Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

朝ドラから大河ドラマへ

2024年08月06日 06時30分00秒 | Weblog
 「紫式部が彰子のもとに出仕したのは、寛弘2年(1005)、もしくは寛弘3年(1006)の年末とされる。
 彰子が18歳か19歳、紫式部が33歳か34歳ぐらい(生年諸説あり。ここでは天延元年(973)説で算出)のときのことである。
 紫式部は、彼女の宮仕えの日記といわれる『紫式部日記』のなかで、彰子を「お気立ては非の打ち所がなく、洗練されて奥ゆかしくていらっしゃるのですが、あまりに控えめになさるご気性」と称している(宮崎莊平『新版 紫式部日記 全訳注』)。
 定子亡き後もなかなか懐妊の兆しがみられなかった彰子だが、寛弘5年(1008)9月11日、21歳のとき、難産の末、一条天皇の第二皇子となる敦成親王(後の後一条天皇)を出産し、道長を喜悦させている。
 彰子はさらに翌寛弘6年(1009)11月25日にも、第三皇子となる敦良親王(後の後朱雀天皇)を産んだ。
 道長は、道長を外祖父とする敦成親王と敦良親王を一刻も早く皇位につかせるため、一条天皇に譲位にするように、圧力をかけていくことになる。
 皇子を二人も産み、彰子もさぞかし安堵したことだろうが、それもつかの間のことであった。
 寛弘8年(1011)5月、一条天皇が病に倒れてしまったのだ。
 同年6月13日、一条天皇は皇太子であった36歳の居貞親王(冷泉天皇の第二皇子。母は、段田安則が演じた藤原兼家の娘・超子)に譲位し、居貞親王は三条天皇となった。
 皇太子になったのは、一条天皇が望んだ、定子の忘れ形見・敦康親王ではなく、彰子所生の敦成親王だった。
 彰子は一条天皇の意を推しはかり、まず敦康親王を皇太子とし、彼が皇位についた後に、我が子である敦成親王に継がせれば良いと考えていた。
 だが、道長は彰子に相談なしで敦成親王を皇太子としたため、彰子は父・道長を恨んだという(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』所収 服藤早苗「第六章 道長の長女彰子の一生 ◎天皇家・道長一家を支えて)。

 私は、「光る君へ」を全くみていないのだが、先日たまたま外出先でテレビをつけたら、「紫式部と藤原道長は近所に住んでいた」という話が出て来たので驚いた。
 また、この番組の中で、磯田道史先生は、「紫式部は、道長の娘:彰子の家庭教師をしており、その教育のために『源氏物語』を書いた」という説を唱えており、これにも驚いた。
 というのは、吉海直人先生によれば、「源氏物語」のストーリーの根幹には、藤原摂関政治に対する批判があるからである(才能による復讐)。
 これを整合的に理解しようとすれば、次のようになるかもしれない。
 すなわち、紫式部は、道長に代表される摂関政治への批判を込めて「源氏物語」を書き、これを、ある意味では摂関政治の被害者でもある彰子に読ませ、彼女をいわば洗脳(ないし救済?)しようとした、というものである。
  ところで、「いけにえの姫」として入内したが、後に「天下第一の母」となり、87歳まで生きたという彰子の人生を概観すると、何だか既視感を覚えてきた。
 そう、懐かしの朝ドラ、「おしん」の一生にどこか似ているのである。
 なるほど、NHKは、かつての大ヒット朝ドラをとことんデフォルメして、このところ不振が続く大河ドラマのテコ入れを図ろうとしたのだろうか?
 もちろん、「光る君へ」を全くみていない私には判断出来ないのだが・・・。

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