Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

ひと夏かぎり

2024年08月01日 06時30分00秒 | Weblog
◆モーツァルト:
ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K. 482*
<ソリスト・アンコール>
シューベルト「即興曲集 第2番 変イ長調 D935,Op.142」 
◆マーラー:
交響曲 第5番 嬰ハ短調
<アンコール>
R. シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」作品59 より ワルツ 

 PMFオーケストラというのは、
 「厳しいオーディションで選ばれた、世界25か国・地域の85人の若手音楽家で編成するひと夏かぎりのオーケストラ。国籍、文化的な背景や言葉を超えて奏でる豊かなハーモニーはPMFオーケストラ最大の魅力。今夜の公演が今年の集大成となる。
ということで、18~28歳のアカデミー生による期間限定のオケらしい。
 この音楽祭には、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルやMETなどの現役やOB(元ウィーン・フィルのライナー・キュッヒルさんも)も参加するということなので、アカデミー生に教えるということなのではないだろうか?(創設者のバーンスタインは、「教育」が目的であると語っていたようだ。)
 というわけで、1曲目はモーツァルトのコンチェルト22番。
 前後の20,21,23番が超傑作なので、演奏頻度が高くなく、影も薄い(私も初めて生で聴いたと思う)。
 ティル・フェルナーのピアノはクセがない清冽な演奏で、なかなか良い。
 1楽章は主旋律がややクドい上、カデンツァが21番に似ていて、既視感を覚える。
 2楽章は、23番(シチリアーノ風)にかすかに似ているが、途中でフルート&ヴァイオリンの二重奏が挿入されるところが独創的な印象。
 3楽章は、これまた23番に似ているが、カデンツァはモーツァルトらしい躍動感があって素晴らしい。
 ソリスト・アンコールはシューベルト「即興曲集 第2番 変イ長調 D935,Op.142」だが、これも落ち着いた、つまり派手さのない曲で、フェルナ―の好みが分かったような気がする。
 メイン・ディッシュはマーラー5番。
 私にとって、「マーラーを聴きに行く」という行為は、中学生のときに受けた貧困トラウマ体験の治療という意味を持っている。
 なので、どうしても、定期的に聴きに行かなければならないのであるが、6月のMETオーケストラのマーラー5番はチケットが高いので敬遠し、こちらを選んだのである。
 ちなみに、ヤニック・ネゼ=セガン 指揮 METオーケストラ来日公演【プログラムB】|秋元陽平を読むと、行かなくて正解だったのかもしれない。
 対する今回のPMFオーケストラの演奏は、私見ではあるけれど、なかなか良かったと思うし、指揮者もアカデミー生も一生懸命に取り組んでいるのが分かる。
 1楽章(葬送行進曲)を聴いていると、マーラーという音楽家が、メンタル面を致命的に病んでいたのではないかということが分かる。
 というのも、負の感情、殆どは”怒り”を表現していると思うのだが、「ここまで激しく/しつこく表現しなくてもいいじゃないか」と感じるくらい強烈なのである。
 もっとも、同じことは、どう考えても渾身の”呪い”をこめて作ったと思われる「さすらう若者の歌」についても言えるのだが(夏のダンス・ウィーク(1)) 。
 そこで思い出したのは、先日ブルックナーの「ロマンティック」を振ったダン・エッティンガ―の言葉である。

 「ブルックナーとマーラー、私は全く違うという意見です。今日、オーケストラの演奏能力は飛躍的に高まり、作曲技法も複雑さを増していますが、結果として、多くのことが似たり寄ったりになりがちで、差異を感知しにくい状況にあります。2人の作曲家は『ドイツ・ロマン派』の枠組みを共有しているだけで、音楽、特にエモーションのあり方は対照的です。マーラーの狂気一歩手前の領域で大きく揺れ動く感情に対し、ブルックナーはエモーションの境界線をよくわきまえ、構造的に組織された枠の中に収め、パワーを発揮します。目下は私自身がブルックナー交響曲全曲サイクルの途上にある状況で、それぞれのオーケストラに固有の響きを確かめつつ、構造美の世界を究めていくつもりです

  やはり、ざっくり言うと、「マーラーは病的だが、ブルックナーは健全」という評価なのである。
 私流に対比すると、「マーラーはマゾヒスト、ブルックナーはサディスト」というとしっくり来ると思う。
 一番分かりやすいのが、例のアダージェットである。
 これは、本来はアルマ・シンドラーへのラブ・ソングとして作られたものだが、初めて聴く人は、おそらく「大切な人を失った哀しみを表現した曲」などと言う風に錯覚してしまいかねない、哀し気な雰囲気を漂わせている。
 これは、マーラ―が、アルマへの恋愛感情を、音楽ではこういう雰囲気でしか表現できないほど自虐的であったことを示しているのではないだろうか?
 ちなみに、ホーネックさんの指揮は、通常のオケよりもややテンポが速めだったが、それでもマーラーから「ゆっくり過ぎる」と指摘を受けたかもしれない(楽譜の解釈(4))。
 ところで、今回私にはちょっとした発見があった。
 4楽章(アダージェット)に「トリスタンとイゾルデ」の「眼差しのライト・モティーフ」が取り込まれていることは広く知られているが、そういう観点から5楽章を聴いていると、「マイスタージンガー前奏曲」のデフォルメされたメロディが聞えてくるのだ。
 なるほど、マーラ―5番の第三部(4・5楽章)は、ワーグナーへのオマージュでもあったということなのか!?
 
 
 


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