大震災復興ファンドレイジング・プロジェクトを立ち上げました。
趣旨に賛同してくださった極北を愛する写真家、冒険家の方々が、極北の光景写真を、数多く提供してくださっています。
写真は、PCの壁紙等として、自由にダウンロードできます。 ダウンロードと引き換えに、ファンドレイジングにご協力ください。
尚、金額の多寡は問いません。既に他機関への募金、ボランティア等、それぞれに活動されている方も多いかと思います。
ただ、立場を越えた「極北ファン」の繋がりと温かさと力を、募金という形で表明することで、参加者全員が気持ちを共有できたら嬉しいです。
様々な垣根を越えて、極北を愛する人という立場から、震災支援の輪が広がることを祈ります。



Enjoy a beautiful far-north photo from Alaska or Canada as your wallpaper and help restoration efforts in Japan.

The photographers and adventurers who support this project donated many beautiful photographs. You can download them as your wallpaper from this page.

Please send your donation when you download the photos. The size of your donation is up to you. Many of you may have already been contributing to the efforts by donating through other agencies or volunteering. What I would like is to be able to share a common feeling of "relationship, warmth, and empowerment" among all the far-north lovers no matter who and where you are. I would appreciate it if you could manifest the feeling through a donation.

I hope this support network will expand among our people with our common interests.

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多くの方々から寄付やコメントが届き、少しづつ大きなプロジェクトになっているようです。
私も写真を提供させていただき、それが少しでも何かの役に立てばと思っております。
よろしくお願いいたします。
では