オカリナと水泳日記、あ、うつ病と拡張型心筋症なども

病気は「ついで」かい!というようなタイトルですが(苦笑)。
古い記事はうつ病との闘いの記録?や花作りがメインです。

「資本論ブーム」について考える。

2009年12月29日 | 時事ネタ(独善的見解)
またまた久しぶりの「小沢昭一的タイトル」。
例によって内容は大した事ありませんが。

だってびっきぃは経済学出身のくせに「資本論」読んだこと無いんだもーん(ひらきなおり)。
いや、マルクスやエンゲルスの思想のエッセンスは勉強したよ。一応。あくまで一応(笑)。

なのでタイトルをよく見て頂けると判るかと思いますが、「資本論について考える。」ではありません。
「資本論ブーム」について考える、であります。

つまり、なぜに今「資本論」が読まれているのか。マルクス思想が取り上げられるのか、ということを考えてみようじゃないの、ということです。

あ、最初に断っておきますけど、びっきぃは共産主義者ではありません。といって資本主義者(?)というわけでもないし、まして市場原理主義者では絶対に無い、です。
カッコつけて言うと、「共産主義・資本主義を超えた新たな政治経済システムを模索する者」、であります。世界中の人々が不安に怯えることなく生きていける世の中を望む者です。

さらにお断りしますと約5,500字あります。読まれる方は覚悟?してどーぞ(苦笑)。

んで、最近の「資本論ブーム」。少し前の「蟹工船ブーム」に通じるものを感じますね~。
共産主義が失敗に終わったと思ったら、どうも資本主義も怪しいぞ、と。
特に、最近の金融資本主義、搾取的資本主義、市場原理万能資本主義?てのに限界を感じている人が増えてきたってことなんでしょうねえ。

実際、その手の本が馬鹿売れしているわけですし。

んで、なぜに「資本論」か?マルクスか?ということなんですけど。
以降、いつもどおりの独善的見解。

みんな何も「共産主義を見直すべきなのかなあ?」なんて思っているわけじゃないと思うんです。
マルクス思想については、基本的にそのエッセンスはみな知っているわけです。
ただ、資本主義(初期のアダム・スミス的な経済観)ってのをマルクスがどう考えていたのか、そしてそこから共産主義へ至る論理ってのはどんなのだったのかな、を知りたいと思う人が増えてきたのではないのかな、と思うのであります。

さらにいえば、初めての共産主義国家は旧ソビエト連邦だけど、ソ連は帝政ロシアという封建的な旧体制からいきなり共産主義へ飛躍?した国。
そして、競争を前提としない共産主義国家だけれども、競争を大前提とする資本主義の外国とは競争しなければならない、という大矛盾を抱えていたわけですね。

そのような意味で、失敗したからといって共産主義が100%間違っていたとは言えないんじゃないか、とも思えるんです。細かく言えば「マルクス=レーニン主義」が失敗したんだと。

つまり、構造的に独裁体制に行き着いてしまうとか、科学技術などのイノベーションが進まないとか問題点は多々あって、マルクス思想を100%認めるわけにはいかないけど、100%否定もできないな、と。

特に現代の資本主義の堕落(と言っちゃいます。自分さえ、自社さえ、自国さえよければ…、の蔓延のこと。)を目の当たりにしてるとね。

というか、アダム・スミスの「国富論」を盾に富裕層が好き勝手やっていた時代に先祖帰りしているような気がするんですよね。

アダム・スミスは確かに、経済を動かしているのは「利己心」であると「分析」して「利己心による競争が結果的に効率よく社会に善をもたらす(びっきぃの解釈です)」と「分析」したけれど、それはあくまで当時のイギリスの状況とそれまでの経済の歴史を「分析」したものなんですよね。
つまり、今後もそれが唯一の経済の仕組みだ、などとは言ってないわけで。実際アダム・スミス自身は人間の道徳的感情を大切に考えていたように思います。
ただ、こと経済(お金)に関しては「利己心」が最大の行動原理になるということだと解釈しています。

当然ですよね。学問、特に科学的思考、さらに言えば社会科学というのは、ある分野に特化することで普遍的なルールを見つけようとするもの。当然現実は例外事例(もしくは応用事例)のオンパレードになるわけで。
その上で、先人の考えをもとに「発展」していくものが社会科学であり、広くは自然科学を含めた「科学的」なあり方だと思っています。

ところが経済学に関しては、アダム・スミスの後に続く学者や実際の実業家や政治家には「慈善心など不要で非効率で悪」と解釈されてしまったわけで(これもびっきぃの解釈)。

それがようやくケインズ以降、「慈善心…というより財政出動などで市民(労働者)の購買力を高めることが経済発展につながる」という考え方がやっと出てきた。
そして共産主義の台頭を危惧した政治的判断とあいまって、市民(労働者)に対する福祉などが行われるようになってきた。

ところが共産主義が崩壊して、「やっぱり俺たちが正しかったんだ」という意識が資本主義国家に芽生えた。有名なのはフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」ですよね。当時びっきぃも読んだけど難しくてよくわからなかった覚えが(苦笑)。

ま、その辺の「なんでもかんでも善悪二元論」は欧米白人が伝統的に持っている悪い癖(偏見)。

で、偏見はともかく資本主義国家(特に米国)は、ぶっちゃけた言い方すれば調子に乗っちゃったと。
で、アダム・スミス的(というか「国富論」的)市場原理主義が復活、というか勢いを増してきたと。

でもなんかオカシイぞ、と。

実体経済に従属しているはずだった金融が勝手に暴走してバブル起こして破裂して、本来問題無かった実体経済がおかしくなるという最近の状況。
現実的には、昨年「派遣村」で年越しする人たちの姿を見て、なぜこんなに経済発展した国でこんなことが起こるんだ?という疑問。

その辺りが、歴史に学ぼうという人々を「資本論」に惹きつけているのではないのかな?と思うのです。

ただね、びっきぃが思うのは、資本主義にしろ、共産主義にしろ、新しい政治経済システムにしろ、世界中の人々が、お互いの文化や個性を認め合い尊重しあう、という意識にならないと、これからはもう上手くいかないと思うんですよね。

今、資本主義が行き詰ってきているのもそのためだと思うんです。
「今、自分さえよければ」という「先祖帰りの意識」に覆われた世界。むしろ冷戦時代の方がマシでしたよね。

後で大変になることが判っていながら、デリバティブでレバレッジ効かせて(業者は専門用語使ってるけど、要するに一般市民に投資資金を貸し付けてるだけのこと。本来の「レバレッジ効果」というのとは意味が違う。)バブルを起こし、何を作るわけでもサービスするわけでもなく金を殖やす。

それから、派遣労働が原則自由化された時、当初、工場労働者は医療関係者などとともにネガティブリスト(除外業種)に入ってました。
霞が関はわかってたんですよ。工場労働者まで含めると、生産調整で簡単に首切りされてしまう、と。そうなると失業者が増えて国家全体の購買力を減少させ、経済全体がおかしくなると。

自由化の目的はあくまでも産業構造を変えていく為に労働市場の流動化を促進するためだ、と。だから1年以上派遣労働者を雇うなら正社員にしなさい、という条項もあったわけで。

でも、2~3年したら産業界(どことは言わんけど)からの圧力で工場労働者も派遣OKになっちゃった。
つまり「自分の会社さえよければ」で、いつでも労働者の首を切ってコストダウンできるように法律を変えさせたわけです。

んで、昨年大問題になったのが「派遣切り」。今でもニュースにならないだけで問題はそのままでしょう。
この問題(派遣労働対象業種の拡大、派遣期間の延長)は、切られた派遣労働者の悲劇であるんだけど、マクロ的・長期的にみれば、失業者の増大と収益(つーかGDPって言ってもいい)の減少、さらにそこからの労働分配率の減少に結びつきますよね。

つまり「自分の会社さえよければ」で多くの企業が派遣労働者を切れば切るほど、国内の購買力が減るわけで、そうなるとさらに生産調整で人員カット、消費の減少、生産減少…の悪循環。
そうなることぐらい、大企業の偉いさんなら十分判ってたはず。

判ってても「自社さえよければ」で法律を変えさせる。切りやすくなった労働者をあっさり切ってコストダウンする。その結果国内の購買力が減って、「値段下げないと売れない、デフレだ。政府は何やってんだ。」と叫ぶ。ねえ、大企業の偉いさんたち(笑)。

こういう意識をみんなが変えていかないと、どんな体制も上手くいかないだろうし、むしろ新しい政治経済システムなんて生まれないと思う。

本来人間は、お互いを思いやり尊重しあう生物だったはず。
どこで間違ったのかなあ。
やっぱり世界を侵略しまくった中世ヨーロッパ白人とその文化?(大偏見)

さらに言えば、今の経済学ってまだまだ「利己心=自分さえよければ」を暗黙の前提にしていると思うんですよね。
「人間・企業は最大の(経済的)メリットを享受できるように行動する。」といってもいいかなあ。

これは先に書いたとおり経済学の父、アダム・スミスの「国富論」以来の考え方。といってアダム・スミスを批判しているわけではないですよ。「経済」を「科学的」に研究し基礎を創り上げたわけですからね。偉大な人だと思います。
そして当時はまさに「自分さえよければ」の時代。それに則って研究したのは当然のこと。

ただ、問題はその後に続く経済学者たちだと思うのであります。
アダム・スミスが大前提とした「自分さえよければ」の時代背景。そして「過去に起こったこと」を分析・解明する、という経済学のあり方。
そこからほとんど抜け出せていないことが問題なのではなかろうかと。

例えば物理学で言えば、アダム・スミスに当たるのはアイザック・ニュートンでしょう。
でもその後の物理学者たちは、ニュートン力学を基礎にしながらもそれを鵜呑みにしなかったわけですよね。

「謎の現象」が見つかれば、一旦ニュートン力学を横へ置いて、ゼロベースで考え直す。その結果が相対性理論であり、量子論という世界に結びついていったと思うんです。

それと、研究姿勢の問題。ニュートン力学で地球上や太陽系のほとんどのことは説明がつくようになった。でも物理学者たちはそれで満足しなかったわけです。それよりも深いこと、「先」のことを追求した。そうするとニュートン力学では説明がつかないことがたくさん出てきた。そうした姿勢が相対性理論や量子論を生み出し、結果コンピュータやらなんやらが開発されるきっかけになったわけです。

翻って経済学の場合はどうでしょうね。
「バブルがなぜ起こったか。」「デフレはなぜ起こったか。」「景気はどんな風に循環するのか。」etc…。基本的に過去に起こった現象の分析・研究から抜け出せていないと思うんです。

世界中を豊かにするにはどうすればよいか? そもそも「豊か」とは何か、そういったことは純粋に経済学だけを研究してきた学者からは生まれないよね。経済学が社会全体に及ぼす影響はどんどん領域が拡大していっているのに。

今であれば、「仮定として、全人類は利己心よりも慈善心の方が強い。」と、アダム・スミスの大前提をひっくり返してみたらどうなるか、ということを研究してもいいと思うんですよね。

それこそ物理学の「超ひも理論」なんて10次元という突飛な世界を仮定した理論ですもんね。でもそれでいろんなつじつまが合う、という結果になっている(らしい)。証明はできないんだろうけど。

その意味では、マルクスやエンゲルスといった学者(もともと学者ではなかったけど)の「姿勢」は評価すべきだと思うし、その主張の是非は別として、なぜそういうことを考えたのかということを学ぶ必要はあると思うのです。

資本主義の行き詰まりと書きましたけど、もっと砕けた言い方すれば、先進国においてはもうほとんどの産業が成熟化しちゃったわけです。
例えばテレビ。持ってない人が買う新規需要はもうほとんどないですよね。有るのは買替需要だけ。当然新規需要が旺盛な時代と比べれば今の買替需要ははるかに小さい。

それが「成熟化」ですが、日本初め先進国はほとんどすべての産業が成熟化しちゃったわけです。なら当然国内の総需要も減りますよね。そうすると生産も減る。賃金も減る…。どっかで聞いた悪循環ですよね。デフレの悪循環です。

このすべての産業が成熟化した経済をどうすればよいのか、ということを、これからの経済学者には是非研究して欲しい。

じゃないと、金融機関に金が余って、また金融だけで金を殖やすしかなくなってしまう。するとバブルになって、弾ければ株式市場を通じて実態経済がさらにおかしくなる。

もちろん経済学者だけに頼るわけにはいかないですよね。

だからこそ、自分なりの「ユートピア」を見つけるために、「資本論」に手を伸ばす人が増えているのではないか、と思うんです。

そして、「ユートピア」を考えるために「国富論」やケインズ経済学にも興味を持って、「資本論」と比較してみて欲しいなあと思うのであります。

来年はJAZZ&BLUES。

2009年12月29日 | 徒然雑草(オカリナ・ハーモニカのこと)
久しぶりのオカリナ記事です。

ここのところ釣りばっかになってましたからね~。
まあ趣味の世界なので好きにしてればいいんですが。

ということでオカリナの来年のテーマ。
んなものいちいち決めなくてもいいんですけど。

前々から演りたい演りたい、と思っていたジャズとブルース曲に手を出してみようと思っています。…て、思ってるだけ。
だって最近、楽譜作る(オカリナの音域に合わせて移調する)のが面倒なんだもん。
もっとも、メンタル的に回復して楽譜でも作ろうかという気分がでてきたら、当然社会復帰。よって時間が無くなったという状況ではあるんですが。
前の記事の通り、疲労を取るために平日は少しでも早く寝るようにしてますからねー。

まあそれはともかく。
そもそもはメロディー楽器が演りたい、できればテナーサックスが演りたい、というところから始まった今回の音楽生活(?)。

サックスは肉体的に無理ということで、紆余曲折の挙句オカリナに行き着いたのも以前書いたとおりなんですが。
テナーサックスに興味を持つ位なので、もともとジャズやブルースが好きなんです。
といってもまったく詳しくないんですが(苦笑)。

というのは、ジャズ&ブルースって(聴くよりも)演ることが面白そう、という風に個人的に感じているんですよね。

んで、メンタル的に落ち着いてきているし、来年はちょっとずつ楽譜作って吹いてみよう、と。

ただし問題は音色がねぇ。
少なくともノリの良いスウィング系の曲には合わんわなあ(笑)。
ブルースにしても、オカリナの音色の「透明感」とは対極にあるような気もするし(苦笑)。

ま、遊び遊び。

これまで「本当の遊び方(自分の心の底が喜ぶ遊び方、とでも言えばいいのかな)」を知らずに生きてきて、それだけが原因じゃないけどうつになっちゃったわけですからね。

逆に言えばうつで苦しんだおかげで「自分(の心)を大切にすること」の大切さと、それが出来て初めて「他人(の心)も大切に出来るようになる」ことを学んだわけで。

なのでずっと自分のすべてを支配してきた「何をすべきかという思考パターン」は当面封印、というか優先順位を下げます。
「封印」までしちゃうとさすがに社会人としてマズいもんね。

よって(?)、遊びにおいては「オカリナでブルース?ジャス?」という先入観は無視。とりあえず面白そうだから、面白そうに思えたからやってみる。
つまんなかったらやめたらいいだけだし。

今ならハーモニカという手もあるしね。あの頃はテクニックを練習するのが面倒だったけど。。。

とりあえずジャズバラードから曲探しでもしますかね。ぽ~。